第三十一話
誰かが私を呼んでいる。
誰?私の幼名を呼ぶ者は―――
母君に、ございますか?
それとも父君?
ああ、父君。
あなたの期待に応えてみせます。
摂関家にかつての栄光を!
―――あっ!
頼長は、おのれの体が小さな子どもに変化していることに気づいた。
翳った満月。
暗い部屋。
少年の首にめり込む、何者かの手。
―――兄君・・・
『憎い、憎い。父上の子である、おまえが憎い!』
ごめんなさい、兄君。生まれてきてごめんなさい。
大好きな兄君。
兄君、兄君・・・
「内府様、内府様!」
強い力で揺り動かされ、頼長は暗澹とした泥沼から、引き上げられるかのようにして目覚めた。
ひんやりとした、冷気といってもよいほどの空気が体を這う。
霧でも出ているのか、と考えながら、彼は頭が完全に目覚めるのを待った。
体に血がゆきわたる。
感覚がもどる。
「離せ。いつまでそうしているつもりだ」
義賢はすんなりと体を離した。
「・・・私は何か寝言を言ったようだ」
「・・・」
「何と言った?」
「何も」
「言え。私は何と言った」
「・・・名を、呼んでおられました」
頼長はどきりとした。
「誰の」
「・・・」
「まあよい。余計な詮索はするな」
頼長は眼を伏せた。
頭へやろうとした手を、義賢が掴んだ。
「吾が君様」
「早う出ていけ!夜の闇とともに私の前から消え失せろ」
義賢は無言で出ていった。
遠くで、馬の嘶きが聞こえた。
また一人。
たった一人。
妻も義兄も岳父も、いない者同然だ。
―――花咲きて・・・
頼長は褥の上で、泰子の詠んだ歌を思い出していた。
実はならないけれど、長いあいだ待ち望んだ山吹の花・・・
徐々に冷えていくかの者の温もりを追いながら、頼長は泥沼へとひき戻されていった。
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