第七十話
鬱蒼とした森のなかに少年はいた。
吹き抜けのようにぽっかりと頭上高くに開けている白い空。
少年はまぶしくなって手をかざす。
しかし、それがなんら意味のないことに気づいた。まぶしいのは空ではなかった。眼。眼のなかで陽光が破裂しているのだ。
少年は眼をおさえ叫んだ。
叫んで叫んで走り出した。
太陽の光にではなく、別の何かに怯えていた。
少年は裸足だった。
柔らかな足裏で香りよい草を後ろへおしやっていく。
おのれの足で踏み潰された草たちは、明日にはもとどおりになっているのだろうか。
少年はやにわに悲哀の情で心をいっぱいにされた。走るのをやめて立ち止まった。
―――このまま、ここで死んだっていい
少年は愛らしい唇を、花のほころぶようにして和ませた。
すばらしき自然の営みのなかに少年はいるのだ。
永遠なる秩序。
―――私はこれを求めていたのだ!
突然、宇治の邸を見たような気がした。
暮れなずむ初夏の空。紫に染まった川の清らかさ。その流れの向こうに見える壮麗な阿弥陀堂。
女性たちの華やかな笑い声。
萌葱や薄青、朽葉や紅の襲!
そしてなんと美しく豊かな黒髪だろう。
四条宮様がいらっしゃる。姉君も。
ああ、姉君。あなた様の気高さ、冷たさ。本院の妻となられた今も変わることのない少女のような愛らしさ。
ふと、ひときわ輝く女方を見た気がした。
もっとよく見ようとしたが、水底から空を見上げているかのようにきらきらと光りが邪魔をしてくる。
しかし、彼はその女人が美しいと確信した。雪をもあざむく肌を見るがいい。直に垂れているすべらかな髪を見るがいい!
女人が何かを言っている。
聞こえない。
聞かせてください。あなたのお声を。
私なら役に立てるかもしれない。
『おまえにわしの庄を譲ろう』
父君。
ああ、なぜここに父君が?私はいつ、宇治に来たのだろう。
『わしの奥羽の庄をやろう』
父君、父君。私を信じてくださっているのですね?
忠実の顔が『そうだ』と言うようにほほえんだ。
この至極のよろこび!
涙が出そうになった。
するとまた、あの美しい女人が現れた。
何かを言おうとしているのだが聞こえてはこないのだ。
ああ、あなた。あなたはいったい誰なのです。
依然として顔は明らかではないが、何かが胸にひっかかる。どこかで会ったのだろうか。
頭の血と肉におおわれた奥深くで、ちりりと閃きのようなものが走り抜けた。
知っている。私はこの女を知っている!
「兄君っ!」
彼は怖くなって走り出した。
走って走って走り抜いた。
なんてことだ!足が萎えて動かすことさえできないのだ。目に見えない何か―――それは巨大な岩に穿たれた暗黒の洞に吸い込まれていく風のようであり、逆に無風、そう、体に対しての抵抗がまったく無いがゆえに進むのを妨げているものが、彼の足を捕らえていた。
逃げなくては。
逃げなくては兄君に見つかってしまう。
彼は前に向かって手をのばした。
つかまるものさえあったなら、誰かが手をさしのべてくれたなら―――・・・
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