亜由美が足をとめたのは、その看板に惹かれたからだった。
お化け屋敷に掛かっていそうな古ぼけた看板は喫茶店にはふさわしくない。
それは名前も、だった。
おどろおどろしく墨が滴りおちるホラーな毛筆で『どん底』と書いてある。
その名前に惹かれたのは、亜由美もまた、どん底だったからだ。
就職試験に、落ちてしまった。
これで何度目だっけ? 彼女は溜め息をつき、数えるのをやめた。
紺ブレで身をかため、髪は後ろで一つにくくり、リボンも紺、シンプルな黒のパンプス、肩にこれまたシンプルな黒のバッグ、片手にはファイルケース。
真夏にこんな暑苦しい格好で街を歩いているのは、就職活動中の女子大生ぐらいなものよね、亜由美は汗をぬぐいながら苛立たしく思う。
すると一緒に、はらわたが煮えくり返る記憶もよみがえった。
面接官の声はヒキガエルに似ていた。
「彼氏とかいるの?」
そんなの就職に関係ねぇだろ、亜由美は毒づいたが、声にも顔にも出せない。
「・・・・・・いませんけど」
「だろうね」
顔までヒキガエルに似ているいやらしいオヤジ同士が顔を見合わせ、ふくみ笑いを漏らす。今ここに刃物があれば、そのぶくぶくに太った腹を切り裂いてやるのに!
小学校の時の蛙の解剖を思い出して、亜由美は握りしめた拳を震わせた。
たしかに彼女はお世辞にも美人とはいえない。
母親から『よく言って、十人並みの顔だね』と言われてはいる。
だからといって、なんでアンタたちに馬鹿にされなきゃいけないわけぇ!
亜由美のためにためた怒りは、容姿コンプレックスに触れられた途端、爆発した。
今までに何度も何度も就職に関係のないセクハラ質問をぶつけられてきた。
彼らは採用する気がないのだ。最初から。美人であるか、コネ、資格を持っているかが採用の決め手になる。亜由美はどれも持っていなかった。
どうせ落とされるのだ。
「――――てめえらのようなゲス野郎がいる会社なんか、こっちからお断りだよ!」
威勢良く啖呵を切ると、呆気にとらわれている面接官めがけて椅子を投げつけた。
ぎゃっと悲鳴をあげてヒキガエル親父がのけぞる。
面接官の怒声を背中に浴びて、亜由美は外に飛び出した。
心臓は怒りで張り割けそうだった。呪っていた。こんな腐った世界なんか滅びてしまえ!と。
そして、亜由美がふと立ち止まった喫茶店が、この『どん底』だったのだ。
元気な時だったら、友達と『どん底だってぇ』と笑いとばして、さっさと通り過ぎていただろう。だが、今の彼女は落ち込んでいて独りぼっちだった。
ふらり、と歩み寄る。
その喫茶店は、名前にふさわしく地下にあった。
ここからではどういう店なのかわからない。
奈落の底に落ちていくような錯覚にとらわれながら、亜由美は階段を降りていった。
チリン。
闇を塗り固めたようなドアを開けると、鈴が鳴った。
店の中も、薄暗かった。
カウンターだけが青白く浮き上がっていた。
木製のテーブルが幾つか、闇に飲みこまれそうになりながら並んでいる。
亜由美は音をたてて、唾を飲み込んだ。
夜の墓場に迷い込んでしまった気がした。
それでも彼女は、引き寄せられるようにふらふらと奥のテーブルに向かって歩き出した。
「おい! 女。注文は?」
席についた途端、人に命令するのに慣れた偉そうな声が頭上から降ってきた。
亜由美は、血管がブチ切れそうになった。
「ちょっと! それがお客様に対する態度なわけ!?」
睨みつけてやろうと顔をあげて、そのまま凍りついた。
なぜなら、男前だったからだ。
端正でありながら、野性味あふれる精悍な顔立ち。
しかも、痩せてはいるが筋肉ついてなさそうな優男が多い現代日本のなかで、二〇キロ以上の甲冑を着て戦った騎士のように鍛えぬかれた体格だった。
亜由美は感動していた。
松坂牛ステーキ食べ放題より魅力的だわ。
彼女は肉食の女だった。
野菜が嫌いで肉が好き。
なのに、普段は特価品の筋張ったステーキ肉しか食べたことがなかった。
(ああ、一度だけ食べた松坂牛ステーキ! 頬が落ちるんじゃないかと心配になるぐらい美味しかったな〜)
男は眉をひそめた。
「・・・・・・おい、涎が出てるぞ」
亜由美は慌てて涎をぬぐい、真っ赤になってうつむく。
と、顎をぐいっと持ち上げられた。
息がとまった。狼のように猛々しい双眸に間近で見据えられて。
「俺は気が短いんだ。さっさと注文を言え!」
「・・・・・・ミックスジュースください」
一瞬の沈黙のあと。
「・・・・・・命が惜しくないようだな」
男は、瞳に殺気を閃かせた。唇の端を上げて笑っているのが、よけいに怖い。
(でも、わたしは何も悪いことなんかしてない! なのに、なんで怒られなきゃいけないのよ!)
亜由美は、負けずに睨み返した。
「・・・・・・な、なによ! 喫茶店でミックスジュースを頼んでなにが悪いのよ! それともここはミックスジュースも置いてないってゆーの!?」
「お前の思っている喫茶店ではないだけだ」
人間にしては迫力がありすぎる顔で笑いかけられ、亜由美は背筋が寒くなった。
これ以上、聞くのが怖い、・・・・・・ような。
「アシュタル! お客様が怯えているじゃないか! ほんとに君って接客に向いてないね」
ふいに少年の澄んだ声がした。
振り返った亜由美が見たのは、天使だった。
白い翼は生えていないが、蜂蜜色の巻き毛とエメラルド色の瞳という組み合わせの外人(言うまでもなく美少年である)は、まるで教会から天使像が脱走してきたかのようだった。
半ズボンからすらりと伸びた脛毛のないつるりとしたナマ足がまぶしい。
これこそ、ショタなおねーさんの煩悩を刺激する小学生の男の子の足である。
天使みたいな男の子は、無礼千万なウェイター(アシュタルという名前からして、この男も外人らしい)を睨んでいたが、亜由美と目が合うと、にこっと笑う。
少女マンガならバックに花が飛び散っていることだろう。
「ごめんね。悪い奴じゃないんだけど、ただ気が短くて口が悪いだけなんだ」
「ヨシュア! 貴様ぁ!!」
「だって、ほんとのことじゃない」
アシュタルと呼ばれた男は、笑顔で返されて、憮然とした顔になる。自覚はあるらしい。
少年は、亜由美に向かって気取って一礼してみせ、すっと手を差し出す。
「どうぞ。ご注文のミックスジュースでございます」
その手に忽然とグラスがあらわれた。
テーブルに置かれた刹那、何もない空間からピンクがかったベージュ色の液体がグラスに注がれていく。
亜由美の顎が落ちた。
目玉も飛び出そうだ。
そんな亜由美の様子にヨシュアは、くすくす笑っている。
「ねぇ、どーしてこんなことができるのか不思議でしょ?」
少年は猫を彷彿とさせる緑の瞳を悪戯っぽくきらめかせ、亜由美をのぞき込んだ。
それは無邪気に笑いながら、命を奪うことのできる目だった。何の罪悪感もなく、楽しそうに――殺すのだ。
亜由美は悟った。わたしもまた、この少年にとって、玩具でしかないのだと。全身に鳥肌が立った。この子は人間ではない。そう直観した。
亜由美は椅子ごと後ずさろうとして、思いっきり椅子ごとコケた。
「ドジな女だ」
アシュタルが吐き捨てる。
「おねーさん。大丈夫?」
なんて言いながら、ヨシュアは笑っている。
「・・・・・・あ、あ、あんたたち人間じゃないわね!」
裏返った声で叫ぶと。
「うん、そうだよ」
あっさり肯定された。
行儀悪くテーブルに腰掛けて足をぶらぶらさせて、得体の知れない美少年は尻餅をついたまま起きあがれないでいる亜由美を見下ろして、微笑んだ。
「僕たち、悪魔なんだ」
これまた、あっさりと正体を暴露した。
「――――な、な、なんで、悪魔が喫茶店でウェイターなんかやってんのよっ!」
そう亜由美が叫ぶのは無理もない。
しかし。悪魔と名乗ったヨシュアは、亜由美の反応が面白くてならないらしく、くすくす笑って答えない。
「・・・・俺はウェイターなどではない。軍人だ」
唸るように言ったのはアシュタルだった。
「アシュタルは魔族の軍団長の一人なんだよ。だけど今は、この店のマスターに留守を頼まれて、臨時でウェイターやってるんだけどね」
「・・・不本意だが、致し方あるまい。あいつには借りがあるからな」
「・・・・・・」
ヨシュアぽかんと口を開けている亜由美を見て、
「ここで解説しよう!」
と、言い出した。
「悪魔って一口に言っても、アシュタルのような天使と戦うことしか能のない悪魔や、人間と取引して一攫千金を狙う大阪のあきんどみたいな悪魔や、僕みたいにちょっと退屈しのぎに人間を陥れて遊ぶ悪魔とかいろいろいるんだよ。ちなみにこの店のマスターは、あきんどタイプさ」
「・・・・・・はぁ」
「で。この喫茶店は、君のような悩める子羊しか来れない店なんだ」
「・・・・・・・」
緑色の瞳から目が離せなくなる。
「ふ〜ん。君も大変なんだね〜。友達はどんどん就職は決まっていくのに一人だけ取り残されて。試験は片っ端から見事に落ちて、プライドはズタズタ」
亜由美の肩が震えた。
「僕たちなら君の願いを叶えて上げられるよ。だって、悪魔だからね!」
と、少年は得意そうに胸を張った。
「あ、もちろん無料じゃないよ」
「・・・・・・・魂で払えっていうんでしょーが」
「ほう、物わかりがいいじゃないか。もっと馬鹿かと思っていたが」
これはアシュタルだ。
「分かって当然よ。ありふれた話だわ!」
亜由美の目は据わっていた。彼女の精神は逞しいので、異常なことにも素早く順応できてしまうのである。
「それにね! 就職試験に通ってもアンタたちに魂を取られちゃ、就職した意味ないじゃない!」
「そんな心配は無用だよ! おねーさんが死んだときに取り立てに行くから。注意しなきゃいけないのは、願いのグレードにあわせて寿命が短くなるけどね」
悪魔はマクドナルドの〇円スマイルよりも見事に微笑んでみせた。
「・・・そう、だったらいいわ」
もう就職活動をしなくてすむのなら、面接官の値踏みするような視線に我慢しなくてもすむのなら、次々に就職が決まっていく友達を横目に焦らなくてもいいのなら――地獄に行くぐらいどうってことないわ!
「それも、一生路頭に迷わないところじゃないとダメよ! 就職したはいいけど、リストラされるなんて冗談じゃないもの!」
悪魔の軍人なのにウェイターをやってる男を見据えて、注文する。
男は腕を組んでえらそーに言った。
「・・・度胸だけはある女だ。その愚かな勇敢さに免じて、聞いてやろう」
亜由美は、にっこり笑った。
アシュタルはとてつもなく、イヤな予感を覚えた。
その予感は当たった。
いきなり人間の女は彼に抱きつき、宣言したのだ。
「わたし、あなたのお嫁さんになるわ!」
アシュタルは、睨まれただけで心臓が止まるほどの凄まじい眼光で見据えたが、女はにっこり笑って言った。
「なんでも願いを叶えてくれるんでしょ?」
「・・・・・・」
だから、なぜそうなるんだ? とアシュタルは叫びたかった。
天使のような悪魔少年は、肩を震わせて爆笑していた。
「いやあ! おねーさん最高! たしかに一生路頭に迷わないよ。悪魔の花嫁になるんだからね。永久就職間違いなしさ!」
はっぴーえんど(?) |