第八章:守るべきもの(二)
バンベールに帝国軍が到着した頃、エリアーヌ達はその南方面の草原を北に向かい走っていた。
ラディスを出発してから、カミュのまじないめいた探索で大雑把に方向を定めてジェネ達を追っていたところ、深夜に辿り着いた国境付近の町で不穏な噂を聞いた。国境警備の部隊が急遽召集され、公国領内へ侵攻を開始したという内容だった。そこで国境近辺のミラリアの駐屯地にカミュが潜入し、ジェネたちが既にバンベールに行き着いたという情報を得たのだった。
だが、情報の出所は曖昧だった。ジェネ達の姿を直接見たものはない。情報だけが先行し、バンベールに潜伏しているという内容が根拠なく横行していた。
それでもカティアは「かなりの数の部隊を動かす以上、何かあるはずよ」と主張し、エリアーヌの賛同も得て三人はバンベールへ向かうことになった。
ユニが草原を駆る。その背にはエリアーヌとカティアが乗っていた。カミュは横に付いて同じ速度で走っている。街道を避け、星を頼りにバンベールへ急いでいた。ミラリアの部隊には接触していない。かなり先に進んでいるようだった。
草を伐る音と、風を切る音だけが聞こえる。
最初に異変を感じたのはエリアーヌだった。ずきりと胸が痛んだ。胸の辺りを手で掴む。そして進む先、草むらに潜む無数の『人影』を見た。
ユニが低くうめいた。徐々に速度を落とし、警戒の色を強めながら草原に立ち止まる。
カミュも気付いた。ユニの横に立ち、胸の留め金を外した。ゆっくりと大剣を引き抜く。
風が騒ぐ。草を揺らし、かさかさと音を鳴らした。それに重なるように、獣の唸り声がいくつも這い回って近付いてきた。
赤く濁った瞳が無数に現れた。子牛ほどの大きさをした漆黒の猟犬が、草むらからその姿を現す。十、十五、二十……。黒犬の数は三十に達し、エリアーヌ達を囲むように徐々に広がっていく。
「お前達は先に行け。オレもすぐ追いつく」カミュが大剣を右手に持ち、そう告げた。
「待って、カミュ……。あの子達……」エリアーヌは言葉に詰まった。
黒犬の群れを見ていられなかった。やり切れない思いが、胸の痛みとともに広がっていく。
カミュはエリアーヌに笑顔を向けた。一歩前に出ると、前を向いたままカティアに話しかける。バンベールに到着後に何をすべきかを話した。
「言いたいことはわかったけれど……。もしジェネがいたとして、承諾するかしら?」
「連中はジェネを追ってるんだ。納得してもらうしかないな。何とかがんばってくれ」
「……貴方なら、何とかできるのではないの?」
「さっきまではそれも考えてたんだけどな。こうなっちゃうと多分無理だ」
エリアーヌはそのやりとりの間、じっとカミュを見ていた。表情はわからない。ただその決意に満ちた背中を見て心が痛む。早く行けとのカミュの言葉に後ろ髪を引かれる思いを抱きながらも、ユニにやさしく声をかけた。
ユニは控えめに嘶くと、黒犬を飛び越えて駆け抜けて行った。
エリアーヌは最後にカミュの声を聞いた。ごめんなと言うその声に、胸の痛みが増すのを感じた。
黒犬は追う素振りを見せながらも、一人佇む剣士から視線を外すことができなかった。
カミュは取り囲む黒犬を見回した。何事か呟く。
それを聞いた大剣も呟いた。
「(ワシには理解できんの。優先すべきは何か、分からぬ訳ではなかろう?)」
カミュは笑った。「これがそうだよ。オレにとってはな」と言うと、大剣を両手に持ち替えた――。
バンベールの北門では帝国軍の攻撃が続いていた。
櫓で城壁に取り付こうとする帝国兵を、バンベール守備兵は上から矢を放ち、石や土嚢を落としてなんとか防いでいた。
四将軍を二人相手にしながら持ち堪えている。もっとも、実際に四将軍を相手にしているのはたった一人の魔術師だった。
「やれやれ、厄介な相手だな」ファルコは苦笑いを浮かべながら指揮を執っている。
自ら城壁に攻撃を仕掛けることができない。仕掛けようとすれば、容赦なく風や炎の魔術が襲い掛かってくる。
上空に君臨する白い魔術師が、ファルコにそれを許さなかった。
「クルトを相手にしながらよくやるものだな」ファルコは風の刃を三叉槍で叩き落した。
クルトは防戦一方であった。上空に展開された無数の氷の刃の攻撃を一身に受けている。すばやく躱す。避けきれずに剣で弾くと、氷が剣にまとわり付いた。それを払いながら更に避ける。呼吸を整えつつ、相手の攻撃に集中していた。
リュリュはイオアネスの能力を発動させながら、自身も複数の魔術を織り交ぜて攻撃を加えていた。加えて魔術防壁を展開し、更に飛翔魔術で上空に留まっている。
リュリュは焦っていた。
必殺の覚悟で放った魔術が届かない。仕留めるために行った攻撃が、悉く躱されている。クルトが避ける方向を予測し、ある時は狙って追い詰めようとしながらも、まるでこちらの意図が読まれているかのように躱される。
ファルコはその戦いを注意深く見つめていた。そして、
「そろそろ頃合か……」不敵に笑う。
クルトと目が合った。すかさずクルトに目で合図すると、後方で待機していた残りの部隊に号令をかけた。
帝国兵が雄叫びをあげながら一斉に城門に突進する。
リュリュは慌てて目線をそちらに向ける。氷の刃の一部を放った。その時だった。
「(リュリュ、左に飛べ!)」右手に持った短剣が叫んだ。
激しい衝突音の後、リュリュは魔術防壁が消え去るのを感じた。考えるより先に動いた。左に大きく飛び退く。
直後、空気が破れる音とともに、銀色に輝く切っ先がリュリュの右腕を掠めた。ぱっくりと袖が切れ、僅かに赤い線が腕に表れる。
空中で体勢を崩すクルトを目で捉え、右手をそちらに向けて伸ばした。が、更にイオアネスが叫ぶ。
「(右へ飛べ!)」
今度も反射的に身体を右に滑らせた。左側をとてつもない勢いで何かが通り過ぎた。視線の先には、ファルコが何かを投げつけた後のような格好でこちらに冷笑を向けていた。
クルトは着地すると、ファルコの側に後退した。
「ふむ、……読み違えたか。そろそろ限界かとも思ったのだがね。とてつもない魔力量だな」ファルコが呆れたように顎を撫でた。
「魔術能力に特化した聖剣のようですが、あれだけ使い続けて今だ体力が衰えないとは驚きです」
「さて、どうしたものかな」
「どうやらクラウディアはいないようです。城壁にいる魔術師も一人のようですから、そちらは時間の問題でしょう」
「であれば、このまま押し切るか。あれは我らでなんとかしよう」ファルコは三叉槍を低く構えた。
「では私が先行します」クルトはそう言うと、リュリュの真下に向かって駆け出した。
クルトが疾走するのを見て、リュリュはすばやく詠唱を行い、魔術防壁を展開した。同時にクルトに氷刃を浴びせる。だがまたしても届かない。ファルコにも目をやる。槍を構えたまま不敵に笑う様が不気味だった。
「イオアネス……、どうしよう……」リュリュが不安を口にした。
「(八方塞がりとはこのことだな。今は耐えろ。隙を見つけるしかない)」
相手が時間稼ぎをするのは予想していた。当初はそれにあわせながらも、頃合を見て一気に勝負を決するはずだった。実際、一度はクルトに仕掛けたのだ。だが、それは不可解な現象によって防がれたのだった。
避けることも、弾くこともできないほど大量の氷の塊を一斉に浴びせかけた。確実に仕留めたと思った直後、そのいくつかが『剣でない何か』によってかき消された。
クルトは無傷ではなかった。左腿と右肩を掠め、右肩は肩当を弾き飛ばして肉の一部を抉るほどだった。それでも致命傷は与えていない。動きが鈍ったわけでもない。
イオアネスは警戒していた。相手の切り札。その内容は分からない。だがその実体は予測していた。
城壁の上では、ジェネが襲い掛かる帝国軍に魔術を放ちながら、リュリュの戦いを見守っていた。押しているようには見える。だが、ひやりとする場面もあった。相手が四将軍であることを考えれば、楽観することなどできない。魔力は残り少ない。共鳴魔術はあと一度が限界だと感じていた。
そこへ守備兵の一人が慌てて駆け寄ってきた。息を切らし、すぐに話せる状態ではなかった。それでも途切れ途切れに語った言葉に、ジェネは絶句した。
――東南の城壁に帝国軍が取り付き、一部が街に侵入しました。
別働隊がいた。
広大なバンベールを囲む城壁すべてを守ることは難しい。それでも少ない守備兵をやりくりし、所々に監視兵を置いていた。東南に配置した監視兵は異常に気付くと南門を守る少数の部隊を急遽呼びつけた。その部隊で帝国兵に抵抗していたものの、僅かに突破を許したということだった。
東南側に攻撃を仕掛けた帝国兵はおよそ二百。とても南門にいる二十名足らずの兵で防ぎきれるものではない。既に突破され、帝国兵のほとんどが街に進入しているだろう。ジェネは何も考えられなくなった。呆然と立ち尽くすジェネの下に、更に追い討ちをかける情報がもたらされた。
――南門に向け、大部隊が進行中。ミラリアの部隊と思われます。その数およそ千。
最早、万策尽きた。この上、千の兵を相手になどできるものではない。南門を守る兵はもういない。門も進入した帝国兵に開け放たれているはずだ。ジェネの頭に『降伏』の文字が過ぎった。
と、後方で激しい衝突音が鳴り響いた。振り向くと、魔術防壁ごとクルトに弾き飛ばされるリュリュの姿が見えた。体制を崩し、落下していく。横に目を向けると、今にも突進しそうな体勢のファルコがいた。時間が止まったかのような感覚。無力感に押し潰されそうになる。直後に耳に届いた声に、身体が震えた。
「ファルコ! 退きなさい!」
怒号が飛び交う戦場にあって、凛と響き渡る声音。巨大な馬に跨っていたのは、カティアとエリアーヌだった。
カティアはユニから跳び下りると、着地して剣を構えるクルトに走り寄った。
「どういうことなの? どうして帝国軍がここに――」カティアが詰め寄る。
「作戦行動中です。詳細は作戦終了後にお話します。カティア様は後ろでお控え下さい」クルトは冷淡に言い放った。
「帝国が、フェルディナントが仕組んだことだと言うの!」カティアはまっすぐにクルトを見る。
「おっしゃっている意味がわかりかねます。我らは皇帝陛下の命に従っているに過ぎません」クルトは目を一度閉じて答えた。
話を続ける二人の後ろで、エリアーヌは城壁を見上げていた。
空は闇いままだった。その空を紅に染め上げていた。黒煙が立ち昇っていた。焦げ臭いにおいがした。
視線を横に向けた。城壁に兵士が殺到していた。見覚えのある鎧だった。騒がしい声を立てていた。
もう一度、城壁に目を向けた。先ほどと変わらない光景だった。変わってはくれなかった。
街が、燃えていた。
帰るはずの場所だった。帰ってもいい場所だった。それを――。
「あっ、……、か、は、ぁ……」エリアーヌが苦悶の声を漏らした。
過去のあらゆる悲劇が、エリアーヌの頭の中に襲い掛かってきた。重い痛みが胸を貫く。胸を押さえ、ユニのたてがみに顔を埋めた。息が苦しい。激しい痛みが全身を駆け巡る。頭が沸騰しそうなほど熱かった。汗が吹き出る。それでいて全身が震える。かたかたと歯が鳴った。ぎゅっと目を閉じ、痛みに耐える。
耐えられると、エリアーヌは思った。これまで何度も耐えてきた。だから痛みには耐えられる。耐えられるけれど、心が、持ちそうになかった。
ユニが低く唸る。
降りろと言われた気がして、エリアーヌはずり落ちるようにユニから降りた。地面に腰を落とし、胸を押さえて蹲る。
ユニが鼻を摺り寄せてきた。
心配してくれているのだと感じ、エリアーヌは少しだけ気分が楽になった。ユニに申し訳なく思いながらも、地面に座り込んだままユニを見上げた時、紅に染まる空がまたしても目に入った。
どくんと、心臓が跳ねた。
激しい痛みが全身を駆け巡る。
心が割れる。裂ける。砕ける。――壊れた。
エリアーヌの叫び声が、戦場に響き渡った。
それに呼応するように、ユニが大きく嘶いた。全身の毛を逆立て、激しく首を振る。前足を高々と上げ、更に嘶く。前足を地面に叩き付けると、右の前足で地面を抉った。筋肉が痙攣し、身体が一回りほど膨らんだ。鼻息を荒げると、頭の角をファルコに向け、跳んだ。
警戒を緩めることなく様子を窺っていたファルコであったが、想像以上の速さに三叉槍で受けるのが精一杯だった。ユニの角を槍の先端で挟み込んで威力を弱めたものの、巨躯の突進を抑えきれず、後方に飛び退くことでなんとかその場から逃れることができた。
ユニは止まらない。大地を蹴り上げ、まっすぐに角を突き立ててファルコを追った。が、急停止すると身を翻し、後方から迫る剣戟を角で弾いた。
クルトは身体ごと弾かれた。その威力に驚きを見せながらも冷静に距離を保ち、ファルコとは反対方向に移動して剣を構えた。周囲に警戒を向ける。カティアが現れた。が、クラウディアの姿は見えない。白い魔術師は地上で様子を窺っている。周囲に氷が展開されている。
クルトは剣を構えたままじりじりとユニとの距離を詰めていく。ユニの攻撃が直線的であると判断し、ファルコと挟み撃ちにすればそれほど脅威にはならないと考えていた。
ファルコも周囲の状況を確認し、最も警戒すべき相手に狙いを定めていた。長年の経験が告げる。真っ先に倒すべき相手を一瞥すると、クルトに目を向けた。
クルトが動いた。左右に小刻みに動きながら、ユニの側面を窺う。
ファルコも動いた。三叉槍を構え大地を這うようにユニに向かって疾走する。
リュリュが氷の刃を放った。氷刃はまっすぐにクルトとファルコに向かっていく。
が、ファルコはそれが届く前に直角に進む方向を変えると、思い切り大地を蹴って爆ぜた。
悲鳴にも似た叫び声が聞こえた。「やめて!」と、すがりつくような声が響き渡る。
その叫びはファルコには届かなかった。
ファルコの三叉槍が、肉を突き刺す。槍の先端が胸を穿ち、持ち上げた。三叉槍の中央の穂先が胸の中央で心臓を抉り、左右の穂先は肺を貫いていた。
人影が空中で揺れている。だらりと腕を下げ、目を見開いている。口から滴る真っ赤な血が、ぽたぽたと地面に落ちていく。
ファルコが勢いよく槍を振るう。
貫かれた身体が宙を舞った。穿たれた孔から血飛沫が上がり、弧を描きながら闇夜を染める。
そして、エリアーヌは地面に崩れ落ちた。
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