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変人の穴

作者:栖坂月
三作目です。気軽にお楽しみください。
 カーテンの隙間から入り込んだ朝日が目蓋を叩く。緩慢に過ぎ行く夜とは対照的に、朝の訪れというのはいつも唐突だ。遠慮というものが感じられない。
 俺は目を覚まし、頭を支えていた硬い家具調コタツの天板から頬を引き剥がす。昨晩は執筆に詰まったまま眠ってしまったらしい。硬くなった肩と首筋が、少し動かすだけで不穏な音を立てていた。締め切りは昨日過ぎたばかりなので慌てる必要はない。ただ、何一つ妙案が浮かばない現状だけは、どうにもいただけなかった。経験的に、この状態に入ると少なくとも一週間は戻らない。モニターの前に座り込んで頑張ろうと、コントローラーを握り締めて遊ぼうと、その結果には対して差がないというのが実情だった。
「まずいな、これは」
 独り言ちて、未だ一つの文字すら打ち込まれた形跡のないワード文書の白い画面に溜め息を吐く。この状況を編集者に見られるのは大変思わしくないことだが、それ以上に自らの才能が枯渇したかのような印象が湧き上がることの方が問題だった。正直、まともな作品を生み出す自分というものが想像出来ない。つい先日まで毎日のように書いていたことが、遥か昔の話か、あるいは希望的観測に基づいた妄想としか思えないほどだ。
 液晶の刺すような輝きに嫌気を覚え、背後に手をついて仰け反るように天井を見上げる。最近はめっきり本数が減ったものの、元は白かった天井を彩るヤニ色は健在だ。他人から見れば汚いのかもしれないが、俺には懐かしい色に感じられる。何がどう見えるかなど主観に因るものだ。人様の感想など、ここが俺の部屋である限りは取る足らないものだろう。
 と、視界の左端に五分は遅れている掛け時計が入ってくる。あまり眠った印象はなかったが、すでに八時を回っていた。記憶にある時刻は二時頃だったと思うから、結構な時間眠っていたことになる。
「道理で日差しが力強く――」
 納得しながら、秋風にはためく藍色のカーテンへと視線を向けた時、俺は気付いた。
 空中に、どう考えても浮いているように見える『渦』の存在に。
 何だ、と心の内で呟きつつ、理屈から考えれば幻以外の選択肢があり得ない奇妙な浮遊物へと四つん這いになって近付く。はためくカーテンは相変わらずで、その先端――角が触れるか触れないかという位置に渦は存在した。これは何に似ているだろうと連想してみるが、思い浮かんだのは排水溝に吸い込まれていく墨汁くらいしかない。我ながら発想が貧困だと感じる。見たままの感想しか連想出来ないなど、子供と変わりないではないか。
 大体、排水溝に墨汁が吸い込まれていくシーンなど、連想する対象としてはリアリティに欠ける。書道など、せいぜい小中学生までの話だ。その時分に思い至るならともかく、今はもう身近ですらない。そもそも、大量の墨汁が吸い込まれていくシーンなど見たことが――
「いや」
 無意識に持ち上げた手が、渦に触れる僅か手前で停止した。
 俺はかつて見たことがある。墨汁が吸い込まれていくシーンではなく、空中に浮かんでいるこの渦をだ。もう経緯は忘れてしまったし、ずいぶんと曖昧な記憶でしかないが、小学生の頃に一度、中学生の頃に一度見ていた筈だ。あの頃は、無警戒で無頓着だったこともあり、この渦が何であるのかなど大して気にしてもいなかった。今思えば何と愚かなことと思うが、自分と自分を取り巻く環境の全てが世界であった子供にとっては、不可思議な現象など時折テレビで見られるアイドルタレントと同程度の価値しかない。単なる珍しいものの一つでしかなかったのだ。
 俺は渦の右側へと顔を寄せ、幻を横から観察してみる。その後ろにすぐカーテンがあったから予想していたことだが、思った通りに厚みがない。そしてもちろん、天井から下げるための糸も、床から生えている支柱も存在しない。それは間違いなく空中に浮いていて、しかも固定されているように動かなかった。幻である割には、こちらの視界が動いても全くブレる気配がない。現実感に乏しく、パソコン上で合成された画像を見せられているかのような感覚ではあったが、同時に奇妙な存在感が渦にはあった。
「これは、そもそも何だ?」
 疑問が口をつく。しかし当然のように、回答が得られることはない。ここは俺の実家、父母はすでに他界している。三ヶ月ほど前までは弟夫婦が一緒に住んでいたが、今はもうマイホームを購入して引っ越している。テレビさえ点いていなければ、他人の声など響くことすらなかった。
 床から手を離して体勢を変え、座り込んで考えてみる。そしてすぐに思い立ち、コタツ――電源の入っていない今は単なるテーブルに過ぎないが――の天板に放置されていたカップ麺の容器から割り箸を一本だけ取り出す。昨晩の夕飯の残り香が、その先端から微かに香っていた。俺は左手で持ったその先端を、渦の中に突き入れる。そしてその様子を、横から確認してみた。
 瞬間、唖然とする。
 割り箸は、突き抜けていなかった。まるで空中に穿たれた穴にでも差し込んだかのように、その存在が確認できない。一体どうなっているのかはわからなかったが、実に巧妙かつ奇妙な仕掛けであることは間違いない。もし先程、迂闊に指など入れていたらどうなっていたのだろうかと、少しばかり肝を冷やした。
「あれ、そういえば……」
 ふと、かつてこの渦を見かけた時のことを思い出す。小学生の頃だ。あの時は、この奇妙な現象に対して警戒感など有していなかったように思う。記憶の中にあるのは、明確な好奇心だけだ。確かあの時は――
「なっ!」
 声を上げるのすら遅れるほどの不意打ちで、持っていた割り箸が引き抜かれる。左手には感触だけを残して、木片の切れ端でさえ残ってはいない。吸い込まれるにしても突然で、しかもかなりの力だった。まるでそう、川で泳いでいたら河童にでも引きずり込まれたかのような、そんな感覚ですらある。
 途端に恐怖が、意識の底から湧いてくる。
 だが次の瞬間、それは好奇心に取って代わった。呆然として渦を見詰める俺を試すかのようなタイミングで、引き抜かれた筈の割り箸が再び顔を覗かせたのである。いらない、ということだろうか。そんな風に思って顔を寄せると、違和感に気付く。
 その割り箸からは、和風出汁の香りが漂ってきた。蕎麦かウドン、あるいは魚介系スープのラーメンの匂いだ。俺が昨日食べたのは違う。典型的な豚骨ラーメンだった。少なくとも、和風出汁の香りを放つことはない。
 俺は恐る恐る手を伸ばすと、その割り箸を掴んで一気に引き抜いた。思ったような抵抗はない。少し意外に思いつつしばしの間見詰めてから、ふと気付いてカップ麺の容器を引き寄せ、残っていたもう片方の割り箸を取り上げる。
 合わせてみたが、やはり合わない。
 この瞬間、俺は無意識に笑っていた。嬉しいのでも楽しいのでもない。ただ、奇跡という現象が起きていることを認識した途端、自然と頬の筋肉が吊り上がったのだ。笑うしかないというのは、こんな時に使うべき感慨なのかもしれない。
 とりあえず、その裏側にはカーテンと窓しかない空間の向こう側に、何者かが居るのは間違いない。しかもそれは、少なくとも割り箸を使う程度の文明人である。更に言えば和風出汁、言葉が通じる可能性も否定出来ない。
 そんな考えが生じた瞬間、近くに投げ出されてあったメモ帳を引き寄せ、一枚引き剥がす。そして愛用の万年筆を手にすると、端的な質問を走り書きして二つに折り、割り箸で摘んで渦へと差し込む。
 すると待ってましたとばかりに紙を引き抜かれた感触があり、箸を戻してみると思っていた通りに紙は消えていた。
「あ、返ってきた」
 そして一分も経たぬ内に、色の違う紙が箸に摘まれて戻ってくる。それを取り上げ開いてみると、お前こそ誰だという文字が見慣れた筆跡で記されていた。いや、筆跡ばかりじゃない。どう見ても同じ万年筆を使ったとしか思えない文字だった。
 俺は確信する。この向こうに居るのは、恐らく俺だ。
 多分向こうも気付いているだろう。この字と筆跡を見て、気付かないとは思えない。この質問は、警戒感の現れだろう。
 俺はメモ帳をもう一枚引き剥がし、自分の名前と状況、仕事が行き詰っている旨を書き記した。向こうに居るのも俺なら、きっと似たような境遇に居ることだろう。何かしらヒントになる返答が期待出来るかもしれない。
 しかし返ってきた返信には、同名であるという事実と、下らないミスをして行き詰っているのはこちらの方だという愚痴だけが並んでいた。小説家なら、もっと気の利いた返信が出来ないものかとも思うが、考えてみれば相手もスランプ中の俺だ。面白い発言など期待するだけ無駄だろう。
 そう思いつつどんなミスだったのか聞いてみると、大事な書類をデータごと紛失したとのことだった。書類というところに少し引っ掛かる。向こうでは原稿とは言わないのだろうか。それとも、小説以外にフリーライターめいた仕事をこなしているとか?
 そんな思いから、一応の為にと相手の仕事を確認してみると、向こうの俺は公務員をやっていた。
 さすがに驚く。しかしそれ以上に、こちらが売れないとはいえ小説家をしていることに驚かれた。だがここで疑問が生ずる。万年筆に対する憧れは子供の頃からあるにはあったが、実際に買うには高過ぎる買い物だ。公務員なら収入に余裕もあるだろうが、物を書くことを生業としていない者が、一本五万もする万年筆を購入し、しかもこうして日常的に使ったりするだろうか。
 多少失礼な疑問かと思いはしたが、相手は自分だ。遠慮することもあるまいと素直に聞いてみると、すぐに回答が戻ってきた。
『妻にプレゼントしてもらった』
 頬が引きつる。俺に嫁が居るとか、全く想定していなかった。すぐにその詳細――特に美人か否かを確認する。
『俺の嫁だぞ。察しろ』
 それはそうだと納得せざるを得ない。
 そしてここから、俺達は互いにお互いの境遇と近況を報告し合った。向こうは俺が夢を叶えて羨ましいと言っていたが、収入の実情には同情すらされた。一見すると理想的な家庭を築いているように見える向こうの俺も、自由な時間の乏しい奴隷のような生活だと思えてしまう。いつしか俺達の話題は周囲への愚痴に取って代わり、小説のネタとして使えるなと思った瞬間、その渦は急速に小さくなっていった。気付けば俺達は、短い別れの言葉を託して、この奇跡的な邂逅を終えたのである。
 そしてその日の夜、俺は夢を見た。
 自分の周囲の何もかもが、自分の知っているモノとは違っているという不安な夢だ。窓は三角になり、天井は青くなり、味噌汁は甘かった。真夜中にふと目が覚めて、俺は子供の頃にもこんな夢を見ていたことを思い出す。
「あれは確か――」
 小学生の頃だと記憶を辿り、そして思い出す。
 その夢は、あの渦をくぐった後になって見始めたことを。
 小学生の頃、確かこの部屋だった。あの渦が、中央付近の空中に突然見えたのだ。記憶としては鮮明に残っているが、体育祭か何かのリレーで無理矢理代表に選ばれて、練習すら嫌になって学校を仮病で休んでいた日だったと思う。突然現れた穴に驚きながらも、引き込まれるように飛び込んだのだ。どうしてそんなことをしたのか、正確な心理状態は思い出せない。ただ当時は、その行為を怖いとは思わなかった。事実、体に変調があったという記憶はない。
 しかし、変化はあった。
 隣の家で飼っていた犬が、チワワから柴犬に変わっていた。通学路の途中にあったアパートの色が、青から黄色に変わっていた。落として割れてしまった筈の父の茶碗が、割れずに残っていた。どれも些細な違いでしかなくて、見間違いとか勘違いとか、そんなものだと思い込もうとしていた。でも一点、どうしても納得出来なかったこともある。
 俺はリレーの代表じゃなかった。外されたんじゃない。最初から選ばれていなかった。もっとも、安堵した矢先に粗暴で自己中な女子との二人三脚を知って、逃げ出したくなったのだが。
 あの当時、知り合いや友人もそれまでとは少し違っていて、皆がおかしくなったのだと心の内で思っていた。だが違う。皆がおかしかったのではない。俺がおかしかったのだ。より正確に言えば、俺は違う俺になっていたのだろう。あの空中に生じた渦のような穴を伝って、入れ替わったのだろうと思う。まさしく、人が変わったのだ。
 もしかしたら昼間見た渦は、元の世界に戻るための扉であったのかもしれない。だが、仮にそこが元々居た世界であったとしても、自由な時間の乏しい公務員生活など息が詰まる。そもそも愛した経験のない女に、いきなり妻ですと言われたところで、戸惑う以外のリアクションを返す自信がない。
 今の俺は小説家だ。
 売れてもいない。満足してもいない。時には逃げたいと思うこともある。でも、陳腐ながら守りたい自信や環境もここにはある。今を捨てられるほど、俺はもう子供ではなかった。
 様々な仮定を心の内に仕舞い、目蓋を閉じる。
 再びの眠りは、安堵と共にあった。
この作品をもって、空想科学祭2010への参加作は終了となります。
ありがとうございました。
空想科学祭2010
空想科学祭2010参加作品

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