第八十五話
鈍色―――どこもかしこも黒、黒、黒。
待賢門院崩御。
ああ、この虫たちの澄みきった声。今宵はなんと美しい月夜なのだろう。だが、だが、わたしにはこの虫の声が哀歌に思えてならぬのだ!
母上・・・。あなたは悲しんでおられるのか?
娑婆にゆゆしく憎きもの
法師の焦る上馬に乗りて
風吹けば口開きて
頭白かる翁どもの若女好み
姑の尼君の物妬み
どこからともなく聞こえてきた声。
なんてよい声なのだろうか。
このような時に不謹慎な歌をうたうとは何事か、と数人の卿が眉を寄せるなか、顕仁はすっと立ち上がった。
「新院!」
聖子は驚いて彼を呼んだ。薄墨色の袿が美しく広がった。
顕仁は淡く笑うと、彼女に手をさしのべた。
「おいで。聖子」
その声はしわがれていると言うにはあまりにも滑らかで、腹の底からの響きは心地よく耳をなでさすった。
待賢門院の喪に服し、人々ばかりか調度品までもが鈍色だというのに、御所の一角―――母屋から離れたこの一室は何か別世界のようだった。
何人もの女房をはじめとする女官が集い、その中心にいる一人の男は着ている袍も着くずしており、烏帽子をつけない頭は髷が丸出しであった。
女房たちを相手に実に楽しそうに歌い踊っている。死とは無関係な世界に、彼はいるのだと顕仁はぼんやりと考えた。
一人の女房が顕仁と聖子に気づき、驚きと戸惑いの声を上げた。
室内がしんと静まりかえった。
「・・・新院」
青年がふり向いた。横顔が顕仁に似ていなくもないが、どっしりとした鼻や頑丈そうな顎は、いささか俗っぽかった。しかし笑うとえくぼができ、なんとも愛嬌がある。
「これはとんだご無礼を。母上の死を悼む新院のご胸中を酌みきれなかった不肖を、どうかお許しください」
青年は本気で畏れ入っているようであった。
「よいのだ、四宮。おまえもわたしと同じなのだな。母上が薨られたというのに、ちっとも悲しくないのだ」
雅仁は顔を上げ顕仁をしげしげと見た。
「兄上もでしたか!」
顕仁はほほえみながら言った。
「ところで、先程おまえがうたっていた歌。もう一度聴かせてはくれぬか?」
めっそうもない、と雅仁は首をふった。
「貴い位にある兄上がお聴きになられるようなものでは・・・」
「今様歌だろう?」
顕仁は腰を屈めながら言った。互いの距離が近くなりすぎていることに気づき、雅仁はどきりとした。
あまたの姉妹や弟とはそれなりに付き合いがある。しかし、この兄とは今までまともに口を利いたことがあったであろうか。同じ母から産まれながら、太上天皇の尊位にある者とたかが二品の親王では、その差はあまりにも広かった。
本来ならば直に目見えてはいけない貴人。兄弟といえども触れ合ってはいけない兄。それらを可能としたのは母の死だ。母が死ななければ、こうしてこの御所に来ることもなかった。
雅仁は左手で顕仁の肩に、右手で二の腕に触れた。なんというか細さ、心許のなさ。かつてこの双肩に国家がのしかかっていたのだと思うと、雅仁は敬服せずにはいられなかった。
「四宮?」
顕仁は心配そうに尋ねた。
「兄上はもっと気難しい人かと思っておりました」
雅仁はにこりと笑い、うたいはじめた。
「よくよくめでたく舞ふものは 巫女 木楢葉 車の筒とかや・・・」
彼はうたうのをやめた。
顕仁が泣いていた。
雅仁はしばしのあいだ不思議そうに兄を見やったあと、またうたいはじめた。
何を思って涙を流しているかは、顕仁にしか知り得ないことであった。
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