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4話の翌朝の話です。
4話よりかなり短いです。
山間の城の物語
作:フクロモモンガ



5.醒める


 涼やかな空気の流れを感じて目を覚ました。
 右腕がだるい。背を向けて横たわる女の体の重みを支えているからだ。
 小さく開けられた窓からは、清澄な若い陽光が差し込んでいる。もう朝のようだ。室内のあちこちに灯された蝋燭は、そのほとんどが燃えつきかけていた。
 鼻の奥が冷えてむずむずした。夜は暖かかったのに、早朝から朝にかけての方が冷える。
 グレンはそっと右手をレジーナの体の下から引き抜いた。軽く痺れている。
 女が目を覚ます気配はない。寝息を立てて眠り込んでいるようだ。背中の中頃まで伸びた蜂蜜色の髪をなんとなく痺れた指先で弄ぶ。公都の貴族娘と比べれば、手入れが行き届いているとは言いがたいが、豊かで清潔な髪だ。
 女戦士のほとんどは、戦いの邪魔になる髪を短く切っていたが、彼女は昔から伸ばしたまま、常に束ねているか三つ編みにしていた。かつて、ほどいたところを見たい、と言っては相手にもされなかったことを思い出す。こんな形──彼にとって最も望ましい──で、それが叶うとは思ってもみなかった。昨夜の彼女はまったく素晴らしかった。 
 そのままひとしきりグレンは物思いに耽った。目覚めてしばらくの間、まどろみと覚醒の間をさまよいながら、思考を流れるままにしておくのは、彼にとって至福の時間だった。寝台から離れてから眠るまで、常にめまぐるしく活動している脳が休まる。隣に女がおとなしく眠っていれば、尚言うことはない。
 ふたりの体温でぬるく温まった掛け布の中、時折うとうとしながら、窓から差し込む朝日が徐々に色味を増してくるのを眺めていると、レジーナがわずかに身じろぎして、息を吐いた。
 起きるのかと思ったが、首をゆっくり横に振りながら、何かぶつぶつ言った後、また寝息を立て始めた。
「おい、何だって?」
 反対を向いているレジーナの肩を掴んで、こちらを向けさせると、彼女は大袈裟なほどに眉を寄せて、髪が跳ねるくらい激しく首を振った。口の端に涎の跡がある。まだ半分寝ているのだろうが、とにかく嫌がっているらしい。
「うるさい」
 彼女は目を閉じたまま、いやにはっきりした声でそう言うと、何か咀嚼するようにもぐもぐと口を動かした。そしてまた静かに寝息を立て始める。
「なに食ってんだよ……」
 赤子や動物のような仕草に、ついグレンは吹き出した。
 かつてのじゃじゃ馬とも、昨夜の貴婦人の皮をかぶった娼婦とも、また違う姿だった。昨日の夕方は自分を殺そうとしていた女が、一夜明ければ自分の隣で、全裸に高いびきで涎まで垂らして豪快に眠っている。それだけ自分に心を許したと思うのはまだ早い。単純に無神経なだけだろう。
 不意に邪気の無い愛おしさを感じ、口を半開きにしたまま眠る女のこめかみに口づけた。レジーナは目を覚ます気配も無く、規則正しい寝息を立てている。


 さざ波のように、徐々に穏やかに押し寄せる意識を手繰り寄せる。
 体に違和感を感じた。流浪の生活をしていた頃は、それが直ちに危険に直結する。眠気を振り払って、武器を手に飛び起きたはずだった。
 だが今寝ているのは、自分の寝室だ。身に危機が迫るはずはない。レジーナは夢うつつの中、波が自然に高まるのを待った。

 目を開けると濃い褐色の髪が見える。時折それが顎の下を撫でている。胸のあたりにも何かが触れている。
 瞬く間に完全に目が覚めた。
「朝っぱらから何してるのよ!」
 驚いたレジーナが、グレンの頭をどかそうと手をかけると、彼女の乳房に顔を埋めていた男は、すかさずその手を掴み、顔をあげた。
「なんだ、挨拶も無しに」
「挨拶が無いのはそっちでしょ」
 声をさらに張り上げようとしたが、起き抜けの独特の口臭を自分で感じ、彼女は口を閉じた。
「俺は挨拶したって。お前が寝言言ってばっかりで聞いてなかったんだろ」
「寝言なんか言わないわよ」
「言ってた言ってた。めちゃめちゃ喋ってた」
 グレンは低く笑うと、再び彼女の胸に舌を這わせた。震えが走る。
 小さな窓から差し込む光は頼りないが、月光などではなく、凛とした朝の陽光だ。早朝という時間でもない。もう召使いたちは起きてとっくに働いているだろう。
「やめてよ、起きるんだから」
 焦燥にかられて、レジーナは横向きに向かい合ったグレンから身を離そうとしたが、掛け布の中で脚も絡められ、動けなくなった。
「起きるのなんかいつでもできる」
 訳の分からない理屈を呟きながら、彼は胸のふくらみの先端を舌先で撫でた。一瞬、呼吸も忘れる。男の口元からも、起き抜けの匂いがした。
 グレンの唇が乳首に吸いつく。
「うぅ」
 思いがけず漏れた声が、陽光に似つかわしくなく甘ったるい。
 彼女の声を耳にして高揚したのか、グレンは赤子のように乳首を吸い上げながら、さらに体を寄せてきた。腿に既に固くなった彼自身が押し付けられる。
 あっという間に顔に熱が上った。

 夢の続きを自分で紡いでいるようだった。
 昨夜の痴態は、夜の時間と揺らめく蝋燭の光が見せた幻のような手触りがあったが、今ここで繰り広げられているのは、どこにも逃げられない、朝日の中、紛れもない現実での情事だ。
 抱き締められる手が背中を撫でた。体が跳ねる。男の手はゆっくりと、触れるか触れないかのような動きでそっと背中を下に撫で、尻に触れた。腰から尻にかけての辺りにそっと触れられると、自然に体が反れて、切ないため息が漏れた。
 昨日、応接間でそうしたように、グレンの手は両方の尻の間から、下着越しに彼女自身に触れた。
「なんだ、お前。いつの間に下着なんか穿いたんだ」
 指でそこを柔らかに探りながら、耳元でグレンは囁いた。今朝方、グレンに寝台に引っ張り込まれて、そのまま彼女を離さないので、寝台の中で苦労して穿いたのだ。
 だが、そんなことを長々語っている余裕などない。耐えるために余裕が無いのか、一刻も早く上ってくる快楽に身を任せたい為なのか、分からなかった。どちらも正しい気がした。
 男の指は下着を押し退けて、直接その内側に触れる。皮膚同士の摩擦は無く、昨夜の名残か、にじんだ愛液が既に異物を迎え入れようとしていた。
「お前こそ朝っぱらから濡らしてるじゃないか。もう金輪際下着は穿くな。どうせすぐ濡らして汚しちゃうんだからな」
 嘲笑とともにグレンの指がくねりながら、レジーナの中に入り込んできた。ささやかだが眩しいほどに清い朝の光の中、昨夜と全く変わらぬ快楽が満ちていく。体中、指先まで。
「あ……あっ」
 初めて応接間で触れられた時には堪えられた愉悦の声が、今はもう止められない。
 昨夜と比べてグレンは性急だった。レジーナの下着を剥ぎ取って、指を優しく蠢かせ、彼女の中心がほぼ完全に潤むと、掛け布が乱れるのも構わずに彼女の体を仰向けにし、脚を開かせてその上にのしかかった。
 猛った彼自身が打ち込まれる。彼女はそれを昨夜より遥かにすんなりと受け入れた。
「は……ああああっ!」
 熱の塊を押し入れられたような感触に、レジーナは体を反らして叫んだ。
「静かにしろよ、もー。しょうがねえなあ」
 聞き分けのない子供を諭すかの様に、グレンは苦笑いを浮かべたが、すぐに体を動かし始める。
 扉の外にはグレンの部下が控えているし、窓の外、庭では召使いたちが既に立ち働いている。そう思うと悦楽の声をあげるのにも背徳感を伴ったが、それが尚一層快感を煽り立てる。顔を振り、唇を噛み締め、組み敷いているグレンの腕を掴んで、声をこらえようとするほどに乱れていく。それでも時折ため息に混じって甲高い嬌声があがってしまう。
 どうしようもない。自分ではもうどうにもできない。グレンが自分の中で肉欲を放つまで、レジーナは快楽をただのぼりつめた。
 夫のことは思い出さなかった。


「おい、いつまで寝てるんだ」
 突然降ってきた男の声に、レジーナはがばっと身を起こす。すっかり昼の色に染まった陽光が直接肌を撫でる。いつの間にか窓は大きく開け放たれていた。
 朝にグレンと抱き合った後、再びまた眠ってしまったらしい。呆れた話だ。
 グレンの方はと言えば、とっくに起きていたらしく、既に身支度を整え終わろうとしている。
 レジーナは足元に脱がされた下着を見つけ、仕方なく掛け布を不器用に被りながら、それを身につけた。悔しいがグレンの言う通り、自分の愛液で汚れてしまったので、また新しいものを穿きたいが、寝台から全くの全裸で出るのは気が引けた。グレンと肌を重ねて、お互いの体は見てしまっているが、それでもなるべく肌は見せたくない。
 寝台から出ようと、グレンの様子を伺っていると、服を身につけ、腰に剣を佩いた彼は、きょろきょろと部屋を見回して何かを探しているようだった。やがて視線が一点に止まると、外套掛けの方へ歩いていく。彼がそこで拾い上げ、身につけたのはベルトだった。昨夜自分を縛めたものに気づき、一瞬、レジーナの思考は追憶に飛んだ。
 いつも自分が寝起きしている寝室。だがそこかしこに満ちて溢れた愛欲の余熱が残っている。


 二人で寝室を出るのはどうにも気恥ずかしかったが、勝手を知らないグレンを先に歩き回らせる訳にもいかず、かといってレジーナが先に部屋を出て侍従たちと話している間に、グレンがただ部屋で待っているはずもない。
 不承不承、グレンに続いて部屋を出る。
「おはようございます」
 案の定、部屋の前で見張りをしていた士官が、二人に挨拶をしてくる。
 気まずかったが、礼儀として挨拶を返さない訳にもいかず、目を伏せたまま、レジーナは小声で答えた。
「おはようございます……」
「おはよう、ご苦労だな」対してグレンは朝から声が大きい。「ちゃんと寝たのか?」
「一応は。宴会が夜中に終わってすぐに、朝まで寝ましたから」
 やや年のいった士官の一人が快活に答えた。
 では、今ここにいる見張りたちは、夜中の人間とは交代しているということだ。少しばかりレジーナは安心した。ゆうべ、グレンに「声が大きい」と口を塞がれたことを思い出して、一人で赤面する。夢中だったとはいえ、はしたなかった。
 その場を離れて、とりあえず執事や侍従たちが詰めている召使い部屋に向かう。
 二人で歩いているところをあまり城の人間に見られたくない。そう思うと、レジーナの足取りは重くなった。遅れがちな彼女の肩をグレンは遠慮無く叩いた。
「なにしょんぼりしてるんだ、お前。昼まで寝ておいて元気ねーな」
 当たり前だ。夫でない男に抱かれて、翌朝元気溌剌としている妻がどこにいる。いや、いるかもしれないが、自分はそういう類の女ではないし、夫への愛が失せた訳でもない。
 だが、ゆうべの自分の乱れ方と、今朝陽光の下で再び簡単に抱き合ってしまったことを思い出すと、グレンにそう言い返すことがためらわれた。言ったところで、グレンも喜々として切り返してくるだろう。
「……あんたは元気ね」
 皮肉をこめてやっとそれだけ言ってやる。
「そりゃあねえ。戦いも無しに、うまいもん食って、うまい酒飲んで、綺麗な女を抱いたんだ。これでがっかりしてたら何が楽しくて生きてるんだか」
 誰もいない廊下を歩きながら、馴れ馴れしくグレンは彼女の腰を抱き寄せた。
 戦利品扱いされたことに、一瞬、レジーナは肌が粟立つほどの怒りを覚えた。だが、息をついてすぐに自分を落ち着かせる。そんなことは最初から分かっていたことだ。
 それにしても本当に元気な男だ。昨日は麓から一日この山城まで軍を連れて登ってきて、大した休憩も無しに、自分と会談を持った。宴会の後は、庭と寝室で二度レジーナと抱き合い、朝また肌を重ねた。それからしばらく寝たとは言っても、レジーナはまだあちこちだるいというのに、グレンはピンピンしている。なんとなく癪だ。
「離してよ」無愛想にレジーナはグレンを押し退ける。「一度寝たぐらいで、自分の女扱いしないでくれる?」
「一度? 三回やったじゃん」
「うるさい!」
 どうもこの男と話していると、主導権を取られて気が緩む。気を張っていないと、取り返しのつかないことになりそうだ。レジーナは大きくため息をついた。
  

 当然の話だが、時間は既に正午を回り、士官たちも召使いたちも、食事は済ませてしまったらしい。
 執事は既にレジーナとグレンの為に、昨日二人が会談をもった、応接間兼私用の食堂に昼食を用意してくれていた。しかし揃って寝室に引っ込み、翌朝やはり揃って盛大に寝坊して起きてきたのはあまりに露骨で、レジーナは顔から火が出そうだった。
 無論、召使いたちは、彼女が好き好んでそうした訳ではないことは承知している。年かさの女中には、侵略者に身を任せざるをえなかった女主人を思い、涙ぐんでいるものもいた。確かに不本意ではあったものの、肌を合わせて快楽を貪ってしまったことで、彼らを裏切っているような気がする。
 

「立場をはっきりさせておきたいんだけど」
 食事の用意を整えた給仕が退出するなり、レジーナは口を開いた。
 用意された葡萄酒を一口煽り、グレンは軽く眉を寄せた。
「立場って、何の? 俺の愛人になりたいとかいう話?」
「寝言は寝ながら言ってよ。……あんた、奥さんいるの?」
「いや、いない」グレンは首を振る。「今は面倒なだけだからな」
「じゃあ、愛人じゃないじゃない」
「そうだな。じゃ、旦那と別れて結婚する?」
「別れないわよ! ていうか、万一のことがあってもあんたなんかと結婚するぐらいなら、ゲジゲジと結婚した方がましよ」
「……ぜってーだな、オマエ。もし旦那が死んだらゲジゲジと結婚しろよ」
 どう切り返そうか考えながら、レジーナはふと我に返った。話が完全に逸れている。一度大きく息をついて、レジーナも葡萄酒を含んだ。昨日の宴会で振舞われたような超一級品ではないが、見かけによらず甘党の彼女が好んで飲む、香り高く甘い酒だ。
「立場っていうのは、この城の実権の話」
 少し気持ちを落ち着かせ、頭を整理しながら彼女は話し始めた。今度はグレンもおとなしく聞いている。
「昨日は停戦なんて耳障りのいいこと言ってたけど、事実上の占領ってことは、私もこの城の人間も分かってる。で、対外的にも内政的にもどうなの? あんたが領主代行として前に出たり、決定権を振るったりするの?」
 パンにかぶりついていたグレンは口を動かしながら、首を振った。
「昨日も言ったろ。俺たちはここに間道掘る為に駐留しにきただけだ」
「そんなうわべの話じゃなくて、本当のことを聞きたいんだけど」
 グレンの顔に皮肉な笑みが浮かぶ。彼は食事の手を止め、身を乗り出した。
「しつこいね、お前も。……基本的には俺が表舞台に立つ気もないし、実権を握る気もない。安心しな。ただ、入ってきた情報は、せっかくだから逐一教えてもらおうか。あんたの旦那の生死も含めてね」
 グレンの言葉に、レジーナの体が僅かに揺れた。留守を預かりながら、毎日夫の身を心配していたというのに、今日は全く彼のことを思い出さなかったからだ。
 レジーナの様子に構わず、グレンは続けた。
「外から届く手紙は一度こちらで確認させてもらう。出入りする行商人もだ。だが、俺や士官どもが口出しする気は無い」
「つまり、今まで通りに私がやることはそのまま続けていいのね?」
「好きにしろ。領民にも俺たちに占領されたなんて伝える必要はない」
「召使いたちにも今まで通り、私が管理するんでいいのね」
「そうだ。ただ、士官どもの部屋とか、雑魚どもが入る兵舎の手入れとか、細かいところを打ち合わせたいな。召使いたちのまとめ役くらい紹介しろ」
 レジーナは頷きながら、グレンとそして大公の心中をはかりかねていた。妙に丁重に扱われている気がする。それともこれが公国軍のやり方なのか。あるいは、夫に届いた勅書がこの厚遇の一端を担っているのか……。
 冷静になって考えてみれば、勅書が何らかの意味を持つ可能性は極めて低い気がした。例えば仮に、昨夜グレンが示唆した通りに、王位継承に関する指示があったとしても、夫がそれを自分に黙っているはずがない。結婚する前の秘密を除き、以後は隠し事はしないと決めたのだ。レジーナは自分の心に、夫は神にそれを誓った。
 それでも自分の身に関わるかもしれないものが、他人の手に黙って渡るのは避けたかった。レジーナは何とか隙をついて一人で寝室に戻り、勅書を取り戻したいと考えていた。


 しかし機会は簡単には訪れなかった。
 昼食後に、侍女頭と執事、厨房長などを呼びつけ、またグレンの方も雑用を引き受ける側近と士官たちのまとめ役──あのニコラスという男だった──を呼び、互いに紹介して、士官の部屋や食事、兵舎の改造などについて話し合った。
 食料については、公国からもある程度補給があるという話を聞き、レジーナの一番の不安は解消された。決して豊かとは言えないこの土地で、二千の軍隊の食料を賄うのは無理があったからだ。逆にこちらの葡萄酒を大公に定期的に買い上げてもらえることになりそうだった。販路ができれば、多少この山間の小さな領地も潤う。
 だがそうなれば、王家に忠誠を誓う副伯領は、大公にも恩があることになる。征服というのは、常に暴力と恐怖によってやってくるものではない。穏やかに根付いてしまうものもあるのかもしれない。丁重で礼儀正しいグレンたちに、顔を綻ばせている執事たちの顔を見て、レジーナはそう思った。


「意外に広いんだな」 
 具体的でさらに細かな打ち合わせは、執事とグレンの副官同士に任せ、グレンはレジーナを城内の案内に引っ張り出した。彼女は何とかこの暇そうな男の気を引くものがないか、慣れ親しんだ城内を探した。その間に寝室に戻って、勅書を取り出したい。
「元々は古代帝国時代までさかのぼるからね。増築に増築を重ねて複雑な作りになってるのよ」
「へえ。由緒正しい城なわけか。大公家より古いんじゃないか?」
「多分ね。昔の蒸し風呂もあるよ。……沸かしてあげるから、あんた入ってくれば?」
「マジ!? いいねえ、蒸し風呂。入ったことねーよ」
 誘導が成功して、内心レジーナはほっと息をついた。グレンが風呂に入っている間に勅書と着替えを客室に運べる。
 手近な召使いを捕まえて、風呂の支度をするように告げた後、グレンは思い出したように言った。
「あ、そうだ。書き物できる部屋はあるか? 書斎みたいな」
「主人の書斎があるけど。……こっち」
 レジーナは気が進まないながらも断るわけにいかず、書斎のある半地下に歩き出した。山中の城は、平らな廊下が少なく、どこへ移動するにしても常に階段を上り下りする。
 書斎の扉を開けると、紙と皮の、本独特の匂いが溢れた。窓が無いので、ランプに火を灯す。浮かび上がった部屋には、大きな書き物机と椅子があるほかは、天井から床下まで本で埋まっている。
 さすがにグレンもあんぐり口を開けた。
「これ、旦那の書庫か? すげーな。かなりの読書家だな」
 なんとなく誇らしい気持ちでレジーナは頷いた。
 夫は領主として武術にも長けていたが、同じくらい書物を手に取ることも好きだった。夕食の後、よくここで一人読み物をしている夫を訪ね、彼女も別の本を手に取りながら、穏やかに読み物に耽る夫の傍らにいること自体が、安らぎの時間だった。
 夫が読み物をしていた机にも乱雑に本が積み重なっている。書き物をするというグレンの為にそれを本棚に戻しながら、レジーナは聞いた。
「書き物って、何するの? そもそもあんた字なんか書けたっけ?」
「……なめてんのか、テメ。字も書けねーでどうやって司令官までのし上がるんだよ」
「じゃあ、勉強したんだ」
「当たり前だろ。──報告書を書くんだよ」
「結構マメね。自分で書くんだ」
「細かいのは部下に書かせるとしても、任務遂行についての一筆は俺から添えておかないとな。被害無しで無事入城し、奥さんをイカせたと。……蹴るな!」
 本を抱えていて両手が塞がったレジーナの蹴りは寸手のところでよけられてしまった。グレンは机に腰掛け、ペンや紙を探している。今の意趣返しのつもりで、レジーナは紙がある場所を敢えて教えずにいた。 
 机の引き出しを探るグレンを見ていて、全く唐突に、この机の上で彼と睦み合ったらどうだろうという考えが浮かんだ。次の瞬間、慌ててそれを振り払う。夫と二人で過ごした部屋で、あんなにも安らいで過ごした部屋で、あまりな想像だ。
「おい、紙ねーの? 紙」
「待ってて。探してくる」
 羊皮紙は本棚の一角にあったが、このまま窓の無い、息が詰まるような小さな部屋に二人でいたくなかった。レジーナは飛び出すように部屋を出た。

 そのまま階段を上り、寝室に向かう。やっと好機が巡ってきた。
 寝室前にはグレンの部下が二人控えていたが、笑顔で彼女がショールを取りに来たと告げると、丁重に中に通してくれた。
 すかさず物入れに歩み寄って開ける。
 中には装飾品やショール、下着や靴下などこまごましたものが入れてある。お世辞にも整理上手とは言えないレジーナは、ぽいぽい物を放り込むので、中は混沌としていた。詰め込んだものを掻き分け、夫によって封を施された小さな紙束を探す。
 無い。
 いくら下着や靴下の山を掻き分けても見つからない。まさか、熟睡している間に、既にグレンが家捜ししてしまったのではないか。
 重大な秘密を持っている可能性が低いと考えているものでも、万一グレンの手に渡ったかと思うと、不安が膨れ上がる。レジーナはあせり始めた。結局中のものを掻き出して、床にぶちまける。
 ストッキングを取り出した時、ごわごわと異なる感触があった。そうだ。念の為ストッキングの中に丸めて入れ込んだのだ。慌てて靴下の中に手を入れると、羊皮紙の固い手触りに当たった。引き出すと、丸めて蝋封された、目当ての紙束だった。夫が出発する前夜に託していったもの。
 今、開くか。
 一瞬迷ったが、やはり客室にまず安全に運び出そうと考えた。ついでに引っ張り出した着替えも物入れごと運んでしまおう。彼女は再び引っ張り出したものを物入れに放り込んだ。

 後ろから伸びてきた手が、彼女が放り込んだ紙束を物入れの中から取り上げた。悪寒が走った。
「探し物はあったか?」
 反射的に振り向いた先には、やはりグレンの姿があった。
 言葉も出ない。 
 いくらでもごまかし方はあるはずなのに、動揺のあまりレジーナは沈黙した。そしてそれが男に紙束の正体を確信させた。
 グレンは軽く手の中の蝋封された紙に目を落とすと、無感動にレジーナを見た。
「ここの副伯の紋章か。──写しだな?」
「…………」
「昨夜、そこに縛り付けた時に、これが歓待に対する礼か、とお前吠えてたよな。全く同じことを聞きたいね。俺はこれでも随分気を使って接しているつもりなんだがな。厚遇に対する礼がこれか」
 詫びるべきだろうか。逡巡したが、言葉が出てこない。
 まさか疑われて後をつけられていると思わなかった。物入れを探っている時間があれば、とっとと物入れごと持ち出してしまえばよかった。あるいは昨日の内に素直に話しておけばよかった。読みの甘さと後悔に苛まれ、レジーナはただ顔を覆って嘆きたかった。何も考えられない。
「まあ、いい。借りができたと思え。──とりあえずここから消えろ」
 男の声が重い。ついに怒らせてしまったようだ。
 レジーナは黙って部屋を出るしかなかった。体が震えないように、背筋を伸ばすのが精一杯だった。




なんとか更新しました。
せめて週一でがんばりたいなーと思います。






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