[1]序章・玉響の幸せ
「誰かぬるま湯をっ!」
その日、九条の屋敷はいつもに増して慌ただしかった
「北の方さまっもっと力んでっ!」
女房がそう叫んでも、当の本人の耳には全く入らない
痛みに顔を歪めて苦しむだけだ。
その頃、産室の外では…
「中将様…いいんですか?」
「よくない、よくないけどダメだっ」
中将と呼ばれた男はそわそわと落ち着きなく動く
そんな彼に乳兄弟である義久は苦笑する
「中将様が側に居れば北の方様も心強いはずですよ?」
「…」
そう言われてもなお、中将は首を縦に振ろうとしない
「…何故です?何がそんなに嫌なんですかっ?」
その質問に中将はボソッと答えた
「好きな女が…苦しんでる顔を見たくない。」
「通雅様っ!!」
義久は怒りを抑えることができずに、周りに構わず諱を叫んだ
「あなたという方はっ!!」
こんな根性なしのどこに惚れて北の方は婚約を受け入れたんだろう…
北の方は左大臣家の一の姫で『将来、絶対に入内』そう育てられた深窓の姫。
あのタヌキジジィの娘とは思えないほどに美しく、歌の才もあって、非の打ち所がない。“京一番の姫”といわれた方だ。
しかし体が弱くて、寝込むことが多かった。
それを身篭もらせたんだぞっ
「あなたがしっかりしなくてどうするっ!!」
怒りに任せて振るった拳が通雅の左頬に入った…
その衝撃で通雅は倒れ高欄にぶつかった
しまった!と思ったときには既に遅し…
「す、すみませんっ」
平伏し、謝るしかない。
罰当たりなことに謝りながら心のどこかで思ってた
(この人は必ず許してくれる)
と。
そして案の定、
「顔を上げろ…僕が悪かった…」
彼は俺を許した
通雅様は優しすぎる。
よくよく考えれば…北の方は彼のそこが気に入ったのかもしれない。
でも権力が全ての世でそれは通用しないどころか邪魔だ。
通雅は変なことに度胸だけはあって…怒りくるう左大臣から一の姫を奪った。
行くあてもなく父である右大臣に助けを求め、右大臣から別邸に匿うかわりに
『5年以内に左大臣家の長男を越せ』
と命令された。
その約束が果たされなかった日には北の方だけ西国に…
なんて随分と悲しいお咎め付きだ。
右大臣とのその約束を果たし北の方と幸せに暮らすため、通雅様は内裏で頑張っていらっしゃるようだが…
左大臣家の長男はどうも随分と意地が悪くズル賢いらしい…
長年仕えている主人だ、悲しむ顔は見たくない
「ほんっとにしっかりしてくださいよ…俺は心配です」
思わず本音がポロリ。
「?」
それに何が何だかと彼は首を傾げた。
その様子で思いだす。自分の世界に入りすぎて忘れてたが
…北の方の出産に立ち会うように話してたとこだったんだ
「とにかく北の―――」
と俺が言いかけた時、屋敷に幸せが響いた
「生まれたかっ!生まれたんだなっ!」
さっきまでのは何だったのか…中将はとても嬉しそうに産室に駆け込んでいった
あの子供な通雅がどんな顔で我が子を抱くんだろうと興味津々でついて行くと…
「大丈夫か?」
「えぇ、私は大丈夫です。」
「本当に?無理はするなよ?」
北の方が幸せそうに笑う声と、“我が子より我が妻が優先”の父親になりたてたばかりの男の心底心配そうな声が聞こえた。
…想像通りというか何というか…。
水をさすのも悪いので、御簾を上げて出て来た女房に声をかけた
「女房殿、やや…どちらでした?」
神妙な顔の俺に対して女房は笑顔で答えた
「北の方の望まれた通りです。」
「そうか…ありがとう。」
“北の方の望まれた通り”ということは…男子、か。
ここで女子が生まれていたら確実に未来の女御だ。北の方が左大臣家に生まれた定めをどれだけ憎んでいたか…
その日の夜更け、寝殿に戻らない通雅に義久はご立腹だった。
「…あれほど言ったのにっ」
“産後は疲労が凄いんです。北の方を休ませてあげるんですよ?”
“あぁ”
“今夜はきちんと寝殿へ戻ってくださいね”
“分かってる”
「ったく、あの“分かってる”は何だったんだ!」
通雅を迎えに義久は北の対に繋がる渡殿を歩く
するとその音を聞き付けた女房が曹司から飛び出して来た。
北の方が左大臣家から連れて来たたった一人の女房、近江≪オウミ≫だ。
「お許しを。」
そう言って苛立っていた俺を一度制してから静かに北の対の中に招き入れた…
「勘当と同等の身…姫様には、中将様しかいないのです」
そう言われて中を覗くと、北の方が通雅に添われて穏やかな顔で眠っているのが見えた。
踵をかえして彼は呟く
「…今宵は満月。近江殿、共に月見はいかがか?」
少し寂しそうな義久の顔を見て彼女クスクスと笑った
「中将様の変わりにはなれませんが、私でよければ」
主人不在の寝殿で盃に入った酒に見事な満月が映る
「名はどうするんだろうな…」
「あの姫様のことです。易者が反対しようと陰陽師が反対しようと中将様から一文字とりますよ。」
そうにこやかに笑う近江の声を遮った
「それは困るっ!!」
静かな寝殿に男の声がこだまする
「…何故です?」
近江は眉をひそめた
「…同じ字でも付けて…間抜けがうつったら困る」
「…間抜けとは…酷い物言いですこと。あの方は優しいのです。」
「だからそこが間抜けだと言ってるんだ!」
「優しさを間抜けと同じにしてはなりません」
「同じだ!あれはこの世で必要ない!そんなもの持ってるなんて間抜け以外の何者でもないだろう!」
「っ!?望月様は中将のそこを見初めたも同然!それを馬鹿にするなんてっ!我が主人への冒涜です!」
「北の方とて“そこ”だけだろう!通雅様にはもっと沢山よいところがあると言うのに!」
諱が出した上に、情けないことにお互い論点がずれてる…
結局はどちらも幼い頃から仕えてきた自分の主人が一番なんだ。
「…私、明日の用意がありますので先に失礼しますっ」
不機嫌そうな声でそう言うと香のかおりを残して去っていった―――
「通雅さま…」
美しい声に呼ばれて通雅は目を覚ました
「……おはよ…う」
「おはようございます」
さすがに産後で疲れてるのか、顔が少しやつれ気味だ…
「大丈夫か?」
頬に手をやると嬉しそうにその手に自分の手を重ねる
「えぇ。大丈夫。」
そして目を少し潤ませて彼女は笑った
「今ね、とっても幸せなの。」
「俺もだよ。」
柔らかな唇に自分の唇を重ねようとした時…
「ゴッホン!」
一際大きな咳が2人を裂いた
「通雅様…朝っぱらからやめてください。ややに名を付けるのが先でしょう?」
よく見れば周りに控える女房たちの顔が赤い。
それでようやく自分が恥ずかしい行いをしていたことに気が付いて…
「す、すまない…」
通雅は蚊の鳴くような声で謝罪した。
北の方は易も何も関係なしに自ら名前を付けたがった。
そして北の対で新たに生まれた男子と共に3人―――
「…望月…望月…もち…づき…」
通雅は“望月”という名からもじろうと必死だ
それに対して望月は穏やかな顔で笑う
「通雅様、外は見事な雪景色ですね。」
「え?あぁ、そうだな。」
「私、淡い色の花の咲く…春が待ち遠しく思います。」
どこか遠くをみて呟く彼女に通雅はひらめいた
「春か!“春”と付けたいんだなっ!」
確信を持って叫んだものの、彼女はまた遠くを見て
「春もよいですが、健やかな青に囲まれる夏が…夏が恋しく思います。」
そうつぶやく。
「…夏か?」
「夏もよいですが、温かな朱に染まった美しい秋も愛らしいと思います。」
そんな望月の様子に北の対に集まっていた者たちは驚いた。
「…ひ…姫様?」
さすがの近江もこのいつもと違う望月の優柔不断さに言葉を呑んだ。
しかし、望月は構わず続けた
「何にも染まらぬ白に埋まる冬もまた良いですね…」
その言葉の意味に気づいたのはただひとり…通雅だけだ。
「…四季か。」
「はい。」
通雅に嬉しそうに望月は微笑む。
「通雅…雅やかに四季を生きる…雅季、」
通雅は、雅季と名づけられたややを抱き上げて御簾越しに雪景色を見させた。
そして強く強く願う…
雅やかに
春のように優しく愛され、
夏のように健やかに逞しく、
秋のように温かく美しく、
冬のように白い心を持つように…
四季の流れのように止まらずに
移り変わる泥のような世にのみこまれることのないように…
雅季、必ず幸せに育つんだよ―――
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