掌編――空
「あいたっ」
指の先に鋭い痛みが走って、カレンは人差し指を押さえた。ぷっくりと赤いしずくが綺麗な円を描いている。
「どうしたの?」
手芸部の狭い部室に詰め込まれた会議机の向かい側で、せっせと編み針を動かしていた琴音が手を止めて顔を上げていた。
「なんでもないの、ちょっとよそ見しちゃって」
手をぶんぶん振ると、ちくちくが脈打って痛みが増した。
「気をつけなさいよ。あんた、今日三回目じゃない。ほら、絆創膏」
「ありがと」
右手だけで絆創膏を貼る。もはや手馴れたものだ。
「で、何をよそ見してたの?」
「うん……笑わないでくれる?」
カレンはそう言って頬を赤らめると、絆創膏を貼った指で窓の外を指した。
「空がね、青いなあって」
「そうね、いつだって空は青いわ」
「そんなことないわよ、夕暮れは赤いし、嵐のときは暗い灰色だし、雷のときは黄色いし、雪の日は白いわ」
「はいはい。で、それがどうしたの? どうして三回も針を刺すことになったのよ」
琴音の顔には、『笑わないから言いなさい』と書いてあった。
「うん、あのね。今朝なんだか気がついちゃったの。世の中ってとっても綺麗だなあって。空の青さとか、木の緑とか、花の色とか、土の色とか、レースカーテンの白さとか。朝の空気のすがすがしさとか、昼の空気のぬくもりとか、夜の静けさとか、鳥のさえずりとか、虫の鳴き声とか、猫の柔らかな毛並みとか、犬の元気な足音とか、火の暖かさとか、風の気持ちよさとか」
「うん」
「あたし、背中丸めて歩いてたなぁって。今までとってももったいないことしてたんだなあって。だから、ついつい見上げちゃうの、空を」
「そうだね。あたしも背中丸めて足元ばっかり見て歩いてたなぁ。気をつけなきゃ」
琴音は同意した。
「ねえ、琴音」
「なぁに?」
「このぬいぐるみ、出来上がったらプレゼントするから、大切にしてね」
「ありがと。じゃあ、このサマーセーターはあんたにあげるわ。大事に着てよね」
「うん、ありがと」
そう言ってカレンは微笑んだ。
連休が終わって、教室にカレンの姿はなかった。
風の噂で、遠くのホスピスに入院した、と聞いた。
ホスピスが何なのか、琴音は知らなかった。だが、すぐに帰ってくるにちがいない、と思っていた。
部室に行くと、机の上にはセロファンで綺麗にラッピングされた猫のぬいぐるみだけが残されていた。
ぬいぐるみにピンで留められたカードには『ごめんね』と書かれていた。
そのとき、理解した。彼女はもう、この部室に戻ってくることはないのだ、と。
琴音は籠の中の編み針を取り出した。が、その網目はにじんで見えなかった。
「わかんないわよ、ばか」
ひとしきり泣いたあと、琴音は顔を上げた。空の青さを確かめるために。
そして、編み始めた。約束を守るために。一刻も早く会いに行くために。
「待ってなさいよ、カレン。一人にさせやしないんだから」
その目にはもう、涙も悲しみもなかった。