妓楼に活気が出てくる夕暮れ時。
何気なく店先に出た胡蝶は、なじみの少女に相好を崩した。
「やあ、秀麗ちゃん。久しぶりだね」
「ご無沙汰してます、胡蝶 妓さん」
いつもの笑顔に、秀麗もいつもの笑顔を返す。
「今度の仕事場は御史台だって?また妙なとこに入ったねぇ」
「…あ、相変わらず情報早いですね」
「この胡蝶の情報網をなめちゃいけないよ。……まあ、実は藍様に聞いたんだけどね」
「でしょうね」
そうだろう、と秀麗は思った。
いくら胡蝶が下町を束ねる親分衆のひとりで、しかも秀麗が唯一の女性官吏という珍種とはいえ、覆面を原則とする監察御史の情報が、そう簡単に漏れてはこまる。
「で?今度の上司は花街に来てそうな男かい?」
「………あー……いえ」
配属されてまだ短いとはいえ、未だかつて無表情以外を見たことがない冷徹上司を思い出し、秀麗は胡蝶から微妙に目をそらした。
(あの葵長官が、下手したら弱みになりそうな事なんて、するわけないわよねぇ……)
乾いた笑いをもらす秀麗の様子に、胡蝶はだいたい察したらしい。深くは追求しなかった。
「あたしに、何か用があったんじゃないのかい?」
「あ、そうそう。胡蝶妓さん、ちょっと時間あります?なければ今日じゃなくてもいいんですけど」
珍しく腰の低い秀麗に、胡蝶は目を丸くした。しかしそれも数瞬、「ちょっとお待ち」といって店の中に姿を消すと、いくつも数えないうちに出てきた。外套を着て。
「…それ、お客さんの贈り物ですか?」
「そうだよ。いつもは部屋に放ってあるんだけどね、たまにはいいだろ」
どんな金持ちだ、と秀麗は内心思った。
──この貴陽一の妓女・胡蝶を一晩買うだけでなく、気前よく外套なんぞ贈るとは。秀麗の見るかぎり、かなり高級な生地だ。間違っても銅貨や銀貨じゃ買えまい。
「じゃ、行こうか」
「あ、はい」
秀麗が先に、胡蝶が後になって歩く。その類稀な美しさに道行く人の多くが振り返るが、胡蝶は笑い返すでもなく、まったく意に介さない。
やがて着いたのは、小高い丘の上。周りには木が茂り、目の前には縦長い石が置いてある。
「…誰のお墓だい?」
墓石の前に供えられた少ない仏具と花に、胡蝶の声も自然と低くなる。
「……母です」
「そうかい」
秀麗は精一杯の笑顔で、胡蝶を振り返った。
「一度、母に胡蝶妓さんを紹介したかったんです」
胡蝶は、秀麗から墓石へと目をうつす。
「亡くなってから、10年ぐらいたつんだね」
「ええ。夏の、……雷の夜でした」
「……そうか」
なるほど。胡蝶は合点がいった。
昔から、秀麗は異常に雷をこわがっていた。まあ、雷が好きな女の子なんてそうそういないから、あまり気にしていなかったし、本人が話したくないなら聞くまいと思っていたのだが。
「…胡蝶妓さんは本当に、私の大切な母様です」
胡蝶は、後ろから外套で秀麗を包みこんだ。
「そりゃそうさ。秀麗ちゃんは、あたしの大事な娘なんだからね」
今まで、何度となく聞いてきた言葉。それでも、やっぱり嬉しい。
「ありがとうございました。そろそろ戻らないと、お店が困りますよね」
「ああ、そうだね。──秀麗ちゃん、嫌なことや泣きたいことがあったら、遠慮なく来な。
あたしはいつだって、どんな時だって、秀麗ちゃんの味方だからね」
慈愛に満ちた胡蝶の笑顔に、思わず頬をそめた秀麗は、やがて満面の笑みを返した。
──劉輝が見たら思わず押し倒しそうな、美しさとかわいさをまとった笑み。
「──はい」 |