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  有明の月 作者:小波
第百二十九話
 その僧が訪ねてきたとき、聖子はその者に少なからぬ懐疑の念を抱いた。
 西行は故待賢門院の生家の家人であったが、同時に法皇のかかえる北面でもあった男だ。重仁親王の即位を妨げた派の中には他でもない鳥羽法皇もいた。そして、彼女の父・忠通も―――。
 最近、引切りなしに父から文が送られてくる。早く御所をさがるようにと。聖子はどうするべきかわからなかった。自身がここにとどまる理由は、ないに等しい。夫である顕仁には新院の称号だけしか残されていない。治天の君である法皇や天皇のように財をもって奉仕してくれる側近はいなかった。
 それでも、聖子は父のもとへ行こうという気にはなれなかった。夫を愛しているからという以上に、彼女をとどまらせている理由が他にあった。

 西行はわかっていた。新院の希望は最初から望むべくもないことであったのだと。それでもこのお方を見捨てることはどうしてもできなかった。
 白痴のように、先程からぼうと外を眺めているだけの顕仁は亡き璋子に生き写しであった。繊細な顔の造りや女性的な体の線を見ていると、西行はなんとも愚かな錯覚に陥ってしまいそうになった。
 ―――よく見るのだ。このお方は門院様ではない・・・
 だが、かの(ひと)の子であった。最期のとき、彼は最愛の人に誓ったのだ。何があろうとも新院をお守りすると。
 西行はほほえみながら顕仁の名を呼んだ。彼が応えることはないとわかっていながら。
「わたくしは、あなた様を愛しく思っております。あなた様のお母上と同じように。あなたは独りではない」
 顕仁の眼がかすかに動いた。だがそれは西行の言葉を解したからではなかった。
 西行は御所を後にした。
 道々すれちがう文武の官らの耳障りなほどにひそめられた戯言を聞いたとき、自分がこれからしようとしていたことは明確だったと西行は悟った。
 新院が帝を呪詛し奉ったなどと―――・・・なんという流説!いやしかし、あの御方の過去が現状が、なにものにもまさるほど決定的だというのもまた事実であった。
 西行は空を見上げた。砂塵をともなった風が法衣をずたずたにしていくような気がした。
 ―――もはや、わが心が雪となって降ることはあるまい。わたくしは、あなた様のためにならこの黒衣を裂くこともできましょう
 西行はそのまま歩きつづけ洛外へと出た。京のはずれに草庵をむすぶ堀河を訪ねるためだ。主人璋子の死後西行に会うことのなかった彼女は古馴染みの突然の訪問に驚いたが、その緊迫したある種の決意ともとれる表情を見るや、彼の心中をくみとった。
 堀河は静かに合掌した。彼女の唇から亡き待賢門院の名がもれるのを、西行はたしかに聞いた。
「御仏よ、俗世との縁を断ちきれぬわたくしをお許しくださいませ。わたくしは、今この現実を知ってしまったわたくしは!・・・阿修羅にさえなれるのです」
 数刻後、西行は愛宕山にいた。
 明日、法皇のおわす鳥羽殿で騒ぎが起きるだろう。昔、法皇の信任あつかった元北面の武士である西行の推挙でやってきた巫女が法皇、女院以下公卿らの前で口寄せをする。女の口からすべり出てくるのは、亡き先帝自身による崩御の真相だ。その裏打ちはすでになした。
 これらによって、新院が先帝を呪詛し奉ったという噂はくつがえされるであろう。
 ―――堀河は修羅にさえなれると言った。わたしもだ。新院。ああ・・・璋子様、われらの愛しい儚きあの方を護り給え
 彼は静かに、木々の合間から見て取れる京を見おろした。
 月がいよいよ高くなるのが見えた。


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