朝生輪の博愛刺殺論
朝生 哲平が驚いて目を覚ますと、妹の朝生 輪が胴の上にまたがっていた。
「お兄ちゃん、おはよう」
にっこり笑った輪に、哲平は困惑していた。
「なんだ、これ…」
この時、哲平が驚いたのは輪のことではなく、自分の腹から生えた包丁の柄であった。
まさか日曜の朝っぱらに自分が部屋のベッドの上で刺されて死にかけるなんて、ノストラダムスでも予期できまい。
物語の冒頭から主人公が瀕死状態とはいささか唐突であるが…。
「お兄ちゃん、動いちゃだめよ! いま終わらせるから」
輪は慌てた様子で包丁の柄を握った。
「ぬ、抜くなよ! ち、血が出る、だろ!」
息も切れ切れ哲平は、柄を両手で握る輪を制止した。
幸い、今は大量のアドレナリンが非常出勤しているらしく、哲平は腹に気持ちの悪い異物感があるだけだった。
「―う、うん、分かった。じゃあ入れるねっ」
輪が今度は包丁にグイッと体重をかけようと腰を浮かした。
「ななな、入れるって何でだよ! 早く救急車を呼んでくれッ!!」
と、途端に輪は首を振った。
「それじゃダメでしょ、お兄ちゃんはここで死ぬの!」
………「へ?」
という顔で、哲平は言葉を失う。そう、まさか日曜の朝っぱらに自分の部屋のベットの上で妹に刺されて死にかけるなんて、モーセでも予期できまい。
「お、おま…!! なんでお前に殺されなきゃ、ならねえんだよ? まさか昨日俺がお前のプリンを食べたの怒ってるのか?」
「えッ。私のプリン食べたのお兄ちゃんだったの!? う~ッ!! 痛くしてやる!」
輪が哲平の頬をつねった。
「いや、腹に包丁が刺さったまま、ほっぺ痛がる奴がいるかよ!! ていうか、プリン気付いてなかったのッ!? それじゃないなら、なんで…?」
「私は、お兄ちゃんが苦しむのを見たくないの」
「なるほど、ゴホッ…だから包丁を俺の腹に突き立てたと…。ゴハッ…、なるほどねェ。 ―そんな馬鹿な話があってたまるかァ!!」
哲平が叫ぶと口から血が飛んだ。
「…お兄ちゃん、目鳥さんとまた付き合い始めたんでしょ?」
「そ、それがどうしたって言うんだ…?」
「学生が付き合ったって、どうせ結婚しないで別れるのがほとんどじゃない! 目鳥さんは気分屋だから、きっとお兄ちゃんはボロ雑巾みたく捨てられてるに決まってるわ」
「…決まってねェよ」
「捨てられて傷つくお兄ちゃんなんて、絶対見たくないよ…」
「余計なおせわ…ゲホゲホッ」
「それに、この先、お兄ちゃんは大学受験に失敗したり、会社をリストラされたり、病気に罹ったり、いろんな壁が立ちはだかってるのよ。その度にお兄ちゃんは絶望に打ちひしがれて、自分を偽って、苦しんで…。だから、私がお兄ちゃんを殺してあげる。ううん、お兄ちゃんを殺したいの! これは偽善なんかじゃない、私の純粋な望み! 私がお兄ちゃんの笑顔だけ見ていたいから、お兄ちゃんを殺すの」
「ま、まってくれ、写真の中で笑う俺は、二度と話しかけてこないんだぞ」
「ううん、お兄ちゃんは生き続けるわ。私の、心の中で」
「まだ生きてる人間に使う言葉じゃねえからそれッ!!」
哲平に『走馬灯』という言葉がよぎるが、特に思い出すこともなかったので、栗毛の馬人間が松明を持って走る姿しか頭に浮かばなかった。
哲平は、ここで気を失った。
―朝生 哲平が目を覚ますと、清潔な白いベットの上に自分が横たわっていたらしいのが分かった。
壁にかけてある日めくりカレンダーは、あの日から一週間後の日曜日を示していた。
「…お兄ちゃん」
哲平はビクッとしてベットの脇に目をやる。そこには、中学校の制服を着たままうたた寝する輪の姿があった。恐らくは金曜日の授業を終わらせてから、そのまま哲平に付きっきりだったらしかった。天使の様な寝顔、と言ってもいいような無垢な少女がそこにいる。さらさらした黒髪をそっと撫でたくなる哲平の気持ちは分からなくもない。ポケットにカッターナイフが入っていたので、哲平が速やかに回収しておいた。
「親父め、また事故で済ませたな…」
哲平が忌々しげに呟いた。
「…あ、お兄ちゃん。おはよう」
「おはよう、じゃねーよ。正当防衛するぞコラ」
哲平がそう言うと、輪はエヘへと笑った。哲平は明らかに警戒する様子で輪を見ている。
妹に彼が殺されかけたのはこれで4回目だった。まさかもう、そんなことをしないだろうと哲平が思った頃に、命を狙って来る。むしろ兄妹仲が悪い時程、殺しにかかってくる可能性は低いようだった。
「―それじゃ…
輪がズイッと哲平の方へすり寄ってきた。哲平の頭に松明を持った馬面の死神の姿が過ぎる。
―まさか、まだどこかに武器を!?
身構える哲平の顔に、スッと手を伸ばす輪。
「これは、プリンの分」
哲平は頬をつねられ、「アイテテテテ」と小さな悲鳴を上げたとさ。
一応、前編として「目鳥瞳良の遊園地陰謀論」という別の話があります。
この御話が面白ければ、是非。