[56]
「姫様っ私も共に参ります!」
手短に身支度を済ませ、寝殿へ向かおうとする小さな背中を呼び止める
彼女は振り向きもせず呟いた
「あなたはここで待っていなさい。」
返事も待たずにどんどんと進んで行く背中は、徐々に小さくなっていく。
「………姫様。」
一見頼りないあの背中にどんなに大きなものを背負っているんだろう
「……ごめんなさい。」
涙で視界が滲んだ。
彼女が背負っているもののうちに自分も含まれているのだと思ったら不甲斐なくて
少しも役に立つことができなくて…
「姫様…ひめさま…」
見送ることしかできない私を許してください………
…ぐずん。
背後で、乳兄弟が鼻をすする音がした。
味方も何もないこの屋敷で、私のためだけを考えてくれる唯一のひとを危険にさらすことはできない。
気丈に振舞ってはみたものの、正直…足がすくむ。
「………なんであんな人が父親なの」
思わずこぼれた疑問に、当然答えは返ってこない。
むしろあたりは恐ろしいほどに静まり返っていて自分の心臓の音が聞こえきそうな程だ。
(時が止まればいいのに…)
絵巻物で読んだことがある。恋人たちは幸せなときに、時が止まればいいと言うのだと。
だから自分自身もそういう時に考えるのだと思ってた。でも、実際幸せなときだけに思うことでもないようだ…。
「夏紅夜」
ふと名前を呼ばれ、顔をあげる
「っ!………お、お父様、」
ようやく絞り出した声だった。
「遅いから迎えにきたぞ。」
そんな私を知ってか知らずか、気味悪い笑みを浮かべて手を差し出してきた。
「さぁ、早く。」
再度強く差し出された手を避け、彼の脇を通って簀子を駆け抜けた。そうすることで不安も振り払えるような気がした―――
―――寝殿は人払いしてあるのか、やけに静かで、自分や相手の衣擦れの音がやけに聞こえてくる。
「夏紅夜、久しいな。息災であったか?」
「はい。…父上もお変わりないようで。」
「…人間そう簡単に変わりはしない。」
彼は退屈そうに扇で手のひらを叩いている。
一定の間隔でぺちん、、ぺちん、、、と鳴る音が…ふと止んだ。
「…右大臣の宴はどうであった?」
探るような聞き方に、額からどっと汗が吹き出た。
……あの日、私が右大臣家の少将に近づいたこと…父上は知っている?
その理由も…少将を利用してこの家から逃げ出そうとしていることが知られているとしたら…
…いや、そんなはずない。
誰にも…口にも、していないのだから。
「……大変、楽しませていただきました。」
こんな返事でいいのか不安になりながら、恐怖で荒くなる呼吸を必死に堪えた。
「近くに来なさい。」
「…え?」
脈絡ない台詞を不審に思ったのが顔に出てしまっていたのか、軽い咳払いの後に、わけを続けた
「顔が見たい。人払いをしているから、自分で御簾を上げてこちらにきなさい。」
さあ、早く。そう急かされて、渋々御簾をあげて中に入った。
中は燈台の橙色のあかりでほんのり明るく、調度の影をぼんやりと壁にうつす。お互いの顔もはっきりではないが、確認できるほどだ。
一瞬目が合ったものの咄嗟に反らしたが故、気まずい雰囲気が漂っていた。
沈黙を打ち破ったのは向こうだった
「相変わらず美しいな、秋姫。」
ほうと息をもらしたその人の目は私を見つめつつ、違う誰かを見ている
「私は夏紅夜、夏姫です。」
父は、時たま私と死んだ母を重ねて見る。そのたび、なんだか怪しい雰囲気になるので、必死に気丈に振る舞うのだ。
そうすると、興が冷めるようで助かるが…同時に機嫌が悪くなるので別の意味で身の危険を感じてしまう
「………秋姫はもっとおとなしかった。お前のそういう所は、父親似か。」
「ええ。お父様に似てしまったようです。」
「…本当に生意気で可愛げがない。まともなのは顔だけだな。」
ため息をついた父は、手にしていた扇を脇息におき、代わりにそばに置いてあった木の箱を掴み、膝に乗せた
「夏紅夜、お前に頼みがある。」
「私に…ですか」
「そうだお前にだ。」
手元の箱を開ける作業に気がいってるのか、喋り方がいつもより弱かった。
箱の蓋をとめていた紫色の紐がほどかれ、蓋を持ち上げ脇にどける、箱に手を入れ中身を持ち上げ
「お前にしかできない。」
その一言と共に姿を現したのは一本の短剣だった。
私の目前で鞘から抜かれたそれは、燈台の火の光りを浴びて不気味に光る。
その光を見つめながら笑う父親の姿が化け物染みていて、恐ろしさのあまり逃げ出そうと腰を上げた瞬間だった
―――突き出された切っ先が、喉にあたり微かながら首筋に血が滲む
「夏紅夜…これで」
狂気に狂った瞳で父は私に命じた
ただ一言、
「少将を殺せ。」
と。
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