第七十四話
時忠の邸は洛中の西側にあった。
邸宅も少なく荒れ地が多いところだ。
清盛の住んでいる六波羅は洛外とはいえ、ここよりは侘びしくもなくはるかにましだった。
清盛はちらりと忠時の顔を見た。
案内された邸は造りこそ悪くなかったが、垣根がほとんど壊れかけていた。
花を咲かすにはまだ早い朝顔の蔓が竹で編んだ垣にまつわりつき、月光を鈍く反射させていた。松葉の香り、そよぐ躑躅の枝。
燃えさかっていた昼下がりとは反して、露のようにしっとりとした夜の静けさは、清盛を感傷的にさせた。
あそこに、あの淡く揺れる灯りが漏れている格子の向こうに、まだ見ぬ女がいる。
清盛は何かを思ったのか歩みを止めた。
―――俺は何を期待しているのか
「どうなさいました?」
松明を手に先を行く時忠がふり返り尋ねた。
「一番端の部屋に姉上がおります」
清盛は時忠の声を聞いていないかのように、ぼうっと前を見ていたが突然はっはっはっ、と笑いだした。
―――俺の考えていたことは、もしかしたらとてつもなく馬鹿げているのかもしれん!
時忠の顔に、ちらりと不安がよぎった。
清盛は彼を見やり、安心させるように肩を叩いた。
「心配するな。俺も男だからな、ここまで来て引き返したりはせぬよ」
時忠が安堵の吐息をもらすのを聞きとどけ、清盛は垣根の向こうへ足を踏み入れた。
大気が潤っている。
茂った草が濡れている。
清盛のくるぶしまでの袴を湿らせる。
ナンテンの大きく張り出した枝にぶつかり、ばさばさと大きな音がした。
「誰」
誰何したのは、やや低めの女の声であった。
この淡い炎の揺らめき。それを背にした女の顔を翳らせるのに十分な―――。
「もしや、清盛様?」
清盛は反射的に光りのなかへ飛び込んだ。
女は少し驚いた様子であったが、怖がっているわけではなさそうであった。
女は清盛に背を向けると部屋の灯りを消した。恥じらいからではないと、清盛は感じとった。彼は暗がりのなかに女の姿を見出そうとした。が、ムリであった。
「・・・なぜ」
清盛の声は動揺しているわけではないのに、かすかに震えていた。
闇のなかの女が笑った。声をたてたわけではないが、ほほえんだのが空気の流れでわかった。
「お上がりくださいな。殿方を下におくなど、なんて礼儀知らずな女とお思いでしょう?」
清盛は言われるままに縁側に足をかけた。そうすれば、この不思議と快い女に触れることができるのではないかと思ったが、彼が女のいたあたりに立った時、彼女はもうそこにはいなかった。
後ろに、女の気配を感じた。透きとおるような女の笑む声が聞こえた。柚の花のような、すがすがしい夏の匂いがした。
「何を考えていらっしゃるのか、まったくわかってしまいますわ。もう少し、おのれを隠すのに長けたお方だと思っておりました。平太様」
「なぜ、その名を・・・」
「無頼の高平太殿、あなたは何もかもお見通しですのね」
「時子殿・・・!」
清盛は完全に動揺してしまっていた。
時子はくすりと笑った。
「顔も知らぬ女の名を口にするものではありませんわ」
「ならば」と清盛は声を押し殺した。「きみの顔をみせてほしい」
「朝日とともにお帰りあそばせ。平太様」
時子は語尾を強く言った。
「それまでは、あなた様の天下をわたくしに見せて」
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