第八十二話
新院御所は荒れていた。修理する者がいないのであろう。それでも庭はかつてのまま美しかった。話しによれば、新院が御自ら手入れをなさっているとか。他にすることもないから―――と。
人も目立って少ない。今日は不吉だからと実家にさがっているのだろうか?いや、そうではあるまい。よしんばそうであったとしても、院司や護衛の武士が宿直もせずに御所を離れるなど、あるまじきことであった。
―――“新院”という立場の虚無よ
頼長は池の睡蓮を眺めた。
「叔父上」
池を挟んだ向こう岸より、聖子が頼長を呼んだ。
少女の頃以来陽光のもとにさらされることのなかった、かの女の顔は白梅のように可憐だった。相生樹のように新院と二人肩を寄せ合う姿は、頼長をうっとりと酔わせた。
顕仁は白っぽい袍を着ていた。ふんわりと華奢な体をつつんだそれは匂やいで見える。
頼長はいそいで階よりおりて沓を履くと、顕仁を仰ぎ見た。
「新院、御気色よくなにより・・・」
頼長の口元が華やかにほころぶのを、顕仁はぼうと見ていた。
「・・・そちだけじゃ・・・」
顕仁は聞きとれないほどの声で言った。あまりにも小さく弱々しく、おそらくは独り言であったのだろう。彼は手に持っていた橘のひと枝をもてあそびはじめた。輝くような橘の果実が、ぽとりぽとりと重たげに落ちる。甘酸っぱくもほろ苦い、さわやかな香があたりに広がった。
「新院・・・」
頼長は罪悪感に苛まれるのを感じた。「御気色よく」などとよく言えたものだ。新院のお顔。初冬の早朝にはる薄氷のように繊細で、砕け散ってしまうかと思われるような輪郭。また一段とお痩せになられ、しかし神々しく美しく―――
唐突に顕仁が頼長の肩を掴んだ。彼が何かを思いつめているとき、かならずすることだった。
ああ、この香り。橘のしびれるような香が、頼長をとらえて放さなかった。
「わたしに会いにきてくれるのは、そちだけだ」
顕仁は弱々しく笑った。
新院、新院!あなたの、その笑顔を見られるのなら私はどんなことだってできる。
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