第百六十六話:ノーレ その4
「さて、それじゃあ朝礼を始めようか」
そう言って、義人は朝礼の開始を宣言する。しかし、その表情は僅かに固くなっており、それに気づいた志信が僅かに目を細めた。
「体調でも悪いのか?」
「……いや、昨晩ちょっと夜更かしして眠いだけだよ。体調は問題ないって」
欠伸を堪えるような動作をすると、志信はそれ以上追及せずに口を閉ざす。義人の様子からそれだけではないと感じ取ったが、必要なことは伝えるだろう。そう判断してのことだった。
昨晩はミレイやノーレから話を聞くために夜遅くまで話しており、志信に言った通り義人は強い眠気を感じていた。しかし、眠いからと言って職務を放り出すわけにもいかず、眠気を堪えての朝礼である。
臣下からの報告に耳を傾けつつ、義人は疑問に思ったことを確認して不備がないようにしていく。大体のことは毎日片付けている書類からも知っているが、他人の口から直接聞くのと報告書を確認するのとでは受ける印象も異なる。
報告を聞き終えた義人は、大きな問題が発生していないことを確認すると一つ頷いてから口を開く。
「最後に一つ、国のあちこちにできている“亀裂”についてだけど……あー……」
さてどう話したものかと言葉を濁し、義人は視線を宙に這わせる。ミレイからその存在は秘匿してほしいと言われているため、ミレイ本人の名前を出すわけにもいかない。かといって、“亀裂”に魔物が入らないようにすることを最優先の命令として下した手前、全軍をすぐに撤収させるわけにもいかなかった。
「実は、塞ぐ手立てを見つけてな。ただし、“亀裂”の周囲に人がいると危険があるから、“亀裂”から大きく距離を取った位置で魔物の侵入を防いでくれ」
街や村にある“亀裂”については人目が少ない深夜に塞ぎ、平地や森の中にある“亀裂”については、周囲に人がいなければミレイが秘密裏に塞ぐ手筈になっている。ミレイの腕をもってすれば、“亀裂”から多少距離を取った位置に兵士がいても気付かれずに事を成せると義人は見ていた。
「“亀裂”を塞ぐ手立て、ですか……」
そんな義人の言葉を信じられなかったのか、カグラが声を上げる。報告として受け取り、自身も近場の“亀裂”を見てきたのか、その声には不審の色が僅かに透けていた。
カグラの腕をもってしても、小さな“亀裂”を塞ぐことができるかわからない。試行錯誤し、時間をかければ可能かもしれないが、今すぐに塞ぐのは無理だった。しかし、義人はそんなカグラに相談することなく“亀裂”を塞ぐ手立てがあると言う。
この国で自分以外に“亀裂”を塞ぐという難事を成し得る人物に心当たりがなかったが故の、カグラの不審だった。だが、不意にカグラの脳裏に一人の女性の姿が思う浮かぶ。
「ユキ様に塞いでいただくのですか?」
「優希に?」
何故そこで優希の名前が出るのかと不思議に思いつつ、義人は首を横に振る。“義人が知る限り”では、優希がカグラの前で実際に魔法を使ったことはなかったはずだった。“こちらの世界”に戻ってきた際に優希が魔法を使ったことは話したが、そこまで自在に魔法を操れるわけではない。義人が望めば優希が成し得るかもしれないが、ミレイがいる以上優希に頼る必要もないのだ。
「いや、違う。優希は関係ないよ。まあ、とりあえず二、三日様子を見る。そうすれば、結果が出るはずだ」
「そうですか……」
納得はしてないが、義人の言うことならばのカグラは引き下がる。
その素直な引き際に内心で首を傾げるものの、義人は他に議題がないことを確認してから朝礼を終了させるのだった。
「さて、ミレイは上手くやってくれるかねぇ……」
朝礼が終わり、執務室で一人筆を動かして書類を片付けていた義人は一人呟く。すると、その呟きが聞こえたのか傍にいたノーレが顔を上げた。
「あやつならば上手くやるじゃろう。ユキも大概に規格外じゃったが、あやつはそれを上回る。心配はいらぬよ」
義人の言葉を裏付けるように答え、ノーレは口を閉ざす。しかし、すぐに物言いたげな視線を義人に向けると、いつも通りに政務を片付けるその姿を見てため息混じりに尋ねた。
「……本当に、良かったんじゃな?」
その問いに込めた感情を、一体何と形容するべきなのか。ノーレは筆を止めた義人を真っ直ぐに見つめると、義人も同じようにノーレを真っ直ぐに見返す。そして根負けしたように頭を掻くと、筆を硯に置いて椅子に背を預けた。
「条件付きだけど、好きな願いを叶えてやるって言われてもなぁ……」
口にしたのは、昨晩にミレイに言われた言葉。義人が望むことを、一つだけとはいえ叶える。そう言ったミレイは、限りなく本気だっただろう。余程の無茶を言わない限り、いや、無茶すら貫き、義人の願いを叶えたに違いない。
――そんなミレイに対して義人が返したのは、無言で首を横に振ることだった。
ミレイに望む願いはない。
ミレイに叶えてもらう願いはない。
首を振った後に言葉を重ねて、義人はミレイの申し出を断っていた。
「不老って言われても、俺一人不老になっても仕方がない。ミレイの前で言うことじゃないけど……そもそも、不老なんてゾッとしないしな」
国王としては、これ以上ないほど魅力的な願いかもしれない。歳を重ねても老いることがなければ、いつまでも国王として君臨し、自国を育て導いていくことができるのだ。その点を考えれば、一考する価値はあっただろう。だが、当然のことではあるが周囲の人間はそうではない。義人と違い、時間の経過と共に老い、そしていずれは死んでいく。
「俺は優希や志信と同じように、人間として生きていきたいよ。まあ、不老になったら小雪やノーレとずっと一緒にいられるし、心惹かれる部分もあるけどさ」
それとも、優希や志信も不老にしてくれるのか。そんな問いを投げた義人に、ミレイは穏やかに笑って首を横に振った。そんなミレイを見て、義人も笑ってみせる。
「それならやっぱりいらない。“亀裂”を塞いでくれるのなら、それでいいや」
そう言って、義人は断った。
無論、義人とて無欲などではない。願って叶うのなら、願いたいことはいくらでもある。しかし、“亀裂”の件でミレイがカーリア国に来なければ、この話自体なかったのだ。それならば、最初からなかったと思えばそれほど惜しくもない。そして、ミレイにはカグラを救ってもらっている。
義人達が“こちらの世界”に来る原因を作った存在である以上、何かしらを願っても罰は当たらないかもしれない。だが、義人は何かを願うということをしなかった。
「俺の願いを叶えるぐらいなら、優希や志信の願いを叶えてやってくれよ」
自分以外にも巻き込まれた人間がいるということをアピールする義人だが、優希や志信も自分と同じように答えるのではないかと思う。そんな義人の考えを読み取ったのか、ミレイは笑みを苦笑に変える。
「それじゃあ、“ヨシトの願い”は保留にしておくわ……うん、そうね。その二人の願いも叶えるべきか……また今度お邪魔する時にでも聞こうかしら」
義人の言葉に小さく呟き、ミレイは納得したように頷いたのだった。
そんな昨夜の出来事を思い返し、義人はため息を一つ吐く。
「勿体ないと思う気持ちもある……だけど、元々なかったはずの話だしなぁ」
「そうか……お主が納得しておるのなら、これ以上は言うまい」
穏やかに言う義人の様子に納得を見せ、ノーレは話題を打ち切る。そして、話を変えるべく机の上に視線を向けた。
「それで、お主は先ほどから何をしておるんじゃ? 政務の書類以外にも紙に筆を走らせておったが」
「ん? これか?」
ノーレの疑問に応え、義人は手元の紙を手に取る。紙面には現状のカーリア国の主要な役職や、その役職に就いている人物名、それらの人物の部下に、果ては給与まで殴り書きされていた。その他にも、箇条書きに文章を書き連ねた紙もある。
「召喚国主制を止めた場合の体制や法整備、かかるコスト……金額的な負担のことな。それに、起こり得る問題への対応案を検討しているんだよ」
「召喚国主制を止めた場合、じゃと?」
「ああ。正直に言うと、今後召喚国主制を続ける意味はないと思ってるんだ。ミレイの話を聞いたあとだと尚更そう感じてね。まあ、召喚国主制を止めた場合の周囲の反応を考えると、どうやって提案するかが悩みどころだけどさ」
六百年にも渡って続いてきた風習である。税率を下げた時のように、提案してすぐに実行するというわけにもいかないだろう。しかし、次回の召喚は五十年後であるし、今回義人が“元の世界”に戻った際の混乱を考えれば、提案に反対する者も多くは出ないはずである。
前代国王が暗殺されて十年ほど国の舵取りが難航したことを考えれば、隣国レンシアのように通常の王政国家にした方が国も安定する。そうなると今度は後継者問題などで政争が起こる可能性が高くなるが、そこは新たな国王が上手く臣下をまとめ、適切な後継者を定めれば大きな問題にはなり難い。
そういった趣旨を義人が説明すると、ノーレは小さく頷いた。
「なるほどのう。たしかに、国王が暗殺や病死で亡くなった際に、後継者がいないのでは国も荒れる。召喚国主制ではなく、通常の王政の方がその辺りは適しておろうな」
ノーレはそこまで言って納得の色を見せるが、すぐに表情を引き締める。
「しかし、すぐに実行に移すのは難しいじゃろうな。後継者問題以前に、召喚国主制を廃止するに足る理由も必要じゃ。それに、臣下の反発もあろうて」
かつて王族であったからか、ノーレはすぐに問題点を指摘した。すると、義人はその指摘に対して小さく笑ってみせる。
「ああ、その“理由”は見つけてるんだよ。それに必要なものも揃えてるしな。臣下の方は……これまでの積み重ねの結果が出る、といったところかね」
そう言って、義人は“こちらの世界”へ持ち込んだリュックへと目を向ける。
「ふむ、考えがあるのならば良い。しかし、臣下の方はどうかのう?」
「多数決を採ったら、なんとか賛成を取れるかどうかだろうな。割合は六対四ぐらいで」
そう言って笑う義人に、臣下の賛成を得るための努力を惜しむ気持ちはない。
召喚国主制を廃止して通常の王政にした場合のメリットを提示し、さらに適度の“飴”を与えれば大半の賛成は得られるだろう。
そうやって義人が今後のことを考えていると、その様子から心配することはないと判断したノーレが話題を切り替えるように咳払いをする。
「お主にきちんと考えがあることはわかった。それとじゃな、妾から一つ伝えたいことがってのう」
「ん? 何かあったのか?」
ノーレに関することで何か問題があったのか義人が首を傾げた。ノーレはそんな義人に対して首を横に振ると、義人から僅かに距離を取る。
「ちと見ておれ」
そう言うなりノーレの体が僅かに発光し、淡い光に包まれ始めた。一体何事かと義人が目を細めると、それを見て取ったようにノーレの纏う光が徐々に姿を変え始める。
「……え?」
そして、光がおさまった後で視界に映ったものを見て、義人は思わず呆然とした声を漏らす。
そこにあったのは、一振りの刀だった。鞘はなく、波紋は僅かな乱れもない直刃。刃渡りは90センチほどで、刀身に樋は掘られておらず、適度に反りがある。鍔はあるものの笄櫃や小柄櫃はなく、柄は絹に似た糸が巻かれていた。
宙に浮いて義人の傍へと移動してきたその刀は、刀剣に対して目利きのできない義人でも一目見るだけで相当の業物であると感じさせるものである。
「の、ノーレ……だよな?」
それ以外に思い当たる節もなく、義人は震える声で尋ねた。
『うむ。妾の体……いや、魂と言うべきかの。それが変質して剣精と呼ばれるものに変わったと、鍛冶屋のドワーフが話したのは覚えておるな?』
「あ、ああ……」
ノーレの言葉に混乱しながらも頷く義人。ノーレはそんな義人の混乱振りに、どこか上機嫌な声を出す。
『それで色々と試してみたんじゃが、“妾自身”を刀剣の形に変えることができたんじゃ。ほれ、妾を持ってみるがよい』
義人は言われるがままにノーレを手に取り、そして、驚愕に目を見開く。
「なんだこれ、滅茶苦茶軽いぞ?」
そう言いつつ、試しに二度三度と振ってみる。外見は刀だが、手に持ったノーレは驚くほどに軽い。さすがに『羽のように』とはいかないが、通常の刀の重さに比べればはるかに軽かった。
床を蹴り、右足で踏み込み、今までよりも速く、鋭い斬撃を繰り出した義人は感嘆の混じったため息を吐いて頷く。
「軽くて扱いやすいな。でも、強度はどうなんだろう?」
『妾も『強化』を使えるから、その辺の刀に強度で劣るつもりはない。切れ味も、風魔法を併用すれば軟鉄程度は斬れよう。ただし、“以前”のように下手な受け方をすれば折れるぞ?』
「……もし、今度折れたらどうなるんだ?」
半ば答えを予想しながら義人が尋ねると、ノーレもその問いを予想していたのかすぐに答えを返す。
『あのドワーフが言うには、折れたが最後直ることはないと言っておった』
「それはつまり……」
『死ぬ、じゃろうな』
事もなげに告げるノーレに、義人はノーレを握った腕に無意識に力を込めた。
「ノーレの命がかかっているなら、使う気はないぞ。せっかく剣から出られたんだから、自由にしてくれて良いんだ。ミレイに頼めば、代わりの体ぐらい作ってくれそうだしな」
真剣な声で義人が告げる。今義人が握っているのはただの刀ではなく、ノーレの命そのものと言って良い。それを武器として扱おうとは、到底思えなかった。
そんな義人の言葉に、ノーレはどこか嬉しそうに答える。
『たしかに、今度折れれば妾の命はないじゃろう。しかし、剣から“外”へ出たことで魔法の行使は容易くなっておる。故に、今まで以上にお主の補佐をこなすことも可能で、折れるような事態にはなるまい。それに、妾自身が危険と思えば元の姿に戻れば良い。お主が気に病むことはないんじゃぞ』
「だけど……」
『それに』
義人の言葉を遮り、ノーレは言葉を重ねる。
『―――妾が、お主の役に立ちたいのじゃ』
義人と同じように真剣に、それでいて僅かな照れを含めた声でノーレはそう言った。
「あー……」
その言葉を受けて、義人は視線をノーレから逸らしながら頭を掻く。
嬉しさは、もちろんある。そしてそれ以上に、義人も照れを感じてしまった。
「で、でも、どうして刀なんだ? 前は剣だったのに……」
話題を変えるために特に深く考えずに義人が尋ねると、ノーレは何故か動揺したような声色を漏らす。
『い、以前お主が自分で言っておったじゃろうが……』
「え? 俺何か言ったっけ?」
思い当たる節がなかったため、義人は素直に聞き返した。
『……剣より刀の方が良いと言っておったじゃろう』
ぼそぼそと、囁くようにノーレが呟く。その声はあまりに小さく、聞き取れなかったのか義人が不思議そうな顔をした。
「ごめん、よく聞こえなかった。なんだって?」
『ええい! 何も言っておらんわ!』
場の雰囲気を払うように、自身の照れを吹き飛ばすように、ノーレが声を上げる。
「……ありがとうな、ノーレ」
そんなノーレに対して、義人も小さな声で礼を告げた。ノーレの気持ちが、言葉が、そのすべてが嬉しかったのだ。しかし声を大にして言うのも照れ臭く、思わず呟くような声になってしまった。
その声の小ささに、義人自身も聞こえなかっただろうと判断する。ノーレは特に言葉を返すことなく元の少女の姿に戻ると、先ほどの言葉の勢いのままに扉に向かって歩き出した。
「……ふん。この戯けめ」
義人に背を向けたままで、ノーレも小さく呟く。しかし、その口元は優しげな笑みの形に変わっていたのだった。