第百十九話
昨夜からつづく雨音が身体のどこかと呼応している。手にひんやりと触れる几帳はいくぶんかの湿り気をおびていた。平絹のさらりとした感触。頼長は流れるように垂れている野筋をおぼつかない手取りで掴むと、まるで癲癇の発作のように激しく震えだした。
彼は何事かをつぶやいた。彼自身、自分が何を言っているのか定かではなかった。まるで御仏の御前でおのが過ちを悔いるかのように、彼は意味をなさない言葉を羅列した。
彼の心は今や完全に自己の内面のみに向けられている。ゆえに、一人の少年が気づかわしげに声をかけたとき、頼長はすさまじいまでの狼狽ぶりを呈したのだった。それは悲惨なまでに憐れな姿に見えた。
「わが主の君よ。どうかお許しください」
男装の小艾は主人のあまりに痛ましい姿に声をつまらせた。
頼長の蒼白い顔に一瞬だけ怒りと恥じらいの赤みがさし、あとには気怠さだけがあった。彼はその顔を瑠璃からそむけた。
彼は出ていってくれと言った。その際わずかにひらめかせた左手を、少女はひしと掴んだ。傷の程度にしては杜撰すぎる手当に、瑠璃は無言の悲鳴をあげた。彼女にとって完璧なまでの美しさを備えている頼長の身体の一部が傷つけられているという事実は、そうとう酷な現実だった。
「きのう、何があったのです?」
彼女の問いと重なるようにして、外で家司の声がした。
「帯刀が参っております」
頼長は呆然と、庭に膝をついている男を見ていた。義賢の片方の肩はしとどに濡れている。風もないのに、雨が少々吹き込んでいた。
「わが主たるあなた様に、お願いがあって参りました」
義賢が何事かについて手短に説明しているが、頼長の頭には何一つとして彼の言葉は残らなかった。だが、普段あまり声に感情を表さない彼が、この時ばかりは抑揚をはっきりさせていた。頼長は砕けた意識を集中させたが、言葉の意味を理解するのに苦しんだ。
「義賢。どうかここへ来ておくれ。私のそばへ―――」
義賢の顔を困惑がかすめた。彼は視線をあらぬ方向へそらし、また、主を見据えた。彼はおだやかに言った。
「わたくしにとって父の命は重い。しかしながら、あなた様はわたくしの主人だ。あなた様のお許しなしに、関東へ下ろうとは思わない」
今度は頼長が困惑する番だった。彼は額をおさえると、なかば叫ぶようにして言った。
「関東へ赴くとはどういうことなのだ。ああ、義賢。わかるように説明してくれ」
「吾が君よ」
義賢は頼長を抱き寄せた。
「おまえはどこへ行ってしまうのだ?」
「どこへも行きませぬ。あなたのそばを離れはしない」
「そんなことが聞きたいのではないのだ!」
頼長は苛立った声をあげた。
「どこへなりと失せるがいい。金輪際、おまえの顔など見たくもない」
頼長は義賢の腕をふりほどいた。
皆、去ってゆく。そばにいると言いながら、愛していると言いながら。私が何をしたというのだろう!
義賢は去った。雨に霞むかの男の影はあまりにも潔く、さらに頼長の怒りを煽った。
頼長はいくつもの櫃の一つから名簿の一巻を取り出すとそれを破り捨てた。瑠璃が驚いて彼を止めた。頼長は少女を突き放した。
「おまえごとき卑しい下臈が私に指図するのか?」
かの男の名とともに引き裂かれた紙切れが泥水のなかへ落ちてゆく。
雷鳴が耳をつんざいた。
空を駆け抜けた光りの刃は、とてつもなく大きな何かを斬り落としてしまったかのようだ。
頼長は簀子の上に座りこみ、汚泥にまみれてゆく紙片を見つめた。
「・・・すまない。瑠璃・・・」
伸ばした手を、少女は避けた。
頼長の心に、またしてもどうしようもないほどの大きな衝撃が巡ってきた。
瑠璃は背を向け言った。
「あなたほど愚かな人をわたしは知りません。なぜ、自分をも傷つけてしまわれるのです」
雨がひとしきり激しくなる。
瑠璃が先程の場所に戻ったとき、頼長の姿はどこにもなかった。
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