第五十六話
「義清。義清ではないか?」
久々に聞く声だが、沈むことを知らぬかのような陽気な声の持ち主が誰なのか、西行はふり向かずともわかった。
「清盛か」
そう言い、西行はふり返った。
相変わらず陽にやけた顔に笑みを絶やさない。
無造作に頭にとめられた烏帽子からはみ出ている癖毛。
紺青色に白の鷹ノ羽紋様の直垂は、よれよれのしわしわであった。
僧形となった西行を見ても清盛は別段驚かず、むしろ当然というような顔で近づいてきた。
「勧進か。熱心なものだなあ」
清盛は独り言のように言った。
「法華経二十八品。まだ一品残っているんだが、おまえやらんか?」
西行はにっ、といたずらっぽく笑った。
「よしてくれ。写経なんて頭が痛くなるようなこと」
清盛は額をおさえて見せた。
「だが、おまえがどうしてもと言うのなら、善因と称して協力してやらんこともない」
西行はぎくりとして清盛を見やった。
そう。この一品経勧進は、彼が待賢門院のために行っていたものであった。
清盛の言葉が、暗に西行と璋子のことを仄めかしているように聞こえたのだ。
―――まさか
西行は清盛の横顔から視線をはずした。
「出世も順調なようだな」
西行が言った。
「ああ」と清盛は気があるのかないのか、曖昧な返事をする。
「おまえがいないと、なんだか味気ないのだ。出家なぞしおって、まったくつまらんヤツだ」
西行は苦笑した。
この男の頭には「遁世」の二文字はないのであろう。
世の不条理を嘆くくらいなら、おのれの手で変えてやろうくらいのことを思っているヤツだ。
「俺は都を出ようと思う」
西行は静かに言った。
並んで歩いていたはずの清盛はいつの間にか数歩先を歩いていた。
「陸奥へ行くつもりだ。俺にゆかりのあるところだしな。諸国を巡るというのもなかなかおもしろいかもしれん」
西行は清盛の背中に語りかけた。
清盛よ。
おまえはいつも、皆より一歩先を行く。
俺はおまえの後を追いかけようとは思っちゃいないが、おまえが終着点に辿りつくところを見てみたいと思っている。
平太清盛―――ただ一人生きる者よ。
西行と清盛はしばらく二人で歩いたのち、別れた。
まったく普通に―――。
これが今生の別れだったとしても、二人は特別なあいさつなど交わさなかったであろう。
もしかすると、この別れが永別ではないと、両人がそれぞれ確信していたのかもしれない。
墨と雪。正反対のこの二者は、行動せずにはおれない性格という点で、似た者同士であったのだ。
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