明日のカタログ
「お届けものです」
そう言って若い宅急便の兄ちゃんが置いていったのは、注文した通販の商品と新しいカタログだった。
「土曜日の朝ぐらいゆっくりさせて欲しいってのよねぇ……」
そこまでつぶやいて、土曜日の朝を指定したことを思い出す。宅急便が届く時間に家にいないんだものねえ。それにしても楽になったもんだわ。おかげでスーツも靴も全部通販ばっかり。お店に行くのが億劫になっちゃう。
玄関に置かれたダンボールを持ち上げる。よいしょ、と掛け声かけるのも癖だわね、もう。大して重くないのに。
リビングのガラステーブルに置く。ガムテープをはがす。がさがさする梱包材をよけて、商品と注文票を取り出す。個別包装のビニールを剥がして次々とテーブルに並べていく。ほどなく空になったダンボール箱をぽいっとソファに投げて、品物を片付けにかかった。
シャンプーのボトルを風呂場の棚に置いて扉を閉める。片付け終了。
届いたばかりのコーヒー豆をコーヒーメーカーにセットする。いい匂いが立ちのぼり始めるのを確認して、ソファのダンボール箱を畳む。そろそろ次の廃品回収に出さなくちゃ。
テーブルの上のカタログを引き寄せる。分厚いファッションカタログは早くも次の季節を先取りしたものばかり。まだまだ残暑がきついのに、冬物のセーターなんて見たくもない。ソファ横のマガジンラックに放り込む。インナーカタログも今はいいや。ぽいぽい。
生活便利グッズのカタログと、ファンシーグッズのカタログ。それから、表紙が真っ白で、妙に重たいカタログ。
「なぁに? これ」
背表紙も裏表紙も真っ白。ただの白ノート? そう思って、何気なく表紙を開いた。
そこには大きく『あしたのカタログ』とだけ書かれていた。
「明日のカタログ? なんだろ」
コーヒーメーカーが最後の一滴を吐き出した。シリアルとサラダを一緒にトレーに乗せてソファに舞い戻る。
シリアルを一口ほおばってから、カタログをもう一度めくった。『あしたのカタログ』だけが白地に浮かんでいる。
まるでプラスチックの下敷き。そんな手触りの一ページ目をめくる。
『日常に飽きていませんか?』
またまた白紙にこの一行。どきん、と心臓の高鳴るのを自覚して、めくる。
『決まりきった毎日に刺激が欲しいとは思いませんか?』
「思うわよ」
つい独り言。次のページ。
『あなたが思い描く通りの明日を、私たちはご用意します』
「へえ。珍しいサービスじゃない」
ちょっと鼻白んだ。冷めたおかげですこし冷静になれた。要は俳優や子役を準備して、暖かい家族にあこがれる客に擬似家族を体験させてくれるって奴でしょ。
そう思いながらページをめくる。
『俳優や子役を使った疑似体験サービスではございません。本当の明日をお持ちします』
またも心臓がどくんと鳴った。こちらの考えることなどお見通し、というわけか。まさか監視されてるわけじゃないわよね?
気になって、部屋の中を見回した。何も変わったところはない。見慣れた光景。
カタログに視線を戻す。ぺらり。
『なお、お客様専用の試用版をご用意いたしました。ぜひお試し下さい。』
試用版? 一体なんなの?
次のページをめくる。ページが四つに仕切られて、それぞれイラストが描かれていた。
一つ目は花屋で働いている姿。そばにはやさしそうな旦那様。二つ目は課長になって部下に指示を与えている姿。三つ目は個展を開いている姿。絵には破格の値段がついている。四つ目は豪邸で使用人を使っている姿。
「ふぅん。花屋にキャリアウーマンに画家に玉の輿、ねえ」
どれも思い当たることばかり。どこでどう調べてきたのかしら。多少気味が悪い。花屋はプロポーズしてくれた幼なじみ。キャリアウーマンは会社が倒産してなければなってたはずの自分。画家は親に反対されてなければ進んでた道。玉の輿は先日お断りした十五歳年上のお見合い相手。
零細企業のしがない事務職でしかない今の自分がみじめに思えてきた。首を振って頭から追い出す。
「どうせ夢よね。夢なら派手に行きたいわ」
三番目のイラストに触れた。ピ、と電子音がして、他のイラストが暗くなる。なにこれ。単なる下敷きじゃないの? タッチパネルかなにかになってるの?
『お選びいただきありがとうございます』
イラストが消えて、文字が浮かび上がってきた。
『これより試用版の準備を行います。次に目覚めた時より十二時間が試用版のタイムリミットでございます。お試しいただいた後、ご購入いただく場合は別途ご案内致します』
準備? 一体何が始まるのよ。
それ以上文字が変わらないのでページをめくってみた。そこには、試用版を試す場合の注意事項がびっしりと書かれていた。なになに、二十四時間は外部との連絡を取れません? 最長二日間かかります? 自宅でお好きなときに試すことが出来ます?
「そういう大事なことはイラスト選ぶ前に書いてよっ! 明日は予定あるんだから。キャンセルよっ」
注意事項のページには選択後はキャンセルできない、としか書かれていない。他にどこか載ってないか、とページをめくる。
『準備はいいですか?』
「ぎゃーっ! 準備なんかしてないってばっ! あたしはキャンセルしたいだけなのよっ」
前のページに戻ってみる。が、ページはどれも『準備はいいですか?』に変わっていた。
「ちょ、ちょっとっ、やめてってば。知らないっ、こんなの頼んでないっ」
カタログを放り出す。床に落ちた反動でページが閉じた。
「やばっ」
落ちたときの金属的な音に、思わず拾い上げる。壊れてない……わよね?
青い表紙に浮かぶ文字が、なぜかアルファベットになっていた。
「あー、やっぱり。壊れちゃったかぁ」
落としたのがまずかったのよね、致命的に。きっとそう。そうか、このカタログ、コンピュータかなにかが入ってるんだわ。どうしよう、壊しちゃった。どこかに連絡しなきゃよねえ。でも、どこにも連絡先は書かれてないし……あ、通販の会社に聞いてみたらいいのよね。
携帯電話を取り出す。
でも、なんて言うの? ヘンなカタログが壊れましたって言うの? もう一度送ってくれっていうの? 落としたら壊れましたって言ってなんか弁償とか言われたらいやだなあ。こんなヘンなの送り直してくれなくていいし。いっそ送り返したほうがいいのかなあ。それとも、捨てちゃおうか。
「そうだよね」
そうしよう。通販の会社に連絡だけして、壊れちゃったこれは捨てちゃおう。そもそもどこのカタログとも書いてないし。壊れちゃったんだから、さっきのお試し版ってのも無効だよね。きっとそうに違いない。
ほんのすこしの罪悪感とともにカタログをぽいとゴミ箱に放り込むと、携帯電話の通話ボタンを押した。
目覚ましの音に起こされる。薄目を開けて夜光塗料を睨みあげる。長針と短針が頭を垂れている。
「五時半? なんでこんな時間……」
七時半に起きれば会社には余裕で間に合うのに。
首をかしげながら起き上がった。隣で誰かがうめき声を上げる。
「誰っ?」
夕べは誰も連れ込んでないはず。
「誰はひどいなあ。夕べあんなに愛し合ったのに。僕を忘れちゃった?」
寝返りを打つ人影。とんがった短髪とつり目に昔の面影が重なる。
「まさか……江藤君?」
「そういうキミも江藤君だよ」
腕が伸びてくる。強い力で抱き寄せようとするのに抗いながら、まさか、といやな予感がよぎった。
カタログが壊れて、お試し版はキャンセルじゃなかったの?
きっと、これはカタログの一つ目の『明日』だ。花屋を夢見ていた幼なじみと結婚した幸せな明日。でも、あたしが選んだのは違うはずなんだけど。やっぱりあのカタログ、壊れたんじゃないの。
「し、仕事、じゃなかった、店の準備しに行かなきゃ」
とにかく逃げよう。夫と称する人の手から。
「店? ああ、今日は都内の店舗を回る日だったね。キミもついてくるの? 珍しいね」
都内の店舗? 回る? 自分の花屋を持つのが夢だったんじゃなかったっけ。
男は起き上がり、身支度を始めた。
「何するの?」
「もちろん、仕入れのチェックをしにね。見回りに付き合うつもりなら、十二時ごろに来てくれればいいよ。もう一眠りしたほうがいい。十時ごろにヨネさんを寄越すから」
「ヨネさん?」
「キミが気に入ったって言ってた通いの家政婦さんだろ?」
「あ、朝ご飯……作らなきゃ」
「仕入れ終わったら社員食堂で済ますよ。いつもそうしてるじゃないか」
夫だという男は、あたしの額に軽くキスをすると出て行った。
足音が遠ざかるのを聞きながら、黄色い光の中で部屋を見回す。見覚えがない調度品にふかふかの夜具。
あたしの部屋にしては広すぎるわよね。キングサイズのベッドなんか置いたら、それだけで一杯になっちゃうはずだもの。
これは夢なのかしら。あのカタログは思った通りの夢を見せてくれるものだったのかしら。そうだとしたら、それはそれですごい発明なのかもしれない。でも今のあたしには迷惑な代物よね。今日は久々に何もない休みだったから、いろいろ予定をいれてたのに。もう一度寝て起きたら元どおりの日常に戻れるのかしら。
ベッドに横になり、夜具を肩口まで引き上げる。目が覚めたらいつもの日常が待っていますように。そう念じながら。
次に目が覚めたのは十時前。世の中はあたしの願いを聞いてくれなかったみたい。あきらめて起き上がった。
どうやら江藤君は金持ちらしい。クローゼットの中身も、宝石箱の中身も、一介のOLじゃ見ることも出来ないような品物ばかり。
「こんなの身につけたらきっとかぶれちゃうわよね」
つい独り言。それでも服を着ないわけには行かないし。一番地味な紺のスーツと一番小さなダイヤのネックレスをチョイスした。
ノックの音。おそらくヨネさんだろう。応答すると意に反して黒いスーツ姿の細長い人間が立っていた。顔は奇妙な金属のマスクをつけていてまったく見えない。
「誰?」
腰を浮かせて身構える。押し込み強盗?
その人は、ひょろ長い右手をスーツの胸元に入れるとなにやら取り出した。白いもの。ナイフや拳銃じゃないようだ。
差し出された名刺には「株式会社●× 営業担当」と肩書きが打たれていた。聞いたこともない会社名。江藤君のビジネスがらみだろうか。この世界のわたしがなにやってるか知らないし。
「で、何の御用ですか?」
どう対応したもんだろうか、と思いつつ、普段の営業スマイルを浮かべる。と、いきなり営業の男はマスクの額を絨毯にこすりつけんばかりに土下座した。
「大変もうしわけございませんっ、私どものミスでお客様には大変なご迷惑をおかけしてしまいました。もうしわけございませんっ」
最初から最後までびっちり謝罪の言葉で埋められた男の釈明を理解するのは骨だった。
「……つまり、あなたはあの真っ白いカタログを送りつけてきた会社の人間で、不具合があることが判明したので回収に来た、と。ところが、すでにあたしのカタログが動いていて直接会えない状態になっていたから、夢の中にやってきた、と」
「夢というわけではございませんが。あ、これ以上は企業秘密です」
企業秘密、という言葉、もう耳にたこが出来るぐらい聞いたわよ。うんざり。
「つまり、今のこの状況ってのは、すべてお宅の会社の責任ってわけよね?」
「はい。まことにもうしわけありません」
「で、お宅は何をしに来たの? ただ謝罪しにきただけ?」
「いえ、それだけのために危険を冒すようなことは致しません。これからお客様の部屋のカタログを回収するためにお部屋に入らせていただきますが、構いませんでしょうか?」
「この夢は十二時間限定なんでしょ? 目が覚めるまで待ってくれれば直接返すわよ」
「いえ、あの、その……とにかく、カタログを直接止めないとまずいことになりますので」
しどろもどろな様子からして、致命的な部分が壊れてるんだな、こりゃ。
「わかったわよ。元の世界に戻してくれるんならいいわよ」
「あ、ありがとうございますっ」
「ところで、その装置を止める時はあたしはどうしてたらいいのかしら? 装置を止めさえすれば元に戻れるんでしょうねえ」
「それはご安心下さい。わが社の技術スタッフは優秀でございます」
優秀、ねえ。そんな致命的な部分の不具合を見逃す程度では不安が残るわよ。
「それとお客様にはこちらの錠剤を飲んでいただきます。眠っている間に元の状態に戻しますので。もちろん副作用などはありません」
手渡された白い錠剤はラムネに似ていた。
「ふぅん。これ、いつ飲めばいいの?」
「私が立ち去ったらすぐに。それでは手配に戻ります。大変ご迷惑をおかけしてもうしわけございません。快諾いただけて大変助かります。それではどうぞよろしくお願いします」
それだけ言うと、営業の男は風のように立ち去った。
ベッドに戻り、言われた通り、錠剤を口に含んでみる。味もラムネっぽかった。
これで、この夢とはおさらば。こういう生活もいいかなとおもったけど、あたしの世界じゃないわよね。ばいばい、江藤君。ばいばい、キングサイズのふかふかベッド。
ベッドにもぐりこんで、あたしは目を閉じた。
目が覚めると、いつもの狭い部屋の天井が見えた。カーテンの隙間からもれる光。スズメの鳴き声。七時前ぐらいね。
硬いベッドから降りるとくずかごを覗き込んだ。白いカタログを放り込んだはずのそこはからっぽになっていた。誰かがこの部屋に入って持っていったのか、あれはすべて夢だったのか。
マガジンラックには、昨日届いたばかりのカタログが刺さっている。
「ま、夢よね。さ、身支度して、会社いこ」
そうつぶやいてドレッサーの前に座る。覗き込んだ鏡に写った胸元には、一粒のダイヤモンドが光っていた。




