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  有明の月 作者:小波
第八十三話
吾兄あせの君様」
 右手に立派な坪庭が見える廊を歩きながら、聖子は頼長を呼んだ。
 肩を並べて歩くなど少女の頃にさえなかったというのに、新院の中宮ひいては皇太后となった今、叔父である頼長を吾兄と呼び彼の妻であるかのように彼の横を歩いていた。
「吾兄・・・」
 聖子は桃襲の袖口で顔をおおった。
「新院のお姿があまりにも痛々しくて・・・。わたくしに子があったなら!あのお方の御子とて、ここにはいないのです」
 顕仁の皇子・重仁親王は得子のもとで育てられていたのだ。
「われらが皇太后宮」
 頼長は腰を屈め、言った。
「弱気になられてはいけませぬ。今、新院を支えてさしあげられるのは、あなた様だけなのです」
 聖子は頼長の白い首筋を見おろしたまま黙っていた。ひどく心を傷つけられた気がした。
 父の弟。おのれよりたった二つだけ年上の叔父―――吾兄の君・・・
「人にはそれぞれ天命があると申します」
 聖子は静かに言った。
「どこかで何かが狂いはじめているのです。それを、天がお怒りになっている・・・」


 頼長が義兄の部屋を辞したのは、すでに小夜更く頃であった。
 廊はひんやりと冷たく、闇夜の彼方には彎月がきらめいている。虫の透きとおった声もどこからか聞こえてくる、すばらしい夜であった。だのに、誰も表へは出ず、どこもかしこも御簾どころか蔀まで閉め切っていた。
 頼長は空を見上げた。ひょっとしたら、今この美しい月を眺めているのは私だけなのではないか。しかし、彼はすぐに鋭利な三日月から目をそらした。両手でおのれの肩を抱いた。彼は泣いていた。
 払っても払っても闇は体に纏いつく。
 義兄の囁いた睦言がこだまする。熱い抱擁がよみがえる。しかし、それがどうしたというのだ。今、おのれはたった一人なのだ!
『吾が君―――』
 ああ、ああ!
 義賢。彼の匂いを感じる。熱い肉体を感じる。
 義賢は主を抱き上げた。
 なぜ、なぜ・・・。おまえは六条の館へ帰ったはずではなかったのか―――?
 開きかけた主の唇に、義賢はおのれの唇をあてがった。
 頼長は小さく溜息をついた。この恍惚感―――
「そばにいてほしいとき、おまえはおらぬのだな。今も、遠い。こんなに遠い!」
「愛しい吾君よ」
 義賢は頼長の砕けてしまいそうな白い顎をとらえた。
 頼長は男の逞しい背にかいなをまわした。
 ああ・・・
 ほうき星が―――
 青白い光りをまき散らし、禍つ星が夜空をゆく。

「皆が大騒ぎをするから、どんなにすごいのかと思えば、妖星とはたいしたことがないのだな」
 縁側に出ていた清盛が、上を向いたまま言った。
 その隣に腰をおろしていた時子が軽やかに笑った。
「上ばかり見ていては、つまらぬ石ころにつまずきますわ」
「なあに、俺は上を見ているわけではない。遠くを、彼方を見ているのさ」
 清盛はにっ、と笑った。
「妖星など恐れる俺じゃあない」
「いいえ」と、時子は先程と同じく鈴の音のように笑い、目元を和ませた。
「あれは、あなた様の行く末を照らす吉祥の星にございます」


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