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  有明の月 作者:小波
第八十話
 京の北西、仁和寺に着いたときあたりはうっすらと暗かったが、夏の葉の緑が、吸収した残陽を発散させているからなのか妙に明るく思われた。
 午後に降った雨の匂いがかすかに残っている。
 小坊主たちが軒に連なる燈籠に火を灯していく。
 闇が濃く深くなっていく。
 ・・・殿―――
 呼ばれた気がした。
 幻想的な宵闇に浮かび上がったその女は、夢のなかで会った女だった。
 ああ、しかし・・・
 黒く豊かだった髪は雪のように白く背のあたりで切り揃えられている。その身にまとっているのは美しい襲の単ではなく、黒染めの法衣。そして永遠の星霜が刻まれた顔には、宿痾の黒い影。
 だが、見間違えるものか。おのれを正面から見つめてくるこの高貴な老女は、姉君と同じ美しく透ける顎をしていた。
「殿・・・」
 老女が、呼んだ。
「わが愛しき殿よ・・・」
 彼女はそう言いながら頼長の顔を両手で包んだ。
「一刹那とて忘れませなんだ。あなた様の美しく雄々しい姿。殿の仕打ち、どれだけ怨み申し上げたことか。それでも、それでも気づいておりました。どうしようとも、わらわには殿しかおらぬと・・・」
 頼長は両の頬に、すべてを包み込んでしまうほどの寛容な掌を感じていた。
「あなたは・・・いったい誰なのです?あなたがおっしゃりたかったこととは、これなのでございますか」
「わが殿、恋しき忠実様。忠通は、泰子は、わらわの子にございます。そして、あなた様の―――」
 頼長は心臓の喘ぎを聞いた。
「夕映・・・」
 彼はいつのまにか後ろに立っている年配の女を呼んだ。
 夕映が小さく首を振ったのが見えた。
「・・・嘘を・・・」
「ああ」
 老女がくずおれた。
 頼長が悲鳴ともつかぬ無言の声を漏らし、彼女を突き放したのだ。
「・・・知って、いたのか・・・?」
 頼長は言った。
「―――知っていながら・・・」
 頼長は息をつがずに次の言葉を言った。
「なぜ、なぜ今なのだっ!夕映、あなたは何もかも知っていながら父君に―――・・・そして、私が兄君と・・・あああっ」
「・・・若君」
 夕映は涙に濡れた顔をしていた。母の面影の女・・・
 頼長は手の甲を額にあてがった。彼女の眼が、おのれの顔にすえられていることに耐えられなかった。
『わらわは忠実様との思い出だけで生きてゆける。誰の愛も―――白河院の恋慕も、わらわの忠実様を想う心の前には無に等しい。
 ああ、あなた様の嫌悪のまなざし。わらわにはそれが一番つらい・・・。信じてほしいのです。これだけは!誰の子かなどどうでもよいのです。いいえ!誰の子なのか知れたこと。わらわが夫君と定めたのは、あなた様ただ一人なのですから』
師子もろこ様は嘆いておられる。父と子、兄と弟に別れて争うことを―――!わたくしは何も知らなかった。何も知らなかったのです!もし知っていたならば、みすみすあなた様を―――わが乳で育てた若君を不徳者にいたしたりしませぬ。
 どうか、どうか師子様を悲しませないで!若君。あなたしかいないのです。あなたしか・・・』
 ―――ああ、なぜ女とはこうも、傷つき傷つけることを恐れるのだろう
「私は・・・ぼくは何もわからない。何もできないよ・・・」


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