掌編――朝
「お母さん、今日お弁当いらないから」
恵美は玄関から台所に向かって怒鳴った。柱時計がぽーんと時を打つのを聞きながら、ランニングシューズの紐をきっちり結ぶ。
「陸上の朝練あるから。いってきまーす」
「あんた、朝ごはんは」
割烹着姿の母親が暖簾をめくって顔を覗かせたが、「いらない」とだけ言い置いて、恵美は扉を乱暴に閉めた。時間がない。
ガレージの自転車を引っ張り出し、分厚い学生かばんを荷台にくくりつけ、ユニフォームが入ったリュックを放り込んで腕時計を見た。
七時三十二分。
普段使っている駅までは下りルートで十四分だがホームまでの階段が長い。一つ先の駅だと三分余裕ができ、最短で十一分でいけるが山道ルート。
電車はいつもの駅を七時四十二分に出る。選択の余地はない。
「今日は山道ルートね」
恵美はまっすぐ坂を上った。
風が渡る。街路樹がさざめく。
汗だくになりながら立ち漕ぎで山を一気に登り、下る。
山を下る瞬間が恵美は好きだった。その瞬間、自分は風になる。
自分が風の核となって風を起こしているのだ。
汗で張り付く前髪も風が乾かしてくれる。
山を下りきって、駅が見えてきた。恵美と同じように駅に向かう自転車が何台も田んぼの向こうに見える。あと三分。自転車置き場まではあと少し。
今日は自己新記録かな。
そう思った時だった。
何かがはじけるような音がした。
バランスを崩した恵美は自転車から放り出された。右肩に激痛が走った。
すぐ近くで自転車のベルが聞こえた。
「大丈夫?」
誰かが声をかけてくれている。大丈夫、起き上がれるから。
恵美は右肩をかばいながら起き上がった。
立ち上がろうとして、膝の力が入らないことに気がついた。スカートをそっとめくると、右の膝は思いっきりすりむいて血が出ていた。打ったのもあるだろう。
「大丈夫? 立てる?」
声の主は詰め襟の男の子だった。
「ありがとう」
そう答えた声は震えていた。
支えてもらって、恵美はようやく立ち上がった。声どころか、膝も震えていて、気を抜いたらその場にへたり込んでしまいそうだった。
男の子は恵美の自転車を起こすと「パンクしたみたいだね」と言った。
「救急車呼ぼうか?」
「だ、大丈夫です」
駅の方角から、電車が来るアナウンスが聞こえてくる。
「で、電車来ちゃいますから、行ってください。わたしは大丈夫ですから」
「大丈夫じゃないよ。歩ける? とにかく駅まで行って手当てしなきゃ」
男の子はそう言うと、恵美の自転車を押し始めた。
駅まで十数メートルをゆっくり歩いている間に、電車は来て、行ってしまった。
駅に着くと、男の子は駅員に事情を話し、救急箱を借りてきてくれた。
膝から血が滴って靴下に赤いしみをつけていた。
消毒液を含んだ脱脂綿はあっという間に真っ赤になった。
「携帯電話持ってる? おうちに電話して迎えに来てもらったほうがいいよ」
自分の自転車を取ってくるから待ってて、と男の子は言って駅舎を出て行った。
朝練どころじゃない。諦めて恵美は家と学校と先輩に電話をかけた。
迎えはすぐにやってきた。
「お母さん」
「大丈夫? 手当ては」
通りかかった男の子がしてくれた、と説明した。彼が戻ってくるのを待ちたかったが、怪我の様子を見て動転した母親は、タクシーのトランクに自転車を無理やり積み込んで、恵美を病院に連れて行くと言った。
ちゃんとお礼言ってないのに。
動き始めたタクシーから、自転車を押した男の子が戻ってくるのが見えた。窓を開けると、男の子は気がついたようで、微笑んで手を振った。
「ありがとう!」
振り絞った声はきっと、男の子に届いたはずだ。
「行ってきまぁす」
恵美は玄関から台所に向かって怒鳴った。ランニングシューズの紐をきっちり結ぶ。
ガレージの自転車を引っ張り出し、分厚い学生かばんを荷台にくくりつけ、ユニフォームが入ったリュックを放り込んで腕時計を見た。
七時二十分。
怪我が治って自転車通学の許可が出るまでの十日間が待ち遠しかった。
あの男の子に、きっと会える。
まっすぐ坂を上った恵美の顔は、とびきりの笑顔だった。