国一番の魔法使いは忙しい。
あるところに、春・夏・秋・冬、それぞれの季節を司る女王様がおりました。
女王様たちは決められた期間、交替で塔に住むことになっています。
そうすることで、その国にその女王様の季節が訪れるのです。
ところがある時、いつまで経っても冬が終わらなくなりました。
冬の女王様が塔に入ったままなのです。
辺り一面雪に覆われ、このままではいずれ食べる物も尽きてしまいます。
困った王様はお触れを出しました。
『誰でもよい、長い冬を終わらせ、春をもたらした者にはなんでも一つ願いを聞き届ける』
このお触れは国中のありとあらゆる者たちの耳に届きました。
人だけではありません、動物たちも虫たちも、木々や花たちも、冬眠しないすべての生きとし生ける者が知るところになりました。
もちろん、妖精や精霊、魔女や魔族の耳にも。
冬の女王様が閉じこもった塔には、毎日のように長い列ができました。
冬の女王様は塔の最上階の部屋に閉じこもったままでした。
塔の入り口は分厚い氷に閉ざされ、扉をノックすることもできません。
やってきた挑戦者たちを中に通すため、国一番の魔法使いが氷を解かし続けました。ですが解かす端から凍りついていくのです。国一番の魔法使いといえども生半なことではありません。
しかも夜になり、挑戦者たちが帰って夜が明けると、元のように分厚い氷がすべてを阻むのです。
今日も、眠い目をこすりながら出勤してきた魔法使いは、行儀よく並ぶ挑戦者たちをちらりと見て、深くため息をつきます。
仲が悪いと噂される妖精と魔族がともに列に並ぶことも少なくありません。冬眠から運悪く目覚めてこの話を聞きつけた熊が乱入して騒ぎになったこともありました。
列に並ぶ間はどれだけ仲が悪い者と隣り合わせになっても喧嘩をしない、というルールができました。
それを守れなければ、二度と挑戦することができなくなるとあって、挑戦者たちはいらいらしながらも口をつぐみ、自分の番が回ってくるのをじっと待つのです。
ただ、動物たちがこのルールを守れるかは定かではありませんでしたので、魔法使いたちは彼らを小さな結界で守らなければなりませんでした。
城の開門前から並ぶ彼らのために、炊き出しも行われました。
なにせ冬のさなかに外でじっと並ぶのです。魔術の心得があればまだましでしょうが、普通の者たちや動物たちには過酷な環境です。
並ぶ者たちを冬の寒さから守ることは国一番の魔法使いには難しくありませんが、毎日大勢の人間や人外が来るので、とてもじゃないですが手が回りませんでした。
本当に、国一番の魔法使いは扉を凍らせる分厚い氷を解かし続けるだけで手いっぱいだったのです。
だから、せめて空腹を紛らわせてもらおうと毎日炊き出しが行われ、待ち時間の退屈をしのいでもらおうと時には大道芸人を呼んで芸をさせました。
こんな状況は長く続かないだろう。
国一番の魔法使いはそう思っていました。
確かに、冬になってからずいぶん経ちます。春が来ないから木々も穀物の種も芽吹かず、眠ったままの動物たちは空腹のまま眠り続け、いずれは干上がってしまいます。
列に並ぶ者たちの顔も、日に日に不機嫌になっていきました。
そして、炊き出しの食料も、日に日に乏しくなっていきました。
とある日、いつものように出勤してきた国一番の魔法使いは、列に珍しい人が並んでいるのを見て目を瞬かせました。
それは、冬の女王様と入れ替わりに塔を出た秋の女王様でした。赤髪の秋の女王様は、にこやかに国一番の魔法使いに手を差し伸べます。
「ごきげんよう、グリアンディ様。わたくしを姉様の元までエスコートしてくださる?」
グリアンディと呼ばれた国一番の魔法使いはあからさまに顔をしかめました。
「その名前で呼ばないでください」
「ではトーマス様」
国一番の魔法使いは、仕方なさそうに差し出された手を握り、と塔の方へと歩き始めました。
秋の女王様なのですから、本当は彼のエスコートなどを待たなくても自由に塔に出入りしてかまわないのですが、待っている他の者たちの手前、遠慮していたのです。
トーマスがやってくるまで列に並んでおとなしく待っているあたり、穏やかな気性の秋の女王様らしいと言えましょう
塔の入口まで来ると、いつも通り分厚い氷に閉ざされています。この氷は階段の上から下までみっちり詰まっていて、生半なことでは解かすことができません。
この氷を、冬の女王様が籠っている部屋まで解かすのが、ここしばらくの国一番の魔法使いの日課なのです。
「少々お待ちください。いま氷を――」
「ああ、いいの。様子を見に来ただけだから。わたくしが会いに行っても姉様は会ってくれないし、塔から出ようとしないでしょうから」
トーマスはいつものように氷に手を触れて、魔法陣を展開していきます。
「いいんです。毎日のことですから」
氷の間から水があふれてきます。毎日こうやって解かした水を流しているせいか、塔の周りだけは雪が積もっていません。
隣に立つ秋の女王様は少し下がって、塔の上部を眺めました。今日も雪が降るのでしょう、分厚い雲が低く垂れこめています。
「……ねえ、気が付いていて?」
「何をですか」
作業に集中していたトーマスは顔を上げずに応えました。
「姉様よ。窓から外を見ているわ」
その言葉にはっと顔を上げると、上を向いたままの秋の女王様がほんの少し微笑んでいるように見えました。
自分の立つ場所からは塔の上部は見えません。
冬の女王様は一体何を見ているのだろう、と氷から離れて秋の女王様の横に立って顔を上げると、確かに窓の傍に白い服を着た人影が見えました。
ですが、もう少しよく見ようと目を眇めると、人影はふいに消えてしまいました。
「今のが冬の女王様ですか?」
「あら、会ったことないはずないわよね? わたくしたちの相談役なのですもの」
ころころと笑う秋の女王様に、トーマスは顔をしかめます。
引退する長老から女王様たちの相談役を引き継いだのは昨年のことでした。相談役とは言いながら、実際には塔に長い間こもらなければならない彼女たちの話し相手をするだけですが、腰を痛めた長老には長く座っているだけでもつらかったのでしょう。
「ええ、もちろん存じております。……人影が動いたのが見えただけでしたので」
それは残念、と秋の女王様はころころ笑い、くるりと背を向けられました。
「お会いにならないのですか?」
「言ったでしょう? わたくしが行っても会ってはくれないもの。……姉様が待ってるのはわたくしじゃないの」
それだけ言うと、秋の女王様はさっさと来た道を戻って行ってしまいました。
トーマスは再び氷を解かす作業に向かいます。
階段に詰まった氷は先ほどまでと違い、氷が育つスピードが速くなったような気がして、魔法の重ね掛けをしなければなりませんでした。
この日、階段に詰まった氷が完全に消えたのは、お昼を過ぎた頃でした。
翌日もいつものように出勤すると、塔の入口に珍しい人が待っていました。深緑の髪の夏の女王様でした。両手を腰に当て、不機嫌そうに唇をとがらせています。
「トーマス、遅いじゃないの」
「申し訳ありません」
国一番の魔法使いは頭を下げて詫びました。
いつごろから夏の女王様が待っていたのかは分かりませんが、分厚い緑の外套を着込んでいるにもかかわらず、唇が真っ青なところを見ると、ずいぶん前から待っていたに違いありません。
そうでなくとも、夏の女王様は寒さに弱いのです。
さっそくトーマスは氷を解かし始めました。その様子を、夏の女王様は興味深げにのぞき込みました。夏の女王様が近くにいるせいでしょうか、氷の溶けるのも早いような気がします。それどころかなんだか暖かい気さえしてきます。
ですが、氷の近くでさらに寒くなったのでしょう、青い唇のまま、ぶるりと震えているのに気がつきました。
「そちらで焚き火をしていますから、氷が解けるまでそちらでお待ちください」
「そう? じゃあそうさせてもらうわ」
夏の女王様がほっとした顔で嬉しそうに火の傍に行くのを見届けると、トーマスは氷の方に向き直りました。
今日も妙に氷の育つスピードが速いのです。他の魔法使いにも手伝ってもらいたかったけれど、列に並ぶ者たちの守護と世話で手一杯なので、頼むわけにはいきません。
夏の女王様のお力を借りればこの氷も早く解けるのかもしれない。そうは思ったものの、焚き火であったまっていてくださいと告げた以上、手伝いを乞うのは国一番の魔法使いのプライドが許しません。
いつもより高度な魔法を使った結果、昨日よりははやく氷は解け、夏の女王様がやってきました。片手には何やらあぶった餅の刺さった串を持っています。ちらりと見ると、焚き火に集っていた兵士たちからもらったもののようです。
「さすがね、トーマス。これあげる。あったかいうちに食べてね」
「ありがとうございます」
手に押し付けられたのはあぶった餅の串でした。
夏の女王様が塔に近寄ると、育ちかけていた氷が消えていくのが見えました。
夏の女王様の持つ力のせいでしょう。
彼女が降りてくるまでの少しの間は休めそうだ、とトーマスは腰を下ろして一息つくことにしました。
しかし、お餅を食べ切る前に夏の女王様は機嫌よく降りてきました。
その直後から始まった氷の急激な成長に、トーマスは餅をのどに詰まらせそうになりながら、氷を解かすための魔法陣を展開させます。
「一体何をお話しになったのですか?」
「別に? こんな湿気た部屋の中にいるとカビが生えるわよって言っただけ。カビが生えた姉様なんて誰も迎えに来ないわよって」
じゃあね、と手を振りながら去っていく夏の女王様にため息をついて、トーマスは氷を解かす作業に戻るのでした。
翌日、いつものように出勤したトーマスは、列の最後尾に桜色の髪をした春の女王様が立っているのに気が付きました。三日連続で、もう驚きはしませんでした。
どうも、つぎからつぎへとくる挑戦者たちに先を譲っているようです。見る見るうちに列はどんどん伸びていき、春の女王様は列からはじき出されてしまいました。
「春の女王様、どうぞこちらへ」
仕方なさそうにトーマスは春の女王様に手を伸べて、エスコートを申し出ます。
「冬の女王様に会いにいらしたのでしたら、列に並ぶ必要はありません」
「あの……ありがとうございます」
少しおどおどした様子で答える春の女王様は寒さのせいか頬も耳も真っ赤です。
昨日の例もありますし、春の女王様には最初から焚き火の傍にいてもらうことにしました。
氷は昨日のような驚異的な成長スピードではなく、むしろ今日はゆっくりになっているような気がします。これならば、いつもよりもずっと早く階段を開通させられそうです。
氷をすっかり解かし終えると、春の女王様が近衛兵にエスコートされて戻ってきました。
どうやら春の女王様は男性には慣れていないらしく、近衛兵にも丁寧にお礼を述べています。案内した近衛兵は顔を真っ赤にしながら帰って行きました。
「お待たせしてすみません、もう上まで上がれますので」
「……はい」
春の女王様はしばらくじっとトーマスの方を見ていましたけれど、諦めたように背を向けて階段を上り始めました。
トーマスはいつも通り、氷を溶かす作業に戻りました。
エスコートを期待されたのかもしれない、と気が付いたのはずいぶん後、春の女王様が帰ったあとでした。しかし、自分が持ち場を離れてしまうと、また氷が階段を塞いでしまうかもしれません。
自分の行動は間違っていなかった、と自問自答して、塔の上部をちらりと見ます。
もちろん、今いる場所から塔の人影など見えません。
実は、春の女王様が去り際に言った言葉が気になっていたのです。
『姉様は幸せですわね』
何がどう幸せなのだろう、とトーマスは考え込みました。塔の中に閉じこもり、誰とも会わない彼女が幸せだとはどうしても思えなかったのです。
今日の挑戦者がいなくなり、日が落ちて、トーマスの仕事は終わりました。兵士たちも片付けと明日の準備をして、ばらばらと解散していきます。
塔に登る者がいなくなって、氷を解かすのをやめたトーマスは、塔から少し離れて冬の女王様がいるはずの部屋を見上げました。
日が落ちた後だから、部屋の中からは暖かそうな黄色い光が漏れているのが見えます。その光を切り抜いたように、人影が窓の傍に立っていました。
「冬の女王様……」
逆光になっているせいでその人影が冬の女王様かどうかははっきりわかりません。塔には別に世話係の侍女が詰めているとも聞いています。
ですが、それが冬の女王様だとなぜかトーマスには分かりました。
自分が見上げていることなど、きっと気が付いていないに違いない、それならばとその場に立ち尽くしてじっと見つめることにしました。
あの人影が窓際から消えるのを待ってから帰ろう。そう思ってトーマスは、いつまでもいつまでも立ち続けていました。
翌日、トーマスは起き上がることができませんでした。昨夜体を冷やしてしまったせいで、熱を出してしまったのです。
でも、こんなところで寝ているわけにはいきません。今日も塔に登ろうと待っている人たちがいるのです。
何とか起き上がろうともがいているうちにベッドの下に落っこちてしまいました。
どうしたらいいだろう、と考えるものの、高熱で煮えた頭では答えが出てきません。
助けを呼ばなくちゃと考えた時、窓を荒々しく叩く音に目を開けました。見上げれば、窓の外から兵士が目を丸くしてのぞき込んでいました。
そういえばさっき扉を叩くような音がしたな、とトーマスは思い出しました。きっと出勤してこないトーマスを迎えに来てくれたのでしょう。
ですが、窓も扉も魔法で鍵をかけてあって、トーマスが開けないと誰も入れないのです。
鍵を外す魔法を唱えようとしましたが、喉を痛めたのか声がうまく出せません。
しばらく兵士は窓を叩き割ろうとしていましたが、気がつけばいなくなっていました。
トーマスはため息をついて目を閉じました。熱のせいで暑いのに、体の震えが止まりません。
このまま誰の助けもなく死ぬんだろうか。
そんなことを考えた時でした。すうっと冷たい風が吹きました。
なぜか玄関が開いた気がしました。でも、そんなはずはないのです。魔法の鍵はそう簡単には開けられないはず。
トーマスは国一番の魔法使い。自分より力の強い魔法使いは今この国にはいないはずなのですから。
もし開けられたのだとしたらーー大ピンチです。
最近は減りましたが、国一番になった当時は、力比べをしに魔法使いたちが毎日押しかけてきていました。しかも、ただの力比べだけでなく、本気で倒しに来るのです。
彼らに今の状況を知られたら、今度こそ終わりでしょう。
こんなところですこんな形で終わるなんて、あっけない人生だったな、などと煮えた頭であきらめて目を閉じると、涼やかな香りが漂ってきました。
ひやりとしたものが額に触れて、ゆっくりとトーマスは目を開けました。
「……え」
目の前には、銀色の大きな目が今にも涙をこぼさんばかりに潤んでいます。銀色の柳眉が下がり、白を通り越して青い顔です。ざんばらに乱れる髪の毛もやはり銀色で、冬の女王様だと知れました。
「死なないで」
りんごのように赤い薄い唇が開いたと思うと声が聞こえました。その途端、ああ、自分は死にかけているのかとトーマスは納得しました。
きっとこれは、死にかけている自分が見たいものを見ている、幻覚なのだと。
分厚い氷に守られた塔にこもっているはずの冬の女王様が、自分の小汚い部屋にいるはずがないのですから。
伸ばそうと動かした手を冬の女王様がしっかり握ってくれました。なんと幸せな夢でしょう。
「いい……夢ですね」
トーマスはくすりと笑ってそれだけ声を紡ぐと目を閉じました。最後に見たのが笑顔でなかったのだけは残念でしたけれど、概ねいい人生でした。
そのまま、トーマスの意識は闇に飲まれました。
次に目が覚めた時には、ベッドの上にいました。
熱も下がり、霞がかかったようだった頭もすっきりしています。
一体どれぐらい眠っていたのでしょう。熱にうなされていた間のことはあまりよく覚えていませんでした。
あの時のことも、熱の見せた白昼夢だったのだろう、とトーマスは小さくため息をつきました。
なぜなら、鍵のかかったこの部屋には誰も入ることはできないのですから。
ただ、誰かが手を握ってくれていたような気がしました。ひんやりと冷たい手がとても気持ちよかったことも。
起き上がったトーマスは、ふらつきながらも立ち上がりました。そして、部屋の中をぐるりと見回して首をかしげました。
塔の氷を溶かすようになってから、部屋には寝に帰るだけで、ろくに片付けなどした覚えはありません。なのに、ベットルームは綺麗に整えられていました。
そして。
長い冬の間焚き続けていた暖炉の火は、落とされていました。
「そんな……馬鹿な」
暖炉の火がなければ凍え死んでしまいます。ですが、暖炉の傍に山と積んでいたはずの薪さえ見あたりません。
確かベランダに在庫があったはず、と開けたカーテンの外には――春の日差しに満ちていました。
その瞬間、分かったのです。……自分が眠っていた間に、誰かが冬の女王様を外へ連れ出したのだと。
秋の女王様が言った言葉を思い出しました。きっと、冬の女王様が待っていた相手が来たのでしょう。
それが自分ではなかったことにほんのわずかな痛みを感じながら、トーマスはカーテンを閉めました。
春が訪れた今、トーマスが氷を解かす必要はもうありません。
塔に行くのが日課のようになっていたせいで、つい日の出前に目が覚めてしまうのだけが悩みの種でしたが、それも研究に没頭するようになると忘れていきました。
女王様の相談役も忙しいので長老に相談して代わってもらうことにしました。
以前のように舞い込んでくる依頼をこなし、それ以外の時間は新しい魔法の研究に費やす。そんな日常が戻ってきました。
けれども、何かをどこかに置き忘れてしまったみたいで、時折ぼうっと宙を見つめていることが増えました。
そんなある日のこと。青い顔をした長老が訪ねてきました。久しぶりの挨拶もそこそこに、長老が難しい顔で口を開きます。
「トーマス、一体君は何をやったんだね?」
長老を困らせるようなことは復帰してからまだ一度もやっていません。確かに過去には実験で家を吹き飛ばしたりはしましたが、それもずいぶん昔の話です。
「わしのところに王宮から迎えが来ての。君の部屋に近づけないから協力してくれと」
そう言いながら長老がちらりと振り返るので肩越しに見ると、槍を構えた近衛兵が四人、玄関の外で待ち構えています。そのうちの一人には見覚えがありました。倒れた日に窓から覗き込んでいた彼です。
王宮からの迎えが近衛兵四人とは尋常ではありません。それほどのことをした覚えはないのだけれど、とトーマスはしかめ面になりました。
面倒ごとがいやなので、部屋の周りには常に厳重な結界をかけていました。そのせいで長老が引っ張り出されたのでしょう。
「……ご面倒をかけたようで申し訳ありません」
「分かっておるならこれ以上面倒をかけるなよ」
そう言われては逃げることもできません。しぶしぶ近衛兵が近付いてくるのを待ちました。
近衛兵の震える手で差し出された封筒には、確かに王様の印璽があります。促されて開くと、明日行われる季節の廻りを祝う式典への招待状でした。
氷を解かしただけの自分がなぜ呼ばれているのかわかりません。ですが、王命とあらば受けるしかありません。
「承知しました」
しかめ面のまま応答すると、脂汗を流していた兵士たちの顔がぱぁっと明るくなりました。何が何でもトーマスを連れてくるようにと厳命されていたのでしょう。
「それでは、ご一緒に王宮までご足労願います」
「……明日の式典に間に合えばいいのでは?」
「そのための準備がございまして」
貴婦人でも何でもないのですから、準備など必要ありません。ですが、兵士たちに困った顔で王命ですので、と言われてしまうと反論することもできません。結局、兵士たちに囲まれて、まるで連行されるかのように家を出ることになりました。
王宮に着くと、王室お抱えの理髪師に髪を整えられて髭も剃られてしまいました。倒れて以来、すっかり放置しっぱなしだったのです。
そのあとはまるで着せ替え人形のようにいろいろな服を着せられ、抵抗しようとすると王命ですと言われ、終わった頃にはもうくたくたです。
解放されてベッドにもぐりこめばあっという間に眠りに落ちていきました。
翌朝は早くに叩き起こされました。着替えようとしましたが自分の服がありません。なぜか侍女も来ず、仕方なく用意されていた黒い礼服を身に着けることにしました。
着替え終わったところでやってきた侍女に髪の毛を整えられ、迎えの兵士たちについて部屋を出ます。
黙ったままついていった先には大きな扉がありました。兵士たちを見れば重々しくうなずきます。
トーマスは扉を見あげました。扉の向こうには人の気配がたっぷりとあって、ざわざわと話す声も聞こえてきます。
この時になってようやく、季節の巡りを祝う式典には多くの貴族が呼ばれるのだということを思い出しました。おそらく、両親もいるでしょう。
できればこの場から逃げたい。そう思いながらも、兵士たちを置いて逃げればどうなるかは目に見えています。
仕方なくトーマスは扉を開けました。
人々の視線が自分に集まっているのを感じて、気分の悪さがこみ上げてきます。
後ろの兵士たちに促されて歩くうちに、ここがどこだか気が付きました。儀式や式典の時にのみ使われる玉座の間です。王様の隣には王妃様も座っています。
半ばまで進んだところで、トーマスは足を止めました。王様の前にはすでに四人の女性が膝をついて控えています。彼女たちの後ろで膝をつこうとすると、兵士に肩を叩かれました。
どうやらもっと前に出ろということのようです。結局女性たちよりも前に進み出て膝を折ることになりました。
自分が呼び出されたわけも分からず、トーマスは頭を下げました。ただ式典に呼ばれていると聞いただけですし、春が廻ってきた件についても自分はただ氷を溶かしていただけで、功績があったわけでもありません。
まさか王様の御前に出ることになろうとは思いもよりませんでした。
「トーマス・D・グリアンディ」
「……はっ」
王様の呼びかけを苦々しく思いながらも、トーマスは堪えて返事をします。
「この度のそなたの働き、見事であった」
「……いえ」
なにもした覚えがありません、と言おうとして言葉を飲み込みました。
「して、そなた。何を望む?」
「……は?」
「何じゃ、まだ考えておらんのか?」
あきれたような王様の声に、トーマスは首をかしげます。まだ、と言われても何を望むかなどと聞かれたのは初めてでした。
トーマスは上体を起こし、顔をあげました。
「恐れながら陛下、私はここに呼び出される理由を何一つ聞いていないのですが……」
そう告げると、大様は目を丸くして玉座から立ち上がりました。
「何……? そなた、何も知らぬのか?」
何を驚いているのかわからず、トーマスは首をかしげます。
「自分の不注意で体調を崩している間に、どなたかが冬の女王様をお連れになったのですよね?」
「何を……言うておる」
王様は玉座から降りてトーマスの前にしゃがみこみました。白いマントが床の上に広がります。
「そなたのおかげで冬の女王が塔から出たのじゃ」
「私の、ですか?」
「冬の女王よ、何も説明しておらなんだのか?」
王の言葉の矛先に視線を向けて、ようやくトーマスは気が付きました。自分の後ろに控えていたのは、四季をつかさどる彼女たちだったのです。
「プライドだけ高い姉様が自分で説明するわけないじゃない」
垂れ下がる深緑の髪を弄びながら、くすりと笑って口を開いたのは、夏の女王様でした。彼女は立ち上がると、トーマスの前までやってきました。
「あたし、見てたから教えてあげる。あの日、トーマスが熱を出してぶっ倒れたってそこの兵士が塔まで知らせに来たのよ」
夏の女王様の指さしたのは、あの日覗きに来た兵士でした。彼女に指さされて緊張したのか、ぶんぶんと頭を縦に振っています。
「で、魔法使いがどうのって兵士たちが騒いでいた時だったかしら。塔を覆っていた氷がいきなり砕けたかと思ったら、姉様が飛び出していったの。でもすぐに戻ってきたんだけどね。トーマスの家を知らなかったらしくて」
夏の女王様はくすくすと思い出し笑いをしています。冬の女王様を振り返れば、うつむいたまま固まっているのが見えました。頬や耳やうなじがピンク色に染まっているのが見て取れます。
「結局そのあと戻ってこなくて、春の女王が塔に入って、季節が廻ったってわけ。だから、姉様を塔から連れ出したのは、間違いなくトーマスの手柄よ」
トーマスは戸惑うように視線を揺らし、冬の女王様を見つめました。冬の女王様はそっぽを向いたままでしたが、頬は見事にバラ色に染まっています。
夏の女王様の言葉を冬の女王様は否定しませんでした。ということは、本当なのでしょう。
あれは、いまわの際に見た幻でも高熱が見せた夢でもなかったのです。
トーマスは、おもわず緩みそうになる口元に手を当ててうつむきました。
夏の女王様の言葉が真実ならば、冬の女王様は、ぶっ倒れた自分を案じて、あれほど閉じこもっていた塔を出てきたということになるのです。
「……どうして」
思ったことがつい口からこぼれ、それを聞いた冬の女王様はぱっと顔を上げたものの、すぐに顔を隠されてしまいました。
「どうしてって、決まってんでしょ? 姉様はあんたのこと、まだ好きなんだから」
「夏の女王!」
悲鳴に近い声が夏の女王に飛びました。周囲からもざわざわと声が聞こえてきます。
ですが、夏の女王は全く動じず、今度は姉である冬の女王様の前に膝をつき、床についたままの姉の手をすくい上げると上体を起こさせました。
「姉様が塔に閉じこもった原因は知らないけど、塔から出たのは間違いなくトーマスが原因。それでいいんじゃない?」
ね? と振り向いた夏の女王の笑顔に、王様が力強くうなずきます。トーマスは苦笑を返すしかできませんでした。
「ともあれ、そういうことじゃ。なんでも一つ願いをかなえよう。……まあ、今すぐには決まらんじゃろうから、決まってからでよいぞ」
「はい。……少し考えさせてください」
王様はうなずくと立ち上がり、玉座に戻ると式の終了を宣言しました。王様と王妃様が揃って退出なされると、貴族たちも宴の準備のためにぞろぞろと出て行きます。その中にはトーマスの父母の姿もありましたが、膝をついて首を垂れたままのトーマスは気づくことはありません。
冬の女王様をのぞく三人の女王様たちも、気を利かせてそっと部屋を出ていきました。
トーマスは立ち上がり、まだうなだれたままの冬の女王様に歩み寄りました。
「冬の女王様」
はっと顔を上げた冬の女王様は、トーマスと視線が絡むとすぐにうなだれてしまいました。
「……怒っていらっしゃいますか、私のことを」
「……怒っていたら看病しになんか行かないわ」
「じゃあ、どうして会ってくださらなくなったんですか」
トーマスはぼそりとつぶやきました。
今年も冬の女王様が塔に入ってからたびたび、話し相手として呼び出されていました。それまで一度だって塔に上がるのを妨害されたことはありませんでした。
なのにあの日、突然塔の最上階へ通じる階段が氷で埋められ、登れなくなりました。
階段を埋め尽くす氷をどれだけ解かそうとも、冬の女王様は扉を開けてくれることはありませんでした。
それは自分とは会いたくないという冬の女王様の意思表示。だから、お触れが出て様々な挑戦者たちが塔に登って行っても、自分が登ろうとは思わなかったのです。
「……悲しかったから」
「悲しい? 何がですか」
「……グリアンディ家の長男に王女様が降嫁すると聞いたの」
トーマスは目を見開き、息を呑みました。
その噂は全く寝耳に水で、打診すら受けたことはありません。王様からも聞いたことがありません。
もともと折り合いの悪い両親のこと、自分の意思をそっちのけで勝手に進めようとしているに違いありません。
そういう噂が彼女の耳に入るということは、まるで決まったことのように噂をばらまいているのでしょう。
眉根を寄せ、ぎりりと奥歯をかみしめると、貴族たちが退出していった扉を睨みつけました。
目の前にたたずむ美しい銀の双眸からはらりと涙がこぼれおちるのを見て、トーマスは手を伸ばして涙をぬぐいました。涙にぬれた目が自分を見上げていて、心臓が早鐘を打つのが分かります。
「ごめんなさい。あなたの横に他の女性が立つと思ったら、堪えられなかった。……あなたを憎む前に、遠ざけたかったの」
頬を撫でた手を肩に置くと、トーマスはぐいと彼女を引き寄せ、腕の中に閉じ込めました。声もなくはらはらと涙を落とす彼女がいとおしくてたまらなくて、胸がいっぱいになっていくのを感じます。
「王に願うことが決まりました」
「……えっ」
そっと体を離したトーマスは、見上げてくる冬の女王に微笑みを返します。
「あなたを妻にと。……家とは縁を切ります」
「トーマス様……」
「様は要りません。家を捨てれば私は平民です。……それでも、私を選んでくれますか?」
再びこぼれ始めた涙を拭いもせず、冬の女王様は小さくはい、と頷きました。
「冬の女王様」
「……スヴェラーナ、と呼んでくださいませ、トーマス様」
誰も知らない本当の名前を口にした彼女に、トーマスは目を丸くして彼女を見つめ、それから蕩けるような笑みを浮かべました。
「スヴェラーナ、御身の半身として、傍に侍る許可をいただけますか?」
「ええ、もちろんです。トーマス様」」
「デイヴィッド、とお呼びください」
トーマスもお返しにと誰も知らない自分の真名を明かしました。
冬の女王様が小さくデイヴィッド、と呼ぶと、トーマスはやはり蕩けるような笑みを浮かべました。
嬉しそうに微笑みあう二人の影は、いつまでも離れませんでした。