第五十九話
比叡山の大衆が神輿を担ぎ出し入洛を図っているという噂がたった。
強訴。
これはまぎれもない強訴なのだ。
祇園社でのいざこざは、鳥羽法皇が検非違使を派遣しなければならないほどにまで発展していた。
比叡山の西降り口や今道は、武士によって防備体制がとられた。
忠盛一門をのぞく源平両氏の武士たちが洛中を威風堂々と行く様は、人々に畏怖の念を抱かせるには十分なものであった。
見よ。
目にも鮮やかな色々の縅。きらめく太刀。毅然とそびえる鍬形の兜。
もはや彼らは往年の、ぬかるみに立っているかのごとき存在意義の不安定な官人などではなく、武を専らにする武人なのだ!
時代が彼らを求めている。
しかし、彼らは単なる防壁でしかない。
朝廷を宗教的権威の恐怖から守る「楯」―――。それが矛に転じるなどありえない。
そう。かつて、嘉保の年にも延暦寺強訴が起こったのだ。これを武力によって退けたのが、当時剛毅をもって知られていた関白藤原師通であった。
だが、彼はその後早世。
大衆を撃退した際、武士の射た矢が神輿に命中したことが原因ではないかとささやかれた。
神輿に矢を向けるなど絶対の禁忌であった。
叫声が洛中を震わせる。
神輿を先頭とし、黒の徒党は今や激流のごときであった。
『制止に反し京に一歩たりとも足を踏み入れたならば、ただちに捕らえるべし』
突如上がったどよめき。
押し寄せてくる僧兵ばかりでなく、守護する武士たちの間からも驚きと戸惑いの声が上がったのだ。
武士たちはさっと左右に引いた。
そこにいたのは、なんと清盛であった!
腹巻姿という軽装は、綺羅のなかにあって異様に浮き上がって見えた。
事件の当事者の登場に、大衆はわっと喚声を上げた。
清盛は目を細めるようにしてかなたの延暦寺大衆を眺めていたが、ふと思い出したかのように、右手を後ろへ―――
箙!
彼の腰には箙が結わえ付けられており、数本の征矢が入れられていた。
左手には節巻弓が握られており、籠手の鮮やかな朱色がそれ自体が意思を持ったかのように動いた。
囂々たる人々の絶叫は、稲光よりも速く伝染した。
「ああ!」
誰かが叫んだ。
神輿に矢を向けたならばその者にまっているのは、死―――。
空がかき曇り雷鳴轟き、超自然的何かが愚か者を引き裂くであろう!
だのに、なんということか!
清盛は矢を番えていた。大衆の担ぐ神輿に、矢を向けていたのだ。
彼は笑っていた。
仕掛けたいたずらが成功するところを、物陰からこっそり見つめている子どものように―――。
「御霊代が乗り給う神輿とて、わが天命奪うこと叶わじ!」
放たれた矢は吸い込まれるようにして飛翔した。
神輿の屋蓋にある鳳凰の飾りに、それは命中した。
何も起こらないではないか!
真に理法を越えた何かがあるのなら、なぜ、清盛にこの場で死が与えられぬのか。
逃げ行く大衆を見つめながら、清盛は立っていた。
もはや、その場にいるのは彼だけなのだ。
僧兵も武者輩も、草も木も天地までもそこにはない。
海のごとき蒼のなかで、すべてを超越したその者は爽然と佇んでいた。
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