第百二十話:国王代理その2
藤倉志信は目の前の事態に困惑していた。
四日ほど前まで義人が使っていたであろう執務用の机には臣下から提出された書類が小さな山をいくつか形成しているが、それ自体はまだどうでも良い。
国王の代理として政務を行い始めてから、書類の山が減るどころか増えているのもまだ良い。志信自身、まだ自分が政務に関わり始めたばかりで不慣れだと自覚している。片付けるよりも、新しい案件の書類が追加される方が早いのは仕方のないことだ。
早朝と深夜ぐらいしか体を動かすことができないが、それも百歩譲って問題がないとする。志信としてはもっと鍛錬をする時間が欲しいのだが、それが原因でこれ以上カーリア国の政務が滞るわけにもいかない。そのため、非常に窮屈な思いをしながらも政務に精を出していた。
しかし、そんないくつかの問題を超える問題が発生してしまったのである。
「何度でも言いますが、このぐらいの判断はできていただかないと困るんです!」
「……シノブは代理として国王を務めてまだ三日ぐらいしか経っていないから、政務で判断を求めるのは酷。それに、シノブはアルフレッド様やカグラ様が許可を出した書類に判を押すだけだったはず……です」
執務用の机を挟み、対峙する二人の人物。片や、『召喚の巫女』にして国王の補佐役であるカグラ。そして、もう片方は魔法隊の隊長であるシアラだった。
カグラとシアラは顔を突き合わせ、十分ほど前から延々と口論を続けている。当初は互いに冷静に話し合っていたのだが、気付けば場の雰囲気は険悪なものへと変わっていた。同室にいる志信やサクラも両者を落ち着かせようとしたが、二人とも聞く耳を持たない。話の内容も当初話していたものから二転三転しており、志信としては頭の痛い限りだった。
「シアラ隊長? 今のシノブ様は国王代理です。呼び捨てにするのはいかがなものかと」
「……シノブが気にするなら改める。でも、シノブは気にしていない……です」
音が立ちそうなほどに視線をぶつけ合うカグラとシアラ。そんな二人を見て、とりあえず書類に王印を捺しながら志信は首を捻る。
「……どうしてこうなった?」
志信は本気で不思議がるのだった。
事の発端は、カグラとシアラによる言い合いが始まる二十分前。内心では辟易しながらも、志信が政務をこなしていた時のことだった。
「シノブ様、こちらの書類についてですが」
それまで自分の政務と併せて志信の政務も見ていたカグラが、不意に声を上げる。その手には志信が印を押した書類が握られており、それを見た志信は首を傾げた。
「それがどうかしたのか?」
「この書類、きちんと内容を確認されましたか?」
そう言いつつ、カグラは手に持った書類を志信へと差し出す。それを受け取った志信は、内心で首を傾げながら紙面へと目を落とした。
「第一歩兵隊の魔物討伐に関する件か……これがどうかしたか?」
内容を読み取りながら、志信は魔物討伐という言葉に少しだけ心が動かされる。異世界での冒険という、年頃の少年が夢想するような話に心が動いた……などというわけはもちろんなく、単純に魔物を相手に戦ってみたいと思っただけだ。
そんな志信の内心など知るはずもなく、カグラは指先で机を叩きながらどこか不機嫌そうに口を開く。
「どうしたも何も、申請された予算が高すぎます。少なくすれば半分、多くても三分の二程度で足りるはずです」
「む……そうなのか?」
カグラの言葉に、志信はもう一度書類を最初から読み直す。
当然の話ではあるが、人を動かすには予算や対価が必要である。カーリア国は召喚国主制という他国に比べても特殊な形態の国ではあるが、その点について差があるわけではない。
人を雇うには金や物が必要であり、人が健康的に活動するには食事が必要であり、人が魔物と戦うには武器や防具がいる。しかも、兵士は基本的に消費するだけの存在だ。農民のように食料を生産するわけではなく、鍛冶師などのように武器を造れるわけでもない。
国内で出没する魔物を討伐するためには魔物が出る場所まで移動しなければならず、日帰りで帰れる場所だろうと食料や予備の武器が必要になる。
「これで多いのか……難しいな。では、少し減らすようにしよう」
志信が小さく呟くと、それを聞いたカグラが眉を寄せた。
「……それだけですか?」
「それだけ、とは?」
「その申請に対する処置は、申請された額を減らして受領する。それだけなのでしょうか?」
尋ね返した志信に、カグラは再度尋ねる。志信はその問いに対して、特に逡巡することなく頷いた。
「ああ」
「……そうですか」
明らかに気落ちしたように肩を落とすカグラ。カグラとしては、志信の回答は不満の残るものだった。
申請された内容を修正してそのまま受領する。もちろん、それも一つの答えだろう。しかし、志信はそれ以外の対応を取ろうとしていない。何故予算の額を多めに申請してきたのか、それを確認しようともしていなかった。
あらかじめ、志信にはアルフレッドやカグラが許可を出した書類に判を押すだけで良いと言ってある。だが、それでも書類に目を通す以上はおかしな点があれば何かしらの指摘がほしかった。
ふと、カグラは視線を宙に向けて思索に耽る。
人には向き不向きがあるが、志信は政務にかけては明らかに後者。本人の技能的にも、前線で武器を振るう方が合っているだろう。カグラとて、それは理解している。だが、義人と同じく異なる世界から召喚した人間だ。カーリア国の形式上、国王の代役としてはこの上なかった。
「……誰だ?」
カグラが思考に沈んでいると、不意に志信が声を上げる。すると、その声に答えるように執務室の扉がノックされた。そして、サクラが応対に出ると魔法隊の隊長であるシアラが執務室へと入ってくる。
魔法隊の訓練が終わった後なのか、いつも着ている紺色のローブには僅かに泥がついており、いつも通りに無気力な瞳もどこか疲労が浮かんでいるように見えた。さすがに失礼だと考えたのか杖は手に持っておらず、三角帽も外して右手に持っている。
「シアラか。どうした?」
「……今日の訓練の報告にきた」
報告と聞いて志信は仕事の手を止めた。そして僅かに姿勢を正すと、シアラへと向き直る。
「聞こう」
「……ん」
シアラは小さく頷くと、今日一日行った訓練についての報告を行う。
報告と言っても怪我人の有無や現状の問題点について話す程度のため、五分もしないうちに報告は終了する。志信はシアラからの報告を聞き終えると、特に問題はないと判断して頷いた。
「その調子で訓練を頼む」
「……うん」
短いやり取りを行い、志信は手元の書類に視線を落とす。
報告は聞き、問題もない。シアラもすぐに退室するだろう。そんな考えを抱いた志信であるが、予想に反してシアラは退室しようとしない。シアラが動かないことに数秒経ってから気付いた志信は、すぐに気付かなかった自分自身の精神的な疲労を自覚しながら顔を上げた。
「まだ何か報告があるのか?」
志信がそう尋ねると、シアラは僅かに視線を逸らす。
何かを言いたいのか、それとも何も用はないのか。多少はわかるものの、未だにシアラの感情が完全に読み取れない志信は根気強くシアラが答えるのを待つ。
もっとも、志信としては仕事の手を止めているとカグラの視線が鋭くなるので、出来れば早めに答えてくれると嬉しかったが。
シアラは時間を追うごとに機嫌が悪くなりつつあるカグラの様子に気付いていないのか、空いた左手で紺色のローブを握り締め、逸らしていた視線を元に戻して志信を真っ直ぐに見つめて小さな口を開く。
「……シノブは、訓練に来ないの?」
その問いに、どんな意味が含まれていたのか。シアラの言葉を聞いた志信は、小さく苦笑した。
「実に魅力的な誘いだが、今は政務を少しでも覚えなくてはいけなくてな。代理とはいえ、ただ判を押すだけというわけにもいかん」
「……そう」
志信の返答に、ほんの少しだけ眉を寄せるシアラ。次いで、疑問らしき感情を顔に浮かべる。
「……でも、昨日より書類が増えてる気がする」
「……仕事の量に対して、俺の処理能力が追いついていなくてな。片付くのはいつになるか」
やれやれ、と志信には珍しく、ため息のような声を漏らす。すると、それを聞いたカグラが無表情で口を開いた。
「ヨシト様は、十年分近くあった仕事を一ヶ月で片付けられましたよ?」
それは、志信の発言に対する不満なのだろう。カグラは“一部”事実を捻じ曲げながら告げる。
十年分と言っても、ある程度はアルフレッドとカグラによって片付けられていた。現在執務机の上に乗っている書類の山が小指の先ほどにしか感じないほどの量があったが、量が多いだけで義人がした仕事は判を押す仕事がほとんどである。
中には文官や武官と協議をして解決しなければいけないものもあったが、そういった難易度の高い仕事については義人はカグラの補助を支えにして片付けていた。
一ヶ月。
言葉にすれば短い期間だが、義人も危うくカグラに物理的に眠らされそうになるほどに仕事漬けの日々だった。義人は仕事に熱中しやすいところがあったのか、それとも政務が性に合っていたのかはわからないが、何日も徹夜をしながら仕事を片付けるという荒行すら実行している。そのため、十年間で溜まっていた仕事を一ヶ月という短期間で片付けていた。もっとも、実質的にはアルフレッドとカグラが片付けていたため、義人が行った仕事量はかなり少ないが、
「召喚当時の時か……すごい話だ。俺には真似できん」
椅子に座って大量の政務を片付けるなど、志信の性には合わない。大量の仕事をこなせば、徐々に義人のように政務に対する能力が磨かれる可能性や政務の面白さに気付くかもしれないが、現状の志信にはそんな未来は見えなかった。
カグラの話に対しても感心するだけの志信。その志信の様子に僅かな違和感を覚えながらも、カグラは志信に仕事を勧めようとする。まだまだ仕事は大量にあり、時間が経てば経つほど増えていくのだ。すると、そんなカグラの動きを察したのかシアラが口を開いた。
「……でも、休むことも大事だと思う」
ポツリと、シアラが呟く。そんなシアラの言葉に機先を制されたのか、カグラは言おうとした言葉を飲み込んだ。そして、一度だけ深呼吸をすると、珍しく食いついてくるシアラに視線を向けた。
「シアラ隊長、現状がどれほど大変な事態か理解されていますか?」
「……うん。王様がいなくなったから、大変」
「そうです。ヨシト様が突然姿を消し、カーリア国の国政が成り立たなくなりました。それを少しでも正常のものに戻すために、シノブ様には頑張っていただかないといけないのです」
少しずつ場の空気が張り詰めてきたのを察したのか、サクラが困ったようにカグラとシアラを交互に見る。しかし、両者ともそんなサクラの動きが目に入らないのか、互いに視線を合わせて言葉をぶつけ合うだけだ。
志信もタイミングを見て止めようとするのだが、話の内容が志信には理解できない、国の運営に関する深い部分へと入っているので口出しもできないのだった。
「……どうしたものか」
他の人間に聞こえない程度の声量で呟き、志信は額に手を当てる。およそ三十分が経過したものの、カグラとシアラの言い争いは未だに途切れることがなかった。
熱くなったカグラがシアラに言葉をぶつけ、シアラはそれを冷静に受け流す。そんなやり取りが続き、さすがの志信も精神的な疲労が重大なものになりつつあった。
こうなれば、アルフレッドを呼んで仲裁してもらうしかない。
志信がそう考え、サクラにアルフレッドを呼んできてもらおうと頼もうとした瞬間、場の空気を無視するかのように執務室の扉がノックされる。その音を聞いたカグラとシアラは舌戦を止めると、一体何だと言わんばかりに執務室の扉へと目を向けた。
「失礼します。本日の訓練の報告に……ん?」
扉を開け、執務室へと入室してきたのは第一魔法剣士隊の隊長であるミーファだった。ミーファは執務室に足を踏み入れたものの、場の空気……鋭い視線を向けてくるカグラやシアラ、明らかに安堵したように息を吐くサクラ、そしてどこか疲れたような表情をしている志信を見て、不思議そうに首を傾げた。
「何かありましたか?」
公私を弁えているためか、敬語でカグラへと尋ねるミーファ。互いに幼少の頃からの付き合いのため、顔を見れば何があったかは大抵わかる。しかし、カグラはそんなミーファから視線を外すと、自分を落ち着けるように息を吐き、一度頭を振ってから執務室の扉へと向かう。
「……すいません。少し、頭を冷やしてきます」
それだけを口にして、カグラは執務室から退室する。
そんなカグラの背を無言で見送り、志信達は顔を見合わせるのだった。
執務室を出たカグラは、ひとまず自室へと移動して深いため息を吐いた。すると、吐いた息は室温の低さですぐさま白く染まり、空中へと溶けていく。
カグラの顔に浮かぶ感情は、自己嫌悪。自分は一体何をしているのかと、再度ため息を吐く。最近、どうにも理性に歯止めが利かないことがあった。今までならば気にしなかったようなことでも、やたらと気にかかるのだ。
志信に当たって何かが変わるわけではない。シアラに噛み付いて、何かが変わるわけもない。そう自分に言い聞かせ、カグラは石造りの壁に背を預ける。すると、背中から氷に触れたような冷たさが伝わり、熱したカグラの思考が僅かに冷めた。
義人がいなくなってから早四日。年を越すまで、あと二日ほどしかない。
新しい年に変われば、それに合わせて様々な仕事が飛び込んでくる。友好国に対しては新しい年を祝うための使者を出す必要もあるし、国内では新年を祝う各地の有力者達が謁見に訪れるだろう。カグラは国王の補佐として、それらに対応する必要がある。
志信を補佐して対応できるか。カグラはそう自問するが、答えは出ない。
もしも国王が代理の志信ではなく義人ならば、カグラは迷うことなくできると頷いただろう。この八ヶ月で、そう断言できるぐらいには義人の補佐に慣れた。しかし、志信の補佐をすることは容易ではない。
「……はぁ……どうすれば良いのでしょうか……」
ため息と愚痴を同時に吐き、カグラは背中を壁につけたまま力を抜いて絨毯の上へと座り込む。そして両膝を抱えると、膝に額を当てて目を閉じた。
厄介なことに、カグラが志信の補佐を難しいと思うのは志信の政治能力の低さが理由ではない。義人以外の人間を補佐するという、その一点だけで志信を補佐することを拒んでいた。
義人達を召喚した当時のカグラならば、そんなことは考えなかっただろう。その頃のカグラは召喚して国王になった者がどんな人間だろうと従い、補佐をしていくという自信があった。例えカグラが幼い頃に接していた前国王のような人間が召喚されようと、何を思うでもなく補佐できるだろう、と。だが、召喚して国王の座についたのはおよそ真逆の人間だった。
カグラはゆっくりと顔を上げると、普段の姿が霞むような緩慢な動きで立ち上がり、部屋の隅に置かれた小物を入れるための棚へと近づく。そして壊れ物でも扱うよう手つきで小さな木箱を取り出すと、静かに開いて中を覗き込んだ。
木箱の中に入っていたのは、髪留めとしても使える落ち着いた色合いの手櫛だった。木を削り、磨いて造ったであろう手作りの一品。木の温かさが感じられる外見を眺め、カグラは視線を虚ろなものに変える。
召喚を行う前は、こんな贈り物をもらえるような人物を召喚できるとは思っていなかった。国王に相応しい人間が召喚されるという口伝があったが、前代や前々代の国王の人間性を考えると信じかねていたのである。
カグラは手櫛を手に取ると、適当に髪をまとめて留めた。そして、ふとレンシア国の城で一緒に踊ったことを思い返す。
「……ヨシト、様」
その時のことを脳裏に思い浮かべ、カグラは花咲くような笑みを浮かべる。
それは実に無邪気で、本当に嬉しそうな、薄暗い部屋の中で浮かべるには不釣合いな夢見る少女の笑顔。
ふふ、と小さく笑い声を上げ、カグラは手櫛を木箱へと戻す。
「さて、お仕事を片付けなくてはいけませんね」
カグラはそう呟いて機嫌良く部屋を出ると、軽い足取りで執務室へと向かうのだった。
“少女”が歪み出したことに気付いた者は、まだいない。
そして、歪みを直し、正すことができたはずの少年も、傍にはいなかった。