ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり
緑がまぶしい季節になってきました。
今回は崩壊した世界への哀愁がメインで、ゾンビはあまり出ません。
人間が生活しなくなった都市で、生い茂る植物にかつての時代の面影を求めます。
緑多き都市……この言葉に、人々はどんなイメージを抱くだろうか。
今、コンクリートジャングルと呼ばれた都会には、多くの緑が根付いている。
ビルの谷間の風に揺れる花、壁のわずかな凹凸にひっかかった小さな綿毛……人の手が絶えて久しい今でも、都市は自らの緑化を進めている。
かつて都市の緑化は、その都市がきちんと管理されたうえで発展しているという余裕を示すものだった。
ビルの屋上に作られた庭園は無機質な空間に癒しのオアシスを提供し、壁面に植えられた花やツタは通る人々の目を楽しませ、四季折々の表情を見せる街路樹は大気汚染の軽減とともに街に季節の美を添えた。
効率のためではなく、あえてスペースを使って植える……それが美徳だった。
緑多き都市は、人が利益のみに従って開発を進めるのではなく、他の生物と共存しながら繁栄していこうとする奥ゆかしさの象徴だった。
しかし、今この都市に人はいない。
かつてはどちらを向いても嫌と言うほど目に入ってきた人間が、今は気配すらない。
話し声も機械の音も、商業施設から流れてくる軽快な音楽も聞こえない。人に関する一切の音が消え、風と草木だけがわずかな音を立てている。
緑はあっても、人はいない。
共生によって作り出された美しい緑化都市は、とうに失われてしまったのだ。
例えば、あのオフィスビルの上からはみ出している大きな木を見てごらん。
天に届きそうな高さのコンクリートの柱のてっぺんから、なおも天に向かって手を伸ばすこんもりとした緑の塊。
ビルの床からはみ出すほどに広がった枝は支えるものもなく自重で曲がって垂れ下がり、下の階の窓に差し込む光を遮っている。
もし中に人がいたら、迷惑だから切ってくれと言うだろう。
ビルの中に人がいて、きちんと管理されていた頃、あの木はもっと小さくて大人しかった。
屋上庭園の噴水の側にちょこんと立って、人々の憩いの場であるベンチに小さな日陰を提供していた。
あそこの社員たちは揺れる木の葉と木漏れ日を見ながら、パソコンやデスクワークで酷使した目を休めたものだ。気候がいい時は、下で弁当を食べながら談笑する者たちもいた。
あの木はビルの一員であり、社員たちの癒しと引き換えに世話をしてもらっていた。
春になると枝を覆うように白く可憐な花を咲かせ、それがビルの中に飾られてお客様をお迎えしたものだ。
その穏やかな時を忍ばせる花は、今も咲いている。
もはや誰に切られることもなくなった太い枝を覆うように、摘みきれないほどの花束を天に掲げている。
だが、もはやそれを摘んで飾る者はおらず、役目を失った花は散って下の道路やビルの窓枠に降り積もるばかりだ。
昔はあれが人々の心を楽しませて陰から会社を支えていたと思うと、今のこの惨状は口惜しいばかりだ。
今度はあちらの道路に咲いている黄色いパンジーを見てみよう。
道路のひび割れに根を張り、たくましく生きている小さな花。
しかし人が普通に道路を使おうとすれば、間違いなく邪魔になり、道路の補修に伴って引き抜かれるか車にひかれるのがオチだろう。
花が咲くべきは花壇であって、道路ではない。
この花は元々、ここに植えられたものではない。
いや、この花は生まれた時からここにあるが、その種をこぼした親はもっと上にいた。
二方の壁が斜面になった、お洒落な商業施設の壁面に、その花の先代はいた。南向きの日当りのいい壁に、色の違う仲間と一緒に幾何学模様を描くように植わっていた。
その花壇は他の商業施設の上層階やテラスからよく見える位置にあり、そこを訪れた買い物客やカップルがよく写真を撮っていた。
花たちは彼らが商業施設で落としていく金の一部で、美しく整えられていたのだ。
今、その商業施設の壁は緑色のツタと雑草に支配されている。
ツタを切り雑草を抜いてくれる人間がいなくなったことで、か弱い花々はあっという間に緑一色の大攻勢にさらされた。
元々の花壇にあった花たちは滅び、下の道路に落ちてうまくひび割れにはまった種だけが芽吹いて命をつないでいる。
下の道路にぽつぽつと咲いている子孫たちがいなければ、その上が花いっぱいの花壇であったことなど、もはや誰にも分からないだろう。
都市は今も、かつて以上の緑に満ちている。
なぜなら、草花は元々生きるのに人の手を必要としないからだ。
人がわざわざ手をかけなくても、植物たちは光と水さえあれば自分たちのやり方で増えて、人間に指示されたのと別の方向で緑化を進めていく。
だが、勝手に伸びていく緑の中には、確かに人と共にあった証がある。
本来そこになかった植物の存在が、明らかに人の手を感じさせる位置取りが、かつての共生を目指した社会を忍ばせる。
人間がいつまでも繁栄できる、持続可能な社会にしようと理想に燃えていた時代を。
自分たち以外の利益を考え、地球の恵みを皆で分かち合おうとして都市にも植物を招いていた、古き良き時代を。
今はもう、人類に共生などという余裕はない。
だって、これほどの大都市に人の気配がないくらいだ。
他の街でも田舎でも、人の数は前とは比べ物にならないくらい減った。
今の人間は皆が自分が生きるのに一生懸命で、かつてのように美しい都市など作っていられない。
だから今は、半自然の状態でビル街を覆う緑にかつての面影を求めるしかない。
人の手を失って徐々に形を崩していく緑たちも、元は人の手によって植えられたのだ。
今やそんな見苦しく伸びつつある植物たちこそが、人がかつて目指して実行しようとしていた豊かで満ち足りた時代の語り手なのだ。
え、植物が伸びないビルの内部や地下はどうかって?
確かにそこなら、人の痕跡を緑が覆ってしまうこともないし、根が地面の装飾を割ってしまうこともない。なるほど、人が栄えていた頃の面影は外よりずっとはっきり残っているだろう。
しかし問題は、そこには人自体の成れ果てが今も残っているということだ。
かつてそこで終わりを迎えた人間たちの成れ果てが、今のその閉ざされた空間で獲物を待ち構えている。
古き良き時代の残照に引かれて一歩でも踏み込めば、奴らはあらゆる死角から現れて訪れた者を食い尽すだろう。
かつての哀愁にひたっていたいなら、外から眺めるだけにしておけ。
昔の良き時代に思いを馳せ、感傷にひたるには、動いている心臓と生きた脳が必要だ。
外にある植物たちは少なくとも、積極的に君のそれに手を出したりしない。
それにしても、かつて人の繁栄はあのビルの中や地下が主体であったというのに……今やそれを忍ぶことが外からしか許されないとは、何とも寂しく皮肉なことだ。