第六章:カノヴィス平原の戦い(三)
帝都シュルツハウゼンの昼下がり。明け方から降り始めた小雨の勢いが徐々に強くなってきていた。
ローゼマリエは自室にいた。質素な衣装に身を包み、窓の近くにある椅子に腰掛けている。テーブルには侍女が入れた紅茶から湯気がわずかに立ち上っていた。傍らではその侍女が片付けなどを行っている。自分でやれることはやりたいところであったが、侍女の仕事を取り上げるわけにもいかない。しかも無理を言って自分が部屋にいる時にしてもらっていたので、これ以上困らせるわけにはいかなかった。
顔を窓に向ける。窓の向こうは雨が草木を濡らしていた。ローゼマリエは焦点の定まらない瞳を向け、雨音を聞きながら過ぎ去りし日を思い出していた。
出会いと別れ。希望と失意。二つの、異なる愛情。
――妹は、身代わりとなった。
十年前、『生け贄』には自分がなるはずであったのに。妹は命を取りとめた。だが、結果的に妹は『死』と同様の扱いを受けることとなった。いや、それ以上に辛い運命を背負ってしまった。
後悔しかなかった。時間を戻すことができたらと、そのことばかり考えていた。そんな自分を励まし、勇気付けてくれたのは、他ならぬ妹だった。だから諦めることだけはしないと誓った。できることを全力でやろうと心に決めたのだ。
だがそれも、二年前に崩れてしまった。救うことも、守ることもできないまま、妹は雪解けとともに過酷な旅へと赴いてしまった。餞別は武具。気の利かないその贈り物にも、子供のように無邪気な声を上げていた。
自分にはもう何もできないと、ローゼマリエは諦めの淵でその声を見送った。
妹を見送って半年ほど過ぎたある雨の日の明け方近く、ローゼマリエは部屋のバルコニーに不振な物音を聞きつけた。恐る恐る声をかけると、「ちょっと雨宿りさせてくれ」と男の声が聞こえた。男はそれだけ言ってそこから動こうとはしなかった。事情を聞いて呆れた。王宮の敷地内に住む誰かのところに夜這いに行った帰りに、衛兵に見つかって追われていたらしい。相手は誰かと尋ねても、「それは何があっても言えないな。マナー違反だ」と笑う声がした。しばらく話していて男が雨に濡れていることに気付いた。冬も近い時期だったので慌てて部屋に入れようとしたが、「それもマナー違反だ」とまたも笑った。やがて男は「また来る」という言葉を残して雨音の中に消えていった。
それから男は何度となくローゼマリエの自室にやってきた。その度に心が軽くなり、男の来訪を心待ちにする自分に気付いた。
――それはそれで楽しそうだな。
ローゼマリエの目のことを知り、そんなことを男は言った。聞く人が聞けば怒りだすであろう無遠慮で無責任な言葉も、ローゼマリエには新鮮な驚きとともに胸の奥底に染み込んできた。
いつの間にか身の上話をするまでになった。すべてを話すことはできないまでも、自分が犯した過ちで大切な家族が苦しんでいること、その家族とは離ればなれになってしまったこと、そのことを後悔し、どうにもならない状況に絶望していることを話した。
――幸運ってのは待ち構えてないと捕まえられないんだぞ。逆に不幸ってのはちゃんと避けないとどんどん引っ付いてくるんだ。
ローゼマリエの話を聞いた男はそう言った。「オレは風まかせだけどな。そっちの方が面白いから」と笑って続ける男に、ローゼマリエは思わず噴き出してしまった。もう一度、できることをしようという思いが沸き上がってきた。
――オレを呼ぶ『声』がするんだ。
その言葉を残して男は去って行った。最後に無理を言って一夜を共に過ごした。後悔はなかったが、伝えたい言葉を一つ残してしまったのが残念でならなかった――。
侍女が部屋から出ていった。ローゼマリエは部屋で一人、雨音を聞く。
あの時の人が今、妹の側にいると聞いている。自分の妹であるとは気付いていないと思う。それでも。
カミュならば、きっとカティアを守ってくれる――。
――カノヴィス平原南東の丘。
何度目かの魔術詠唱を終え、ジェネは額に汗を滲ませて正面を睨みつけていた。両軍の兵士が無数に横たわる光景が広がる。自身が手にかけた帝国兵の姿は、もはやどれかわからない。目を覆いたくなる思いに囚われながらも、クラウディアの鬼気迫る活躍を見てそれを押さえ込む。
後方から叫び声が聞こえた。続いて怒号。金属音も鳴り響く。振り向いたジェネは目を疑う。横にいたオーギュストも絶句していた。
巨躯を躍らせ、巨大な斧槍を木の枝の如く振り回す大男がいた。遠巻きに槍を構える守備兵を事も無げに叩き潰している。鎧は用をなしていない。斧槍をまともに受けた身体は二つに分断され、臓腑が飛び散る。掠っただけで腕が飛ぶ。大男は斧槍の鉤爪で守備兵の胸を抉って引っ掛けると、そのまま離れた場所で詠唱中の魔術師に投げつけた。ぐしゃりという音が聞こえてきそうなほどの勢いで、その魔術師は押し潰された。
もはや人には見えない。山賊の砦にいた魔獣以上の威圧感を放ち、次々に守備兵をなぎ倒していく。
「ジュヌヴィエーヴよ、魔術隊をまとめ、後退するんだ」オーギュストは優しく告げると、剣を構えた。
「ダメ……、お父様、あんなの、イヤ……」ジェネは言葉にならない。
「指揮官たるもの範を示さねばな。僅かにでも食い止める。魔術師は公国の要。少しでも生き延びさせねばならん。わかるな……」
ジェネはただ首を振るだけだった。
「ベルジュラック卿!」カティアが丘をかけ上ってきた。
「正面にも四将軍の一人、クルト・ザカが現れました。父も混乱してしまって……。もう持ちません。撤退しましょう」
オーギュストとジェネは振り返り、クラウディアと斬り結ぶ騎士の姿を見た。
「なんと……。ジュヌヴィエーヴ、すぐに――」オーギュストの声を、カティアが遮った。
「すみません。ベルジュラック卿、お嬢様を少しお借りします。指揮はベルジュラック卿がお執りになり、魔術部隊をまとめて下さい。私もこちらで援護します」カティアはジェネに向き直り、続けた。
「ジェネ、お願い。クラウディアを助けて。前に貴女が言っていた魔術、あれで、お願い、彼女を助けて……」
美しい顔を歪ませ、今にも泣きそうなその深緑の瞳を、ジェネはまっすぐに受け止めた。全力で迷いと恐怖を押し戻し、全身を奮い立たせる。
「わかった。それじゃあ貴女にはエリーをお願いするわ」ジェネはそう告げると、丘の北東に向けて斜面をかけ降りた――。
クラウディアが爆ぜる。
全力の斬撃をクルトは正面で受けた。ギリギリと互いに押し合う。
帝国兵は進軍を止めていた。公国兵も遠巻きに騎士同士の一騎打ちを見守っている。下手に近づけば巻き添えを食うと、両軍の兵は感じていた。
クルトは勢いをつけ、クラウディアを弾き飛ばした。着地したところへクルトが跳びかかる。クラウディアは中段に構えて迎え撃つ。クルトは剣を両手で持ち、切っ先をまっすぐにクラウディアに向けて突っ込んだ。クラウディアは僅かに切っ先を下げると、クルトの刺突を上へ弾く。返す刃でクルトの首を狙う。クルトは頭を下げて躱すと、剣を引き戻して横に向け、胴を薙いだ。クラウディアも強引に剣を引いてそれを受ける。またも鍔迫り合いのかたちとなった。
「無駄だ。早く降伏しろ。グスタ将軍が容赦ないことは知っているだろう」クルトが言った。安い挑発だという思いはあったが、今のクラウディアには効果的だと判断しての発言だった。
クラウディアの眼に怒りの色が増した。後方に跳び退くと、中段の構えのまま呼吸を整える。遠くで何か爆発するような音が響いた。
次で来る。そう直感し、クルトも中段に構えて跳んだ。クラウディアも跳ぶ。
衝突まで数歩というところで、クルトの上方に三つの刃が現れた。脳天と左右の肩口を目掛けて、斬撃が放たれる。クルトはそれに気付いた。が、避ける間はない。対応しようとすれば、正面から迫るクラウディアに斬り伏せられるのは目に見えている。それを――。
光が弾けた。同時に甲高い金属音が三つ響く。クラウディアがそれらを認識した時には、クルトの剣が間近に迫っていた。鈍い金属音と重い衝撃とともに、パリパリという音が聞こえた。互いの剣が交差する。まっすぐに自分を見据えるクルトを、クラウディアは信じられない思いで睨み返す。何が、起こった? 崩れそうになる両足に、震える両腕に、残り僅かとなった力を込める。
マルガリテスの能力を発動したはずだった。
マルガリテス本来の能力は『空間記録』。最高難度の『時空制御』魔術の一つであり、この千年の間に人間が扱ったという記録はなく、認知すらされていない。対象は自分自身に限られ、制限も多いが、特定の行動を空間ごと記録し、時間を遅らせて実行したり、別の場所に出現させたりすることができる。
聖剣としては、斬撃を記録して任意の時間にそれを呼び出すという能力である。記録した斬撃を別の場所で呼び出すことも可能であるが、その場合は斬撃の威力が半減するなど制約がある。以前カミュに対して行使したのは前者。そしてクルトに対して発動したのは後者であった。威力は落ちてはいたが、容易に防ぐことができるものではない。
「勝負はあった。剣を納めろ、クラウディア」クルトはそう言うと、クラウディアを突き飛ばした。
クラウディアは容易く弾き飛ばされた。よろめきながら着地する。膝を折ることは耐えたが、両足は震え、剣を持つ手も下がっている。
「マルガリテス!」クラウディアが叫ぶ。
「(クラウディア、無茶です。もう……)」悲痛な声が、クラウディアの手元から漏れる。
クルトはその様子を見て、切っ先を下げた。周りに聞き取られない程度の声音でクラウディアに語りかける。
「クラウディア、君を殺して聖剣を奪うよう言われている。だが、君がこちらに来てくれるならその必要はなくなる。フェルディナント様もご理解下さるはずだ。悪いようには――」
「黙れっ! 貴様の言葉など信用できるものか。カティア様を裏切っておいて、よくもそんなことが言えたな」
「それは違う。君たちこそ現実を見ろ。フェルディナント様が間違っていると言うのなら、なおさら側にいるべきではないのか?」
「何を……。カティア様を遠ざけたのはあの男の方ではないか!」
「だからこそだ。君たちのことはなんとか取り計らう。今は従ってくれ。カティアの……カティア様のことも――」
「軽々しく、その名を口にするな!」クラウディアは渾身の力を込めて飛びかかった。
「くっ……」クルトは眉根を寄せて唇を噛みしめた。やむを得ない。相手の腕一本を折るようなことになるかもしれないが、力ずくでも止めるしかない。クルトは意を決し、クラウディアを迎え撃つ。
また、約束を破るのか。クラウディアの脳裏に、その言葉が浮かんだ。だが、もうどうすることもできない。降伏すれば、一時的にでも命は助かる。それで出撃前の約束は守れる。しかし、それはカティアの信念を裏切ることになる。それだけは、できなかった。
クラウディアの斬撃がクルトを襲う。右上段から袈裟に斬り付けた。クルトはそれを全力で弾き返そうと剣を振り上げた。鈍い金属音が響く。結果は分かりきっていた。互いに、どうなるかは分かっていた。だが――。
「な、……にっ!」
声はクルト。驚愕は互いから。そして弾き飛ばされたのは、クルトの方だった。
クラウディアが金色の光に包まれていた。
クラウディアの全身に力が漲ってくる。体力が回復しただけではない。聖剣により引き出される以上の力が、沸いてくる。
クルトは体勢を立て直し、クラウディアを見た。身体強化? まさか。クラウディアが魔術を扱えないことは知っている。では一体何だというのか。クルトは目の端に何かを捉え、視線を丘に向けた。黒のローブを纏った魔術師が、右手を前に突き出してこちらを見据えていた。
クラウディアも警戒しつつクルトの視線の先を追う。ジェネがいた。クラウディアの視線に気がつくと、ウィンクをして不敵に笑った。
――共鳴魔術。
失われて久しい古の魔術。『他者』の能力を一時的に向上させ、体力や魔力をも回復する。自身に対してしか行えない身体強化の魔術とは根本が異なる。筋力や耐久力、体力といった身体能力はもちろん、魔力や魔術の威力をも強化することが可能であり、練度が上がれば複数人に対して同時に行使することもできる広範囲魔術でもある。
他者の精神や肉体に関する構造や癖といったものを直感的に把握する能力が必要となるため、極めて特殊な才能と資質が求められる。故に共鳴魔術を扱える人間はその時代でも極少数に限られ、次第に伝えられることがなくなっていった。文献としてもその存在が記されている程度であり、『失われた魔術』の一つとして数えられている。
ジェネは独学でこの魔術を修得した。文献の片隅に記された共鳴魔術を独自に、それでいて正しく解釈して自分のものにした。それだけではなく、四大元素魔術を含め数多くの魔術を修めている。驚くべき才能であるが、本人は「すべて中途半端」と劣等感を抱いてさえいた。
クラウディアが跳ぶ。上下左右からの連続攻撃。クルトは受けるのが精一杯だった。クルトは大きく跳び退いた。再び丘の魔術師を見た。視線の先の魔術師が何かしているとクルトは理解しつつも、クラウディアを抑えてその魔術師を倒すのはリスクが高いとも感じていた。クラウディアの説得もマルガリテスの奪取も困難となった以上、ここで戦闘を続ける意味はない。撤退の命令を下そうとした時、丘の南側からその合図の矢が上がった。まさか。クルトは言いようのない不安を振り払うように「退け! 後退する」と叫んだ。
帝国兵が整然と後退していく。クルトはクラウディアに身体を向けたまま徐々に離れ、素早く身を翻すと森の奥に消えていった。
クラウディアは追わない。クルトの姿が見えなくなるとすぐに丘をかけ上がった――。
――カティアがジェネを見送った直後。
ジェネが走り去ってすぐ、カティアは近くの守備兵にエリアーヌを保護するように伝え、自身は弓を手に南側斜面に向かった。
グスタは魔術攻撃を受けて足を止めていた。もっとも、魔術を斧槍で叩き落とすという人間離れした方法で防いでいる姿は、守備兵や魔術部隊に恐怖を植え付けていた。
カティアは矢をつがえた。傷を負わせられるとは思っていない。それでも牽制の役割くらいは果たせると考え、狙いを定める。矢を、放った。
グスタは音だけで反応した。斧槍を振るうと、カティアが放った矢は力なく四散した。百戦錬磨の戦士にとって、通常の弓攻撃は牽制にすらならない。グスタは矢が放たれた方向を見た。そして、カティアの姿を捉えた。
グスタから殺気が薄れる。よく似ている。視線をカティアの手元に移すと、一瞬、目を閉じた。再び目を開いたグスタから殺気が溢れ出す。まっすぐにカティアを見据えた。
グスタの視線が自分に向けられたのを見て、カティアは自身が狙われていると直感した。理由はわからない。わからないが、それを受け入れていた。もう一度、矢をつがえる。無駄だとは分かっているが、抗うことを止める訳にはいかない。狙いを定める。その時だった――。
ドォォン!
グスタの後方から、爆発音が響き渡った。空気がびりびりと震え、大小の石や土の塊が飛び散る。
「よう、おっさん。相変わらず元気だな」
土煙の中から、暢気な声が聞こえた。
「カミュ……、ファーネルか。……何故、こんなところにいる?」グスタは顔だけを声の主に向けて言った。地面が大きく抉れているのが見えた。殺気は消えていた。
「たまたまだ。通りがかりに知り合いが困ってるのを見つけちゃったからな。素通りってわけにはいかないだろう? まあ、なんか意図的なものを感じなくもないんだが……」
カミュは右肩に大剣を担ぎ、左手で頬を掻きながら答えた。更に続ける。
「悪いんだけどさ、退いてくれないかな?」申し訳なさそうに笑った。
グスタはカミュを見据える。一呼吸の後、号令を下した。
「森の側まで退け! 警戒しつつ待機だ!」
帝国兵は森の入り口付近まで広がりながら後退した。オーギュストは理解が追いついていないながらも、それに併せて公国兵に待機を命じる。魔術部隊を後方にまとめ、撤退しやすい状況を作る。エリアーヌの姿もそこにあった。
「お、言ってみるもんだな。ありがとうな」カミュは照れたように笑う。
「貴様が現れた以上、戦にはならん。それに、優先順位というものもある。アレを始末するよりも、こちらの方が重要だ」グスタは帝国兵が待機状態になったことを確認すると、身体をカミュに向けた。
「『始末』って、……あれ、カティアだよな。なんか恨みでもあるのか?」カミュはグスタの後方に目をやり、首を傾げた。
「こちらのことだ。そんなことよりも、重要なのは貴様だ」
「オレ? なんか用事でもあるのか?」カミュは首を捻る。
「ローゼマリエ様がお待ちだ。ワシとともに来てはくれんか」グスタはまっすぐに、カミュを見る。
「う、その名前を出すのかよ。……っていうか、あいつ怒ってないのか?」カミュはバツが悪そうに目を逸らした後、グスタに向き直ってそう言った。
「何か怒らせるようなことでもしたのか? 姫様が滅多にお怒りになることがないことくらい、知っているだろう」グスタは意地悪く笑った。
「勝手にいなくなっちゃったしな。まあ、怒ってないならいいや。今は立て込んでるから無理だけど、その内遊びに行くって伝えておいてくれよ」
「……わかった。伝えておこう」
グスタは一度目を閉じた。しばらくの後、目を開いて斧槍を高く掲げた。
「全軍撤退する。撤退の合図を上げろ!」
グスタはそう叫ぶと、丘の上を一瞥して森に姿を消した。
撤退を知らせる矢が、空高く放たれた――。
――カノヴィス平原の上空。
ラウラとリュリュを乗せた魔獣が悠々と翼を広げ、空を駆けていた。
「アイツだけ置いていってよかったのかしらね?」ラウラが尋ねた。
「本人が……言うのですから、……仕方ありません」リュリュが小さく答える。
「アンタが問答無用で攻撃すると思ったんじゃないの?」カラカラとラウラは笑う。
「貴女が……相手をちゃかすのではないかと……心配したのではないですか?」リュリュは無表情のままそう言った。
「あら、アタシは空気を読める方よ。おっ、見えてきた。何だ、公国軍が押してるじゃないの。何もする必要ないんじゃない?」
ラウラの問いには答えず、リュリュはバール街道での戦闘を眺めていた。帝国軍の騎馬隊が後退している。帝国の歩兵部隊も止まっていて、一部は公国軍に背を向けている。上からでも混乱している様子が見て取れた。対して公国軍は騎馬隊を追い立てるように進んでいた。どちらが優勢かは、素人目に見ても明らかだった。
ふと、リュリュはそこから少し離れた場所の上空に何かを見つけた。
「……。あれ、何でしょうか?」リュリュはその場所を指差した。
「んー? 人、……みたいね。三人いるわ。怪しい連中ね」ラウラは目を細めて答える。
「行って……下さい」
「面倒事は御免だからね。いきなりぶっ放したりしないでよ」ラウラはしぶしぶといった様子で魔獣に合図する。
魔獣は三人の魔術師の近くにたどり着くと、その周りをぐるりと旋回した。フードを被った魔術師達は様子を窺っている。
「あなた方は、……帝国の人ですか?」リュリュが精一杯、大きな声で尋ねた。
「そなた達の方こそ何者だ。異形の獣を従えて、何をするつもりだ」中央の女性魔術師が言った。
「今のところ何もするつもりはないわよ。あー、アタシは無関係だから、気にしないで。トロくて話難いかもしれないけど、話はこっちとしてね」ラウラはリュリュを指差して答えた。女性魔術師を見てはいない。鋭い視線を別に向けていた。
女性魔術師――アヌシュカはフードから僅かに目を覗かせた。漆黒の瞳を魔獣とその背に乗る二人に向ける。既に自分の役割は果たしている。魔力も残り少ない。恐らく公国の手の者ではあるだろうが、今ここで戦う必要はない。そう、アヌシュカは考えた。
「姫殿下、ここはワタシめにお任せ下さい」
アヌシュカの傍らで飛翔魔術を行っていた男性魔術師の一人はそう言うと、空中を進み出て、魔獣とアヌシュカの間に立った。背中を猫のように丸めており、一見すると背丈は普通の男性のようであった。
「ふむ、よかろう。そなたに任せる」
アヌシュカはそう言うと、もう一方の男性魔術師に目で合図した。その魔術師は詠唱を始める。
「待って下さい。……まだ、話は――」リュリュの声を、ラウラが遮った。
「そうね、そうしてもらえると助かるわ」殺気を視線に絡みつけ、目の前の男性魔術師に突き刺した。他の二人には、用はなかった。
アヌシュカは飛び去った。ラウラは視線を外さない。リュリュは内心で戸惑いながらも、その様子を無表情に見据えていた。やがてラウラが口を開いた。
「アンタ、何者よ」ただそれだけを告げた。他のことに興味はない。
「さあ、誰でしょう? わかりますか? ワタシは知ってますよ。当然です。自分のことですからね。ただの魔術師です。ホントですよ? でも、自分のことはわからないものです。ああ、そうですね。わかりませんよね? さて、ワタシは誰でしょう?」楽しげに嗤う。背筋を伸ばしたその魔術師は、相当な長身であった。
「ふざけてんじゃないわよ! アタシの大嫌いな臭いプンプンさせて、『ただの魔術師』だなんて言わせないわよ」
「臭い? 何か臭いますか? おかしいな。ちゃんとお風呂には入ってますよ? でも、なるほど、さすがに『魔女』と呼ばれただけのことはありますね。ジラ・オルコットさん。今は違うお名前でしたっけ? ああ、『魔女』は関係ないか」両手を大きく広げて、魔術師は更に嗤った。
「アンタ一体――」
言いかけて、ラウラはリュリュを抱えて魔獣の背中から跳び退いた。瞬時に飛翔魔術の詠唱を行い、宙に浮く。
魔獣が、空中で停止した。目を見開き、口を開けたまま、翼はもちろん、口から垂れた涎すらも、空中で固まっていた。ギリギリと鈍い音がした。魔獣の首が回転を始める。首を中心軸として右ねじの方向に回転していく。そして一回転する手前で、ぶちぶちという音を立てながら、胴から無理やり捻り取られた。魔獣は霞むように、その姿を消した。
ラウラは苦痛に顔を歪め、草原に降り立った。召喚獣を失った『対価』が胸を刺す。リュリュから手を離し、腰の位置まで伸びる草を手で払う。魔術師を下から睨み付けた。
「冗談じゃないわ……」思わず呟いた。
『空間凍結』の魔術。それを扱える者がいることにも驚いたが、その上で物理的に干渉するなど、最高位の魔術師でもできることではない。しかも、「詠唱していない……」口にした自らの言葉を反芻する。リュリュをちらりと見た。可能性はある。だが、これほどまでにあの臭い――人の血の臭いを纏った人間に、『神』と目される聖剣が力を貸すだろうか。そこまで考えてラウラは自嘲した。聖剣のことを僅かでも『神』などと思っていた自分が可笑しかった。聖剣が常に人の側にあるとは限らない。ラウラはそう考えていた。
「リュリュ、援護して。久々に本気出すわ」言って、ラウラは右手の親指に歯を立てた。血が滴る。
「おや? いいんですか? こんなところで派手にやると、あちらでお仕事中の皆様のお邪魔になりますよ?」魔術師は見下ろして言った。冷たい笑顔が張り付いていた。
ぴくりと、ラウラの眉が動いた。遠く地面を揺らす音が耳に届くのを感じた。
「へえ、喧嘩ふっかけてきたワケじゃないってこと?」
「もちろんですとも。ワタシとしては、このままお別れしたい気持ちで一杯です。アナタと事を構えることは、極力避けたいと思っていましてね。お楽しみは、後に取っておく方なんです。ああ、間違えた。今のは嘘です。あれ? どうだったかな?」嗤いながら、首を傾げた。
「ほんと、ふざけたヤツね。……いいわ、一つ質問に答えたら見逃してあげる」
ラウラはそう言いつつも、戦って勝てるかどうかはやってみなければ分からないと感じていた。人の血の臭いが鼻をつく。ラウラは、その臭いには過剰なまでに反応する。「嫌い」とは言ったが、血の臭いそのものが嫌いな訳ではない。『人の血の臭いを纏った人間』が嫌いなのだ。その意味では、自分のことも嫌いだった。ラウラは答えを待たずに続けた。
「アンタと契約している聖剣の名前、答えなさい」
「『神』と契約するなどと大それたことは、考えたこともありませんよ。だって神様ですよ? ワタシ如きが、なんともったいない」両手で大仰に顔を覆いながら、そう答えた。
「ふーん、そう。……ところでアンタ、名前はなんて言うのよ」視線は鋭いまま、ラウラは問う。言葉通りには受け取れないが、これ以上問い質しても真実が聞きだせるとは思えなかった。
「名前ですか? 何だったかな? ああ、そうそう。トゥロです。トゥロ・ジャック・フィールドと申します。忘れないで下さいね?」ぺこりとお辞儀をして、トゥロは言った。
「ジャック・フィールド……。変わった名前ね」ラウラはほんの僅か、笑みを零す。
「そうですか? でも、そうですね。まさしく取って付けたものですから。ガラクタに刻まれた文字を解読しましてね。気に入っちゃったんですよ。そうだったかな? まあ、どうでもいいです」
「偽名ってことね。まあ、いいわ。それを通常使ってるなら問題ないし。さ、行っていいわよ。こっちの娘はアンタに攻撃したくてうずうずしてるみたいだしね」リュリュには目を向けず、ラウラは言った。
「では、そうさせていただきます。そちらのお嬢さんも、ごきげんよう」トゥロはリュリュに視線を向けて、大袈裟に身体を二つに折ってそう言った。
トゥロの視線を受けて、リュリュが固まる。胸元の短剣にかけていた手が、自分の意思に反して離れていく。震えにすらならない。思考も停止した。何も考えられない。
トゥロは笑顔を張り付かせたままリュリュの様子を見ていた。やがてくるくると回りながら、空の彼方へ消えていった。
「何故、……逃がしたんですか?」リュリュはか細い声で尋ねた。さきほど自分の身に起こったことを認識していない。
「確かにここで派手に暴れると、せっかく公国軍が優勢なのに水を差しちゃうかもしれないでしょ。それに、……勝てるかどうかわかんなかったしね。まあ、名前は言わせたから、行動は監視できると思うわ」ラウラはリュリュの異常に気付いていた。だがそれを口にはしなかった。
「便利ですね……」
「そうでもないわよ。明らかに敵対してる状況で名前を教えるなんて、あの馬鹿くらいしか知らないし。つまりは、それだけ腕に自信がある証拠ってことね」ラウラはため息を吐いて、更に続ける。
「これでもし追跡できないとなるとやっかいね。アイツと同レベルとか、勘弁して欲しいわよ。強さがそうなのか、対魔術能力がそうなのか、どっちにしても面倒だわ」
ラウラはバール街道に目を向けた。土煙は平原の向こうへ向かって進んでいる。風に乗って、ラウラの嫌いな臭いがやってきた。ラウラは顔を顰める。胸の痛みが増したように感じた。
誤字・脱字、矛盾点等々、お気づきの箇所がございましたら、ご指摘いただけますと幸いです。
また、よりよい作品作りに向けての参考とさせていただきたく考えておりますので、ご意見、ご感想もお気軽にお寄せ下さい。メッセージにて個別でも構いません。
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