第十章:赤い悪魔(三)
フォルティリア公国の首都ファンティーネは広大な平地の中心に造られていた。城壁は高く聳え立ち、深く幅の広い堀で囲まれている。
ボーヴァルエ城が陥落したとの報を受け、クレマンは緊急の軍議を開いた。そしてファンティーネの手前で迎撃することに決めた。
バール街道沿いの平地に、魔術部隊五十を含む五千の兵を配した。バール街道側の城壁の上にも魔術部隊五十を配置し、前方に展開する防衛線を望んでいた。
ボーヴァルエ城陥落から二日後の昼を過ぎた頃だった。バール街道を西に駆ける二十名の帝国兵が、先鋒の公国歩兵部隊と接触した。
開始から乱戦となった。
魔術部隊の攻撃は悉く躱され、弾かれていく。
帝国兵は散開し、個々に魔術攻撃に対した。素早く避ける者、正面から叩き落す者、それぞれのやり方で魔術攻撃を突破し、歩兵部隊へ突っ込んでいった。
ボーヴァルエ城攻略の際には簡易な武器しか持っていなかったが、今は大斧や槍、剣を二つ重ね合わせたものを持つ者もいた。巨大な岩を鎖で括りつけ、それを振り回す者もいる。
常人を超えた力で押し切る帝国兵を目の当たりにして、公国兵の士気は一気に下がっていく。
辺りが血に染まっていく。
数で凌いでいるものの、その数も徐々に減り、戦線が崩壊するのも時間の問題であった。
帝国兵の一人、ひょろりとした長身で瘠せた体躯をしたその兵は、両手に一つずつ槍を持ち、公国兵を次々に貫いていた。首筋の動脈を正確に突き刺し、その度に血飛沫が高く舞い上がる。恐怖した者を追い立て、勇敢に立ち向かう者を一閃の下に葬り去る。更に槍を突き立てた時だった。
甲高い金属音とともに、槍が高く舞い上がった。
弾いたのは螺旋状をした角。現れたのは一角獣――ユニだった。深緑のたてがみが白い身体に映えている。ユニは一声大きく嘶き、戦場にその存在を知らしめた。
その背には白いローブを纏った銀髪の少女――エリアーヌが跨っていた。
エリアーヌは二日前にファンティーネに到着していた。だが警戒が厳しいために街には入れず、外でユニと様子を窺っていたのだった。胸の痛みを覚え、急ぎこの戦場までやってきた。
かつての丘で見た光景が広がっていた。あの時のような思いはしたくないと、恐怖を胸の奥に押しやって、今、エリアーヌは再び戦場に立つ。
エリアーヌはユニの首筋をぽんと叩いて合図すると、その背から跳び下りた。
血を噴き出し、痙攣する公国兵に素早く治癒の魔術をかける。噴き出した血が白いローブを赤く染める。気にすることなく、無防備に魔術を行使する。
槍を弾かれた帝国兵は狙いをエリアーヌに定めた。大地を蹴り、人の能力を遥かに超えた跳躍でエリアーヌを襲う。が、再びユニがそれを防いだ。
エリアーヌは帝国兵には見向きもせず、傷つき倒れる公国兵を次々に治療していく。両手を傷口にかざし、ふうっと息を吹きかけるように深く呼吸をすると、傷口は見る間に塞がっていく。
その光景を呆然と眺める無傷の兵士に後を任せ、別の兵士の治療に向かう。治療するたびに服が赤く染まる。髪や頬にも血が付着していく。
エリアーヌを狙う帝国兵は、悉くユニに阻まれていた。更に大きくなった身体を撓らせ、角の腹で薙ぎ払う。巨大な蹄で蹴り飛ばす。ユニは、ただ少女を守っていた。ただ忠実に、少女に近づくことを許さなかった。
戦場の雰囲気が徐々に変わっていく。
帝国兵に蹂躙され、絶望感すら漂い始めた公国軍にあって、エリアーヌの行為は救いであるはずだった。だが――。
赤く染まった少女が戦場を歩む。詠唱することなくただ手を翳すだけで、瀕死の兵士が次々と息を吹き返す。その光景を、兵士たちはどのような思いで見ていただろう。
血塗られた少女が目の前に立つ。瞬時に痛みが消え去り、身体の中をまさぐられたような感覚が襲う。生を諦めたはずの兵士は、自身の変貌に何を思っただろう。
――赤い悪魔。
その声は、どこからともなく発せられ、誰ともなく紡がれていく。
死ぬことすら許されない。「生きている限り殺され続けろ」と言われているような錯覚。そんな思いを抱く者が呟いた一言。
――赤い悪魔。
それは、戦場に潜むあらゆる負の感情を言葉に置き換えたものだった。
人の力を超えた帝国兵。傷つき倒れる仲間たち。積み重なっていく理不尽な死。それらに対する怒り、悲しみ、恐れ、憤り、諦め。
そう言った形のない感情を、形あるモノに換える言葉。畏怖の対象。逃避の口実。
鈍い音がした。
衝撃の後、頭に重い痛みを覚え、エリアーヌは膝を突いた。頭から血が滴る。横を向いて見上げると、先ほど治療した公国兵が剣を両手で握り締めて立っていた。震えている。恐怖に顔を強張らせている。うまく狙いが定まらなかったのか、剣の腹でエリアーヌの頭を打ち付けたのだった。
エリアーヌは頭を押さえて立ち上がった。混乱しているのだと思った。だから立ち上がって笑顔を向けた。もう大丈夫だと、言ったつもりだった。
だが兵士は、顔に恐怖を張り付かせたまま何事か喚きながら逃げ去った。
エリアーヌは呆然とそれを見送った。理解が追いつかないまま立ち尽くす。後ろから呻き声が聞こえ、我に返った。振り返り、血を流してもがいている別の公国兵に近付いた。腰を下ろし、傷口に手をかざす。
「や、やめ……ろ、やめて、くれ……」その兵士は、目に涙を浮かべてそう言った。
エリアーヌは次に紡がれた言葉を聞いて、思わず手が止まる。
死なせてくれと、そう兵士は言った。悪魔の力で生き長らえても、眷属として一生を過ごすのだろうと。それならばせめて、『人』として死なせて欲しいと。
どのような勘違いをすればそんな考えに至るのか。エリアーヌは唇をかんだ。そして、治療を再開する。
治療を終え、エリアーヌは立ち上がった。別の負傷兵を見つけ、一歩進んだ時だった。
肉を突き刺す音がした。
エリアーヌの胸の中央に、背中から剣が突き立てられている。
たった今、治療を施した公国兵の手にした剣が、エリアーヌを貫いていた。
兵士は痛みという感覚がなくなったことに恐怖した。身体の中で何かがうごめく感覚に怯えた。自分は『人』ではなくなってしまったと。だから、そう、だからこの悪魔を殺さなければ、自分は『人』には戻れない。
「死ね! 赤い悪魔め!」
血走った目で兵士は剣を引き抜くと、エリアーヌを背後から袈裟に斬り付けた。鮮血が舞う。ふらついて倒れそうになるエリアーヌの首筋に、更に剣を振り下ろす。
鈍い金属音がした。
ユニがその角で、剣を弾き飛ばした。
兵士は腰から倒れ、目の前に立つユニの姿を見て、顔を引きつらせて逃げ去った。
エリアーヌはユニの横腹にもたれかかる。何度か深呼吸をして、ユニから離れた。ユニのお腹をさする。大丈夫だと、ユニに話しかけた。
――赤い悪魔!
叫び声がこだまする。
心臓を貫かれてなお立っている少女は、もはや誰の目にも『人』には映らなかった。
エリアーヌを、公国兵が襲い始めた。当然のように、狙いを少女に定めた。
ユニがそれを防ぐ。傷つけないよう、軽く角で払う。それでも公国兵は吹き飛ばされる。
エリアーヌは理解が追いつかない。何故自分は『悪魔と呼ばれている』のか? 何故自分は、『助けた命に殺されそうになっている』のか?
いつの間にか、帝国兵がエリアーヌの側に集まっていた。戦闘を止め、まるでエリアーヌに付き従う従者のように整然と並んで佇んでいる。
エリアーヌは振り返り、帝国兵を一人づつ見た。この人たちは皆そうなのだと、分かってしまった。
どくんと、心臓が跳ねた。
激しい痛みが全身を駆け巡る。
身体の中が熱く燃える。
胸を押さえて蹲る。いけないと、エリアーヌは必死に耐えた。だが痛みは増していく。身体の熱が更に高くなる。
ユニが激しく嘶いた。帝国兵も咆哮を上げる。
「ユニ、だめ! 離れて! お願い……」エリアーヌが叫ぶ。
意識が飛びそうになる寸前で押し留まり、ユニに顔を向けた。ユニと目が合った。
ユニは一呼吸の間、エリアーヌを見つめていた。再び大きく嘶くと、公国兵を跳び越えてファンティーネの向こうへ駆け出した。
エリアーヌの周りを帝国兵が取り囲む。
そして雄叫びをあげ、帝国兵は『人外の徒』に姿を変えていった――。
ファンティーネにある司法庁舎の牢に囚われているカティアの下に、衛兵が数名やって来た。
扉を開け、出ろと低く告げる。牢から出たカティアに手枷をはめる。
おろおろとするギヨに笑顔を向け、カティアは衛兵に理由を尋ねた。「化け物どもの相手だ」との言葉から、カティアはおおよそ状況を把握した。
司法庁舎を出て、用意された馬車に向かう。途中、建物の影に懐かしい人の姿を見つけた。フードを目深に被っているが、見間違うはずはなかった。そしてその人物が何をしようとしているかも察しが付いた。
カティアは歩みを止め、俯いて小さく首を振る。今はまだ早いと、その思いを込めて。
衛兵がカティアの背を押し、馬車へ促した。
カティアが馬車に乗り込むと、馬車は城門に向かって走り始めた。
建物の影にいた人物はそれを見送ると、街の中に姿を消した。
城門の上にカティアは連れて来られた。
苛立った表情を向けて迎えたのはクレマンだった。
少し離れたところに、アンジェリーヌとジェネがいる。心配そうにカティアを見ていた。
「来たか。では早速、役に立ってもらうぞ」
クレマンはそう言って、城門から望む平地を指差した。
その光景を、カティアは信じられない思いで見た。『欠片持ち』が複数いることはわかっていた。だがどうして――。
『欠片持ち』は、様々な姿で公国兵を追い立てていた。
蜥蜴の姿をしながら直立し、剣を振るう者。石のような皮膚と大きな翼を持ち、空から襲い掛かる者。腰から下を蛇に変え、尾をしならせて打ち付ける者。人の姿を留めているのは、たった一人だけだった。
中央に君臨する一つ目の巨人の肩に、赤く染まったローブを纏う少女がいた。
「さあ、『赤い悪魔』共々、あの化け物どもを消し去って見せろ」クレマンは言った。
カティアはまだ信じられないでいた。いや、信じたくなかった。何故あの少女が、エリアーヌが、『欠片持ち』と供にいるのか。
「赤い、悪魔……」カティアは呟いた。
「そうだ。報告によれば、あの娘が戦場に現れてすぐ、帝国兵が皆あのような化け物の姿に変貌したのだ。噂など信じてはいなかったが、なるほど『赤い悪魔』とはよく言ったものだ」クレマンは鼻を鳴らした。
カティアは震える足で進み出た。まだ遠い。ここからでは届かない。だが届く距離に入れば、『欠片持ち』は城壁に取り付いてしまうだろう。あの数を同時に相手になどできないし、そもそも魔力が持たない。せいぜい三体。あれほど強力な『欠片持ち』であれば、本来なら一体でも魔力と体力を大きく削られるはずだと感じた。
そんなことよりも――。
カティアは震えが止まらなかった。力を使い切ることを恐れてはいなかった。もともとそのために生かされ、生きてきたのだから。だがもし、ここであの魔術を使ってしまったらと、それだけが怖かった。
これまでは見ず知らずの人間が相手だった。心に痛みを感じながらも、人とはかけ離れた姿であればこそ冷徹でいられたのだ。恐らくあの少女も持っているのだろう。もし魔術を使ってしまえば、あの優しい心を持った少女をも消し去ってしまうかも知れない。
ぽんと、肩を叩かれた。カティアはびくりとのけぞる。だが耳元で囁くその声に、心の底から安堵した。
「もう無理するな。後はオレがやる」
カティアは首だけ横に向け、その姿を見た。「カミュ」と声を出すのが精一杯だった。さらさらとした金色の髪が陽射しの中、揺れている。紅く澄んだ瞳がまっすぐに正面を見据えていた。笑顔はない。カティアはそれが、気になった。
カミュはその言葉だけを残し、赤茶けた外套をはためかせて、城門を跳び降りた。金色の髪が風になびく。巨大な音をたてて着地すると、混乱する公国兵を飛び越え、一つ目の巨人の前に立った。
『欠片持ち』は突如現れた男の周りに集まってくる。公国兵は我先にとファンティーネに後退していく。
カミュは震える少女に目を向けた。ただ悲しげに見つめると、胸の留め金に手をかけた。ゆっくりと右手でオレストを抜く。そしてその柄を、両手で握り締めた――。
上空で、その光景を見る者が二人。
「どうやらやる気みたいね」赤い髪を掻き上げながら、ラウラが言った。
「あれが、『人』じゃと申すか……」エスメラルダは金色の瞳で見つめている。
「そうね。あれが『神の欠片』ってので変わっちゃったやつらよ。サイクロプス、あの一つ目の奴ね、あの肩にいる子もたぶんそうね。人の姿してるけど」
「あの娘……」
「確かカミュが拾ってきた子だわ。随分懐いてたと思ったけど、今は敵同士か。ちょっとかわいそうね」
「……」
「ちょっと、どうしたのよ?」
「まさか彼奴め、シルヴェーヌに重ねておるのか……」エスメラルダはカミュに目を向けた。
「シルヴェーヌ? 誰よ、それ」ラウラは睨みつけるようにエスメラルダを見た。
エスメラルダは答えない。足元からは怒号や悲鳴が聞こえてくる。『赤い悪魔』という言葉も。
ラウラは視線を外し、下に向けた。
「『赤い悪魔』か。あの子がねえ……。リュリュが追ってたのはアレじゃない筈だけど、どういうことかしらね?」
「愚か者どもが……。いつの時代も人は変わらず、愚かなものじゃの」エスメラルダは吐き捨てるように続けた。
「実に下らん。神じゃ悪魔じゃと、僅かな気休めのために名前を付けておるだけじゃ」
「ま、得体の知れないものだからこそ、でしょうね」
「不快じゃ。妾は戻るぞ」そう言って、エスメラルダはファンティーネの街中へ向けて飛んだ。
「は? ちょ、どうしたってのよ」慌ててラウラは追いかける。
エスメラルダはただ黙って空を翔る。
「せっかくだから見てみたかったのに……。それに、約束のことはいいわけ?」ラウラは呆れたように言った。
「あのようなものが『人』である筈がなかろう? 『神の欠片』とはよく言ったものじゃ。妾の同属の力を得たものに間違いなかろう。どこで手に入れたか知らんが……」エスメラルダは怒気をはらんだ声音で続ける。
――『神族』の肉を、喰ろうたな。
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