第五十話
近づく宵闇。
灯る灯籠。
今夜は満月。暈がかかったそれは、柔和な光りをたたえていた。
院御所で見ていた月と同じだというのに、こちらの月は大きく輝いて見える。
燈台の灯りなど無用なくらいに―――。
璋子は立ち上がると、燈台の灯を消そうとした。
ふわりと浮き上がっている空間が、揺らいだ。
「誰?」
炎と同時に影という影がいっせいに動いたのだ。
―――見まちがいか・・・
「門院様」
「!」
忘れもしない声。
まさかこうして逢えるとは・・・
「わたくしめの命と引きかえにしてでも、あなた様にお逢いしたいと思っておりました」
秋の風がさわやかに吹きわたる。
御簾がめくれる―――
そう思い、璋子はそうっと内側から手をそえた。
ああ。愛しい人よ。無防備なあなたとは違って、わたしはまだ、おのれの保身につとめている。
「・・・やはり、あなた様は玉の宮に住まう雲居の人。所詮、お逢いできる世ではなかったのですね」
「そんな・・・」
璋子は思わず声をもらした。
「ああ!やっと聞けた。あなた様のお声。どれだけ待ちこがれたか」
西行は幼児が母を慕うかのように、うれしそうに言った。
ただただ恋しいその女を想い、逢えることを願っていた。
現世で果たせぬ夢ならば来世でとまで思い定めていた。
「かなたの月影のようなあなた様を慕い、袂を涙で濡らす日々でございました。今、わたくしが流す涙も、それと寸分違いませぬ」
璋子は御簾に寄り添い、若者の熱い言葉を聞いていた。
彼女がもっと若ければ、白河院や鳥羽院と出会う前であったなら、何の迷いもなく西行の胸に飛び込めたであろう。
しかし。
「わたくしは院の妻にございます。今も、これからも!」
璋子は叫んだ。
叫ばずにはいられなかった。
多くの人々を裏切ってきた。
宗仁様!あなた様を傷つけたのはわたくしです。その上、あなた様との幸せであった頃の記憶まで忘しては、それこそ不義でございましょう!
「そなたに院を裏切ることができて?そなたを愛し、頼っている者を裏切ることができてっ?」
「・・・わたくしは本院の下北面にございました。その職は、本院の発願による勝光明院造営に際した成功で買い取ったものです」
つまり、本院には恩がある、そう言いたいのであろう。
璋子は少々落胆する思いで聞いていた。
「鴻恩ある院に背くことなどできませぬ。家族に背くことなどできませぬ。でも、世に背いてまいりました。あなた様のために―――!」
西行は御簾を払った。
「あ・・・」
璋子は顔を背けようとした。
が、西行はそれを許さなかった。
「あなた様となら世の果てまでだって行ける。一人の女としてあなた様を愛するのに、何の罪がありましょうか」
「男は・・・」
璋子は西行の腕のなかにあっても、取り乱したりはしなかった。
「男は皆、権力のために生きている。そなたも―――・・・そなたは忠義のために。わたしにはわかりません。女は愛のみに生きているのですから・・・。ですから、わたしは愛のためにのみ死ねるのです」
愛のために―――
西行がこの時思ったのは、袈裟御前のことであった。
かの女も、夫への愛に殉じたのだ。
ここにいる御方は女院などではない。
本院の中宮でも、またありはしないのだ。
「璋子・・・」
西行は女の名を呼んだ。
「ああ、義清殿。この夢がたとえ一夜かぎりのものであっても、わたしは・・・」
青鈍の小袿に墨染めの衣が重なり、闇夜の匂いをふくむ黒髪は女の白さを浮き彫りにさせた。 |