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Father

作者:松田悠士郎
 山懸 沙織は、したたかに酔っていた。
 背中まで伸びた黒髪はやや乱れ、頬にはほんのり赤みが差し、両目は半開きで、口紅の落ちた唇は何事かを常に呟き続けている。灰色のロングコートを着込んで両手をポケットに突っ込み、右脇にクラッチバッグを挟んで足をふらつかせながら夜道を歩いていた。絵に描いた様な酔っ払いの姿に、行き交う人々が好奇の目を向けるが、沙織は全く気づかずににひたすら千鳥足で進む。
 通りかかった公園の中に人だかりができているのを、沙織の酔眼が見つけた。
「んー? なぁんだぁあれぇ?」
 訝しんだ沙織が、ふらつきながら群集の方へ向かった。近付くにつれて、彼等が何やら応援とも冷やかしとも取れる声を上げているのが聞き取れた。
「何か変な事してんじゃないでしょぉねぇ?」
 眉間に皺を寄せて言うと、沙織は人混みを掻き分けて前に出た。すると、そこには目を疑う光景があった。
「え?」
 両手に大きめのボクシンググローブを嵌めたOL風の若い女性が、同じく両手をグローブで覆い、灰色のジャージを着て頭にヘッドギアを被った初老の男に向かってパンチを打っていた。周囲の人々の声は、その女性に向けて送られる声援の様だ。
「……何なのこれ?」
 事態が飲み込めない沙織が、焦点の定まらない目を必死に動かして辺りを見回すと、傍らのベンチの上に『殴られ屋 三分千円』と手書きされたダンボール製の看板が立ててあった。目を細めて文字を読み、
「殴られ屋ぁ?」
 と声に出した沙織の耳に、アラーム音が飛び込んだ。
「はい、おしま~い」
 初老の男がおどけた様に言って女性を制すると、看板の裏側に置いてあるキッチンタイマーに手を伸ばし、グローブを嵌めたまま親指で止めた。女性は笑いながらグローブを外して、
「あー楽しかったぁ。ありがとうおじさん」
 と礼を述べた。男も笑顔で会釈する。
「さぁ、他に居ないかな? 千円で三分間殴り放題だ。ストレス解消にどうかな?」
 男が周囲に呼びかけると、沙織が自分の財布から千円札を一枚掴み出して男の前に突き出した。
「やる」
 ぶっきらぼうに告げる沙織に、男は一瞬驚いた様な目を向けたが、すぐに笑顔を取り戻して千円札を受け取り、
「はい毎度あり。じゃ、グローブ着けて」
 と促した。沙織は先客の女性からグローブを受け取ると、コートを脱いでクラッチバッグと共にベンチへ放り、両手にグローブを着けた。使ったばかりなので中は温かく、やや湿っていたので沙織は顔を歪めた。
 男はキッチンタイマーを再び作動させ、ファイティングポーズを取りつつ沙織に告げた。
「さぁ、どうぞ」
 沙織は男と向かい合うなり、右拳を大きく振りかぶって男の顔面へと放った。ヘッドギアに当たり、男の頭が少しのけ反る。
「おぉ、いいパンチだね」
 男の言葉が癇に障ったのか、沙織は唇を尖らせて左拳を打ち込む。またヘッドギアを直撃するが、奥の男の顔は涼しげだ。
 沙織の顔が紅潮し、パンチの回転数も跳ね上がった。次々と繰り出される沙織の拳を、男は時折グローブで受け流しつつも頭にもらい続けた。
 叩き続ける沙織の表情が、次第に変化した。
 吊り上がった眉尻は徐々に下がり、尖っていた唇はへの字になった。いつの間にか、目には涙が溜まっている。
「……よ、何よ」
 その内に、口から言葉が漏れ出した。沙織の変化に気付いた男が、怪訝そうに見返す。
「何よ、何よぉ」
 パンチを打ちながら漏らす声が、大きくなった。そして、二分が経過した頃、遂に沙織が堰を切った様に大声を上げた。
「何なのよーー!!」
 群集が一斉に息を飲む中、沙織は何事かを喚き散らしながら男に向かって滅茶苦茶に両腕を振り回した。
「お、どうしたんだお嬢さん、落ち着いて」
 男がなだめようとするが、沙織の勢いは止まる事を知らず、しまいには男の存在も無視して虚空を殴り続け、三分到達のアラームが鳴る頃にはその場にへたり込んで号泣してしまった。
 男はタイマーを止めると、暫く泣き崩れた沙織を見下ろしていたが、やがてグローブとヘッドギアを外して額の汗を拭いながら、
「さぁ、今日はもうおしまい。解散だよ」
 と群集に告げた。彼等は沙織を一瞥してから思い思いにその場を立ち去った。

 ひとしきり泣いた沙織は、ふと自分の両手を覆うグローブを見て、急に恥ずかしさがこみ上げた。酒も抜けて来て正常に機能し始めた脳が、現状を必死に確認する。
「いけない、私――」
 慌てて周囲を見回すと、既に群集は消えて、『殴られ屋』の男が両手に缶コーヒーをひとつずつ持ってにこやかに立っているのみだ。
「落ち着いたかい? お嬢さん」
「えっ? あ、はい」
 沙織は応えてから、慌てて両手に嵌まったグローブを外そうとするが、なかなか手が抜けずに軽くパニックに陥る。見かねた男が缶コーヒーを足元に置いて手を貸したおかげでグローブが外れた。
「あ、ありがとうございます」
 両手をこすり合わせて礼を言う沙織に、男が缶コーヒーをひとつ差し出した。会釈して受け取る沙織を、男がベンチに促して先に腰を下ろした。沙織は大きく息を吐いて立ち上がり、膝や脛に付着した砂を払い落とし、自分が置いたコートとクラッチバッグを抱えてベンチに座った。
 男は缶コーヒーを開けてひと口啜ってから、顔を前に向けたまま沙織に問いかけた。
「良かったら、何があったのかおじさんに話してみないかい? 無理にとは言わないがね」
 男の優しい声に、沙織は素直な気持ちになって、俯き加減で口を開いた。
「私、これでも警察官なんです。最近、やっと念願だった自動車警ら隊に転属になって、とっても嬉しくて、張り切ってたんです」
「へぇ、あなたお巡りさんなの? 人は見かけによらないね、あなたみたいな美人が」
「そんな、あ、それで、今日先輩と一緒にパトロールしてたら、車上荒らしの通報があって、丁度犯人を見つけて追跡したんです。でもその犯人、自転車で逃走してたんですけど、車で入れない道に入ってしまって……私、どうしても手柄を挙げたくて、先輩の制止を無視してパトカーを下りて走って追いかけたんです」
「ほぉ、それは勇ましい」
 男の相槌に若干眉をひそめつつ、沙織は缶コーヒーを開けてひと口飲んでから話を続けた。
「私、学生の頃から走るの割と好きだったし、自信はあったんです。それで、犯人を行き止まりまで追い詰めたんですけど、そこで」
 一旦言葉を切った沙織が、眉尻を下げて目を泳がせた。男は今度は相槌を打たずに、コーヒーを口に運んで待っている。
 十秒近く経ってから、沙織がやっと口を開いた。
「犯人が、隠し持っていたナイフを取り出したんです。それを見たら私、足が、すくんじゃって、そこから動けなくなっちゃって……」
 沙織の目に、再び涙が溢れた。
「私……警察官になる為に、中学、高校と剣道部に入って、初段まで行って……暴力を振るって来る犯人にも、立ち向かえるって、思ってたのに……なのに、刃物を見たら、急に怖くなって……」
 唇を震わせる沙織に、男は顔を向けて訊いた。
「それで、その犯人はどうしたの?」
 沙織はこぼれる涙を拭いながら、か細い声で答えた。
「あ、後から駆けつけた先輩が、取り押さえて……その時、先輩が私に、言ったんです」
「何て?」
「お、女の癖に出しゃばるな、いざとなったら何もできないじゃないか、この役立たず、って……そこには、応援の警察官や。通行人も居て、そんな所で……私、情けないのと、悔しいのとで……もう」
 沙織の口から言葉が消え、代わりに嗚咽が漏れた。男は缶コーヒーを傍らに置くと、沙織の肩に手を回して優しく二、三度叩いた。
「失敗は成功の元。あんまり自分を責めなさんな」
 男の言葉に、沙織はまた声を上げて泣いた。
 五分ほど経って、漸く落ち着きを取り戻した沙織が、涙を拭って立ち上がり、コートとバッグを抱えて男に深々と頭を下げた。
「本当に、御迷惑をおかけしました」
「いやいや、気にしなさんな、お嬢さん」
 男は柔和な笑顔で返すと「よっこらしょ」と言って立ち上がり、ベンチの裏から大きなボストンバッグを取り出して荷物をまとめた。
「あ、私、山懸 沙織と言います。あの、お名前伺ってもいいですか?」
 沙織が尋ねると、男はバッグを肩に掛けながら答えた。
「あたしは、タツ、とでも呼んでくださいな」
「タツ、さん……ありがとうございました」
 礼を述べる沙織に、タツは「じゃ」と軽く会釈して踵を返した。沙織は暫くタツの後ろ姿を見送ると、缶コーヒーを飲みながら帰路に就いた。

 それから、沙織は公園を通る度にタツの所へ立ち寄る様になった。タツは雨の日や、体調がすぐれない時を除いて、同じベンチに看板を立てて『殴られ屋』を開業していた。沙織自身はさすがに『殴られ屋』を利用する事は無かったが、常にタツの事を見守り、時には手伝ったりもした。
 ある夜、沙織が公園を訪れると、タツが暇そうにベンチに腰掛けていた。
「どうしたんですか?」
 沙織が訊くと、タツは苦笑しつつ答えた。
「いや、今日は何だか全然人が来なくてね、開店休業状態ですよ、へっへ」
 確かに、周りを見回しても人通りは少ない。沙織は溜息を吐くと、タツに提案した。
「ねぇタツさん、今日はもう店じまいして、飲みに行きませんか?」
「えぇ? 飲みに?」
 タツの反応を見て、沙織は顔を赤らめて言った。
「もう! 大丈夫ですよ、あの時みたいに深酒はしませんから!」
 すると、タツは朗らかに笑って立ち上がり、
「よし、じゃあ行きますか」
 と応えた。沙織は笑顔で頷き、タツの片付けを手伝って一緒に公園を出た。
 繁華街の方へ向かい、見つけた居酒屋に入った。店の奥の座敷に通されたふたりは、木製のテーブルを挟んで向かい合い、畳の上に置かれた座布団に座った。沙織が生ビールの中ジョッキをふたつ注文し、ふたりしてお通しに箸をつける。
「タツさん、普段お酒は?」
「うん、たまにね」
「私は、好きだけどそんなに強くなくて」
「ええ、知ってますよ」
「え? あ、もう!」
 他愛の無い会話をしていると、ビールが運ばれて来た。沙織が自分の前に置かれたジョッキを掲げて言った。
「乾杯」
 タツも笑顔で応え、ふたり同時にビールを口に運んだ。痺れる様な喉ごしに、沙織の表情が緩む。タツも満足げだ。
 つまみを数品頼むと、沙織がタツに尋ねた。
「ねぇタツさん、何で『殴られ屋』なんてやろうと思ったんですか?」
「え? あぁ、それは、まぁ、ちょっとね」
 言葉を濁すタツに釈然としない沙織が尚も訊こうとすると、タツが逆に質問した。
「あなたは、何で警察官に憧れたの?」
「えっ? 私は……」
 沙織は少し口ごもったが、何かを決意したかの様に頷くと、ビールをひと口飲んでから答えた。
「実は、父が警察官だったんです。もう定年で退官したんですけど、交通課ひと筋で、実績も沢山挙げてて、そんな父が、凄く格好良く見えたんです」
「あぁ、お父様が。でも反対されたんじゃないですか? 女の子じゃ」
 更にタツが訊き、沙織も素直に答える。
「ええ、私、ひとりっ子で、ですから父は勿論、母も猛反対でした。でも諦め切れなくて、だからまず父を説得して、それから父と一緒に母を説得して、何とか許してもらえました。ただ、必ず大学を現役で卒業しなさいって条件つけられちゃいましたけど」
 苦笑いする沙織に、タツは温かい眼差しを向けて二、三度頷く。
 ほどなく運ばれたつまみに舌鼓を打ち、酒も進んだ頃、沙織が息を吐きながら言った。
「何かお父さんと飲んでるみたい」
「ん?」
 瞠目して見返すタツに、沙織は慌てて釈明した。
「ごめんなさい、変な事言っちゃって。私、父と一緒にお酒を飲んだ事無くて。だから、こうしてタツさんと向かい合ってたら、ふとそんな気がして……すみません」
「いやいや、光栄ですよ」
 笑顔で告げると、タツは美味そうにジョッキを傾けた。

「はぁー美味しかったぁ!」
 居酒屋を出た沙織は、ほんのり赤くなった顔に満足げな笑みを浮かべて大きく伸びをした。後から出て来たタツが、柔和な顔で声をかけた。
「いや、本当に美味かった。ごちそうさん」
「いえいえ、私から誘ったんですから、当然です!」
 沙織がおどけた様に敬礼した拍子に、足をふらつかせた。すかさずタツが支える。
「おぉ危ない。送ろうか? 警察官なら、寮かな?」
 タツの申し出に、沙織は慌ててかぶりを振った。
「そんな! 大丈夫ですよ、って言うか、私が送ります!」
 再び敬礼する沙織だが、その立ち姿は明らかに軸がぶれていて、誰の目にも危なっかしく見える。
「まぁまぁ、無理しなさんな。そら、寮はどっちだい?」
 タツが促すと、沙織は不満そうに頬を膨らませながら、覚束ない足取りで歩き始めた。
 十分ほど歩いて、沙織の住む寮が見えて来た。足を止めた沙織が、タツに向き直って深々と頭を下げた。
「今日は本当にありがとうございました!」
「こちらこそ、ありがとう。お休み」
 タツも会釈を返す。
「お休みなさい」
 沙織は笑顔で応えると、踵を返して寮へ向かった。門に差しかかった所で、沙織が何気なく振り返ってタツを見た。やや猫背で、ゆったりとした足取りで遠ざかるタツの後ろ姿が、妙に寂しそうに見えた。

 数日後、勤務を終えた沙織が、タツの」への差し入れにと途中のコンビニで購入した菓子パンと缶コーヒーを入れたレジ袋をぶら下げて公園に入ると、『殴られ屋』の周辺にいつもと異なる緊迫した空気が漂っていた。訝しんだ沙織が人混みを縫って前へ出ると、髪を金色に染めた大柄な男がタツと対峙し、男の脇には仲間らしき男がふたり、ニヤけ面で立っている。
「何?」
 沙織が声を漏らすが、タツも男達も全く反応しない。金髪の男は地面に唾を吐くと、タツに顔を寄せながら言った。
「だからよ、オレがアンタを一方的に殴るだけじゃ面白くねぇからよ、アンタも手ェ出していいから、勝った方が今日のアガリを全部頂くって事にしねぇかっつーの」
「そうそう、オッサンは三分立ってられたら勝ちでいいぜ。まぁ尤も、ヒロシは強ぇから一分ももたねぇと思うけどな」
 脇から仲間のひとりが口を出す。更にもうひとりも喋り始める。
「嫌ならやらなくていいんだぜ? その代わり、有り金全部置いて行きな」
 この三人は、タツが高齢と見てこんな提案をしているのだ。憤りを覚えた沙織が制止しようと一歩踏み出した時、タツが今までに見せた事の無い鋭い眼光を沙織に向けた。忽ち射すくめられ、沙織は動きを止めてしまう。
「タツ……さん?」
 驚きと不安の入り混じった表情で見つめる沙織をよそに、タツはヒロシを見据えて告げた。
「判った。グローブを着けろ」
「ほぉ、やるのか? いい根性だな」
 ヒロシは見下ろしつつ言うと、以前に沙織も嵌めたグローブに拳を入れた。
「ヒロシ! やっちまえ!」
「思い知らせてやれ!」
 仲間がはやし立てる中、ヒロシは自信満々な表情でグローブを打ち合わせた。タツもグローブを嵌めるが、いつも着用するヘッドギアは着けない。
「じゃ、始めるか」
 タツがタイマーのスイッチを押すや否や、ヒロシが猛然と襲いかかった。
「くたばれ!」
 ヒロシの右拳がタツの顔面めがけて振り下ろされた。
「あっ!」
 沙織が声を上げた。他の見物人達もざわめく。
 だがヒロシの拳は、タツの顔面には当たらなかった。
 わずかに首を傾けてパンチをかわしたタツが、両拳を顎の辺りに上げて腰を落とした。その佇まいに、仄かに殺気が漂う。
「チッ」
 必殺の一撃をよけられたヒロシは、舌打ちしつつタツに近づいて左右の拳を振るった。
「おらおら!」
 威勢良くパンチを繰り出すものの、ひとつとしてタツの身体にかすりもしない。沙織達は、タツの流れる様な動きにすっかり魅了されていた。
「凄い……」
 やたらにパンチを打ち続けたヒロシの息が上がって来た。その様子を見たタツが、口角を吊り上げて言った。
「どうした? 若いのにもうバテたのか?」
「うるせぇ!」
 ヒロシが逆上して右拳を強振するが、タツにあっさりかわされてたたらを踏む。
 結局、ヒロシはタツに一発もパンチを当てられぬまま三分間を終えた。タツは息を吐いてグローブを外すと、膝に手を当てて喘ぐヒロシに告げた。
「あたしの勝ちでいいんだな?」
 ヒロシは顔を上げてタツを睨むと、両手からグローブを外して地面に叩きつけるなり、
「うおらぁっ!」
 と素手で殴りかかった。その刹那、タツが身体を沈み込ませてヒロシの拳に空を切らせると、鋭い右ストレートを鳩尾に打ち込んだ。
「ほぅっ」
 瞬時に息を吐き出し、ヒロシは腹を抱えて膝から崩れ落ちた。
「ヒロシ!」
「テメェ!」
 途端に、仲間がタツに襲いかかる。しかしタツは全く慌てず、ひとり目の鼻面に左ジャブを当ててのけ反らせると、ふたり目の脇腹に左ボディフックを叩き込み、更にひとり目を右ボディアッパーで悶絶させた。
 一瞬の出来事に呆気に取られていた沙織が、グローブを拾うタツの姿を見て我に返った。
「あ、タツさん、大丈夫ですか?」
「あぁ、全然。この通りですよ」
 タツは両腕を広げて見せる。安堵した沙織が、三人を横目に見ながら訊いた。
「どうします? 警察に通報しますか?」
「いやいや、わざわざ事を荒立てる事はありませんよ」
 沙織の申し出を笑顔で断ると、タツは三人に言った。
「お代はいらんよ、二度と人様に迷惑かけなさんな」
 苦悶しつつ睨みつけて来る三人に背を向けて、タツは荷物をまとめて周囲に一礼し、その場を離れた。沙織は不安そうな顔で三人を一瞥してから、タツの後を追った。
「タツさん、凄かったですね。やっぱり昔ボクシングやってたんでしょ?」
 タツに並びかけた沙織が、袋から缶コーヒーを取り出して渡しつつ訊くと、タツは受け取ってから照れた様に答えた。
「へへっ、まぁ人よりちょっとできる程度ですよ」
 ふたりして、歩きながらパンとコーヒーを胃に収め、やがて寮の近くに差しかかった。
「じゃあ、今日はここで。お休みなさい」
「あぁ、お休み。ごちそうさん」
 挨拶を交わすと、ふたりはそれぞれ帰路に就いた。
 寮の表門の前で、沙織がタツの去った方を振り返ると、遠ざかるタツの後ろ姿に、複数の人影が重なった。途端に胸騒ぎを覚えた沙織は、元来た道を走って引き返した。数秒後、前方から何か硬い物を叩く様な音が聞こえた。胸騒ぎは増大し、走るスピードも上がる。
 やがて、数メートル先の道端で複数の男が手に長い棒状の物を持って振り回しているのが見えた。彼等の足元に、タツが倒れている。
「タツさん!」
 沙織は瞠目し、足を止めた。タツを襲っているのは、先ほどの三人組だった。
 すぐに助けに行くべきなのに、沙織の身体は動かない。
 数日前の、手痛い失敗が頭をよぎった。
 また、あの時みたいに何もできないんじゃないか?
 自分への疑問が、沙織を躊躇させた。
 だが、次に沙織の頭に去来したのは、先輩から浴びせられた容赦無い叱責だった。
 役立たず。
 胸中にあの時の悔しさが甦り、沙織は奥歯をきつく噛み締めた。
 ここでタツさんを助けられなかったら、私は本当の役立たずだ。
 沙織は己の頬を両掌で二度叩くと、再び走りだして男達に大声を浴びせた。
「やめなさぁい!」
 男達が手を止めて一斉に沙織を見た。鋭い視線を受けて怯みそうになるが、沙織は歯を食い縛って堪える。
「何だテメェ、邪魔すんな!」
 手前に居た男が沙織に得物を向けて怒鳴りつけた。沙織は顎を引くと、走り寄って男の得物を両手でひったくり、倒れているタツを庇う様に三人の前に立ち塞がって得物を青眼に構えた。両掌から伝わるひんやりした感触で、やっと得物の正体が鉄パイプだと気づいた。
「何だ姉ちゃん? 怪我しねぇ内に消えな」
 沙織の正面にヒロシが立ち、手にした鉄パイプで己の肩を叩きながら告げた。沙織は片手を上着の内ポケットに入れ、中から身分証を取り出して見せた。
「け、警察です! ぶ、武器を捨てて、お、おと、大人しくしなさい!」
 沙織のたどたどしい警告が通じる筈も無く、ヒロシは半笑いで言い返す。
「姉ちゃんサツか。迫力ねぇな」
「カミカミじゃねぇか、落ち着けよ!」
「無理すんなよ姉ちゃん!」
 他のふたりも沙織を愚弄するが、沙織は身分証をしまい、改めて両手で鉄パイプをしっかり握って身構えた。その態度が気に入らないのか、ヒロシが地面に唾を吐いてから、
「どけっつってんだろうがぁ!」
 と喚きながら鉄パイプを振り上げた。その瞬間、沙織が腹に力を入れて、裂帛の気合を放った。
「やぁーーっ!」
 直後に、高速で鉄パイプが突き出され、ヒロシの首の付け根辺りを直撃した。
「ぐぇっ」
 呻き声を上げながらヒロシが後方に吹っ飛び、背中から地面に倒れた。
「ヒロシ!」
「このアマ!」
 まだ鉄パイプを持っている男が、激昂して沙織に襲いかかった。沙織は男の一撃を左へ受け流すと、返す刀で胴を払った。腹をしたたかに打たれて、男は鉄パイプを取り落としてうずくまる。すると、残ったひとりが落ちた鉄パイプを拾い上げ、叫び声を上げながら滅茶苦茶に振り回した。
「うわぁぁぁー!」
 その様子を見てかえって落ち着きを取り戻した沙織が、男が鉄パイプで地面を思い切り叩いた隙に、素早く小手を打った。
「痛っ」
 思わず鉄パイプを放した男の眼前に、沙織が自分の持つ鉄パイプの先端を突きつけて、
「大人しくしなさい!」
 と大喝した。男は息を飲んでその場にへたり込んでしまった。その時、パトカーのサイレンが聞こえて来た。付近の住民が通報したのだろうか、すぐに三台のパトカーが沙織達の周囲を取り囲んだ。
「君達! 何をしてる?!」
 パトカーから出て来た警官の声に、沙織は慌てて身分証を提示し、ヒロシ達を指差して、
「暴行、傷害の現行犯です!」
 と言ってから、背後のタツに向かってしゃがみ込んで呼びかけた。
「タツさん! しっかりしてタツさん! タツさん?! ねぇタツさん!?」
「その方は? どうされたんですか?」
 別の警官が問いかけると、沙織は必死の形相で振り返って言った。
「救急車呼んでください! 早く!」
 余りの剣幕にたじろぎつつ、警官は無線に手をかけた。沙織は再びタツに向き直り、大粒の涙をこぼしながら呼びかけ続けた。
「タツさん! 返事して! 死んじゃ嫌! ねぇタツさん! タツさん!!」

『手術中』の赤いランプが灯る扉の傍らで、沙織が祈る様な姿勢で長椅子に座っていた。その身体は、小刻みに震えている。
「タツさん……死なないで」
 目を閉じて呟き続ける沙織の耳に、リノリウムの床を踏んで近づく足音が聞こえた。目を開けて前方を見ると、幼稚園児くらいの女児を連れた若い夫婦が、不安そうな顔で立っていた。夫の方が、沙織に尋ねた。
「あの、水原 竜也が運び込まれたのは、こちらですか?」
 沙織は一瞬戸惑ったが、すぐにタツの家族だと気づいて立ち上がった。
「あ、そうです! あ、私は、御連絡を差し上げた山懸 沙織です」
 身分証を提示して告げた沙織に、夫が会釈して応えた。
「あ、自分は、息子の清志です。で、こちらが妻の加奈と、娘の愛子です」
 紹介を受けた加奈が頭を下げ、加奈に促された愛子が沙織を見上げて挨拶した。
「こんにちはー」
「こんにちは」
 沙織も微笑して返す。
 清志は『手術中』のランプを見上げてから改めて沙織に訊いた。
「あの、どうして父はこんな事に?」
「タツさんは、公園の中で『殴られ屋』を開いていまして、そこで揉めた若者に後で暴行を受けたんです」
「殴られ屋?」
 沙織の説明を聞いて、清志は瞠目した。
「御存知無かったんですか?」
 沙織が訊くと、清志は気まずそうに答えた。
「実は、自分達は父とは一緒に住んでいないんです。二十年ほど前、自分が高校生の時に母が病死しまして、その時に些細な事で父と大喧嘩をして、直後に自分が家を飛び出して以来、ずっと別々に暮らしています」
「そうなんですか」
「ただ、自分達が結婚する時に、妻が父にも結婚式に出て欲しいと言ってくれて、それで一応、仲直りはしたんですが、妻が同居を持ちかけても父は断り続けて」
 清志の言葉尻を継いで、加奈が口を開いた。
「あの、実は私達、お義父さんが今何処に住んでるのか、知らないんです」
「え? どうしてですか?」
 沙織が訊くと、清志が代わりに答えた。
「うちの娘は、生まれた時から心臓に疾患がありまして、治すには大変難しい手術が必要で、費用もかかると主治医から聞かされて、途方に暮れていました。その事を、妻が父に話したんです。そうしたら半月後、自分の口座に父から多額の入金があって、その金の出所を聞こうと実家へ行ったら、知らない内に売りに出されていたんです。それから、たまに連絡を取っても、今の住所も、金の出所も教えてくれませんでした」
「と言う事は、タツさんはお宅を売却してお金を?」
「恐らく」
 苦虫を噛み潰した様な顔で頷く清志に、加奈と愛子が寄り添う。
「ですから、私達はどうしてもお義父さんにお礼が言いたくて、でもまさか、こんな形で会う事になるなんて……」
 悲しげな表情で言う加奈を見て、沙織の胸に罪悪感がこみ上げた。
「ごめんなさい! 私がタツさんをひとりにしなければ、こんな事にはならなかった筈です。本当に、申し訳ありませんでした!」
 沙織が深々と頭を下げた時、『手術中』のランプが消えて、真下の扉が開いた。中から緑色の手術衣を着た医師が、額に汗を光らせながら出て来た。気づいた沙織が口を開きかけたが、一瞬早く清志が問いかけた。
「先生、父は大丈夫ですか?」
 医師は清志を見返して言った。
「ええ、命に別状はありません。ただ、頭蓋骨と肋骨にヒビが入っているので、二ヶ月ほど入院が必要です」
「そうですか、ありがとうございました」
 頭を下げる清志に会釈を返して立ち去ろうとした医師が、思い出した様に立ち止まって清志に尋ねた。
「あ、つかぬ事をお伺いしますが、あの方は昔ボクシングか何かをなさってましたか?」
「え? ええ……それが何か?」
 清志が訝しげな顔で訊き返すと、医師は微笑して答えた。
「いえ、瞼の周囲に古い縫合の跡がいくつかあったもので」
 改めて会釈して歩き去った医師を見送ってから、沙織が清志に尋ねた。
「あの、タツさんって、やっぱり昔ボクシングをやってたんですか?」
「ええ、一応、世界チャンピオンにもなりましたよ」
「えっ!?」
 廊下に反響するほどの大声を出してから、沙織は顔を赤らめて俯いた。その様子を微笑して見ながら、清志が言った。
「と言っても、自分が物心ついた時にはもう引退してましたけど。何で辞めたのか訊いても、父は答えてくれませんでした。でも、母に訊いたら、こっそり教えてくれましたよ」
「理由は、何だったんですか?」
「網膜剥離になって、辞めざるを得なかったんだそうです」
 清志の淡々とした返答とは対照的に、沙織は衝撃を受けていた。
 網膜剥離は、眼球の中の網膜が剥がれ、視力が低下する病気で、顔に多くの衝撃を受けるプロボクサーにとっては、常に発症の危険がつきまとう病気である。
 沙織も、網膜剥離に関しては聞きかじり程度の知識は持っているので、タツが『殴られ屋』を開業する事のリスクは理解できた。と同時に、酷い暴行を受けたタツが網膜剥離を再発させてしまうのではないか、と新たな心配の種を抱える事になった。
 その内に、手術室から看護士達に押されてベッドが出て来た。その上で仰臥するタツは、頭部と上半身を包帯でぐるぐる巻きにされた状態で、麻酔の効果で眠っている。目の前を通り過ぎたベッドに向かって、愛子が声をかけた。
「おじいちゃーん」
 加奈が沙織に頭を下げて、愛子の手を引いてベッドの後を追った。直後に、清志が沙織に告げた。
「本当にお世話になりました。では、これで失礼します」
「いえ、こちらこそ……お大事に」
 互いに会釈し、清志は踵を返して妻子の後に続いた。遠ざかる三人の後ろ姿を見つめながら、沙織が独りごちた。
「家族、か……」

 数日後、沙織は非番を利用してタツの見舞いに行った。タツを襲った三人は既に送検され、関係者の事情聴取も終わっていた。
 病院の近くの花屋で購入した花束を抱えて病院の扉をノックすると、中から加奈の声が聞こえた。
「はい」
「失礼します」
 扉を開けて沙織が顔を覗かせると、ベッドの上で上半身を起こしたタツが、朗らかな笑顔を見せた。その頭は、未だに真っ白な包帯で覆われている。
「やぁ、お嬢さん、こんにちは」
 タツの傍らのパイプ椅子に座っていた加奈も、立ち上がって会釈する。
「こんにちは、具合どうですか?」
 入室しながら沙織が訊くと、タツは笑顔のまま答えた。
「はい、もうすっかり元気ですよ、ちょっと包帯が窮屈ですがね。こんな広い部屋にひとりで居ると、退屈で仕方ありませんよ」
 以前と変わらないタツの口調に、沙織も思わず頬を緩める。だがすぐに表情を引き締めて再び尋ねる。
「あの……目の方は、大丈夫ですか?」
「目? いや、問題ありませんよ」
 怪訝そうな顔で答えるタツに、沙織は曖昧な微笑を返した。
 沙織から花束を受け取った加奈が、
「活けて来ますね」
 と席を外し、空いた椅子をタツが促す。
「そんな所に立ってないで、かけなさいよ」
「ありがとうございます」
 礼を述べて、沙織は椅子に腰を下ろした。数秒の沈黙の後、沙織が口を開いた。
「あの、タツさんって、プロボクサーだったんですね」
「あぁ、息子にでも聞いたんですか。昔の話ですよ」
「世界チャンピオンにまでなったのに、網膜剥離になって引退しなければならなかった」
「そんな事もありましたねぇ」
「それなのに、何で『殴られ屋』なんて始めたんですか? また網膜剥離になるかも知れないのに?」
 沙織の問いかけに、タツは窓の外へ目を向けたまま答えようとしない。
「それと、愛子ちゃんの手術費用の為に御自宅を売却なさったそうですけど、どうしてそこまで?」
 更に沙織が問うと、タツは溜息を吐いてから言った。
「子供が困ってる時に助けてやるのが、親の務めです」
 至極当然とも思える言葉だが、いざ実行に移すとなると、誰でも少しは躊躇する筈だ。だがタツの口ぶりからは、清々しいまでの潔さが感じられた。沙織は、父親という存在の偉大さを見せつけられた気がした。
 数秒後、タツが照れ臭そうに鼻を掻きながら言った。
「まぁ尤も、それまでの貯金も殆ど出してしまって、スッテンテンになってしまいまして、さてどうしようと考えた結果、『殴られ屋』になった訳ですよ」
「え? という事は、生活の為に始めたんですか?」
 沙織が瞠目して訊くと、タツは柔和な笑顔を向けて、
「はい!」
 と力強く頷いた。呆気に取られる沙織だったが、不意におかしくなって大声で笑い出した。つられてタツも笑う。そこへ、花を活けた花瓶を持って加奈が戻って来た。楽しそうな様子のふたりを見て、
「お義父さん、御機嫌ですね」
 と声をかけた。それを聞いた沙織が慌てて口に手を当てて謝った。
「あ、ご、ごめんなさい!」
 加奈は笑顔でかぶりを振ると、花瓶を窓辺に置いた。陽光を受ける花を見て、タツがこぼした。
「あぁ、綺麗ですね」
 沙織は花とタツを交互に見て微笑を浮かべると、椅子から腰を上げた。
「じゃあ、私はこれで。タツさん、お大事に」
「わざわざありがとうございました」
 加奈が深々と頭を下げ、沙織も会釈を返す。
 踵を返した沙織を、タツが呼び止めた。
「お嬢さん」
 沙織が振り返ると、タツが真面目な顔で告げた。
「本当に、ありがとう。あなたは、立派な警察官です」
 その瞬間、沙織の胸に何とも言えない思いがこみ上げ、目に涙が滲んだ。だが沙織は必死に泣くのを堪え、背筋を伸ばして敬礼した。
「ありがとうございます!」

 病院を出た沙織は、スマートフォンを取り出して電源を入れ、起動した所で画面を操作し、電話をかけ始めた。スマートフォンを耳に当てて数秒待ち、相手が電話に出た直後に口を開いた。
「もしもし、お父さん?」

〈了〉

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