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before_7
「つまり、あなたのお友達が心の病気であなたはその方……話を聞いているようですと女性さんのようですが、その方を自分の不注意から怒らせてしまったり不快にさせてしまうことがあるので、付き合い方を学びたいと」
「うん、まあ」
 気怠そうな赤い瞳の彼女はクッションに腰を下ろし、優をじっと捉えていた。警戒はまだ解かれていない。
 優も彼女から少し離れた本棚に背を預け、床に腰を下ろしていてた。それは自分には敵意がないということ、何か危害を加えるつもりはないということを意味する為でもあった。
「それは女性さんがあなたに頼んできたことですか?」
「いや、俺が自発的にやってることだけど……」
 その言葉に彼女は首を傾げた。癖のついた大量の髪の毛がクッションの上でさらりと散らばる。
「頼んでいないのに、求めていないのにこれが正しい、これがいいはずだと思ってしていることはただのお節介ですよ。それで何か変わりましたか? 何か変わったんですか? 上手くいかないのは、自分の知識が足りないからだ、と自分に言い訳していませんか? それに自分に向けられた優しさや言葉が意図した効果を狙ったものだと知ったら、私なら悲しーですし酷いと思います。泣きます。それに話を聞いていると、女性さんを傷つけないようにというよりも、自分が傷つかない為に……という印象を受けました。違いますか?」
 緩やかな指摘。しかし、その言葉は恐ろしいほどの鋭さを秘めていた。
 優は即座に反論しようとするが、何も浮かばずその場で固まった。そして一言も反論することのできない自分にショックを受けた。
 妹の為と言いながら俺は自分自身の為に動いていたのか?
 優の気持ちを知ってか知らずか、白い彼女は言葉を続ける。
「つまり、あなたは女性さんに暴力を振るわれるのが嫌なんです。不安定な、ダイナマイトのような彼女が怖いんです。そして彼女の呪縛から早く解き放たれたいと思っている。彼女が自立できるよーになって、自分が必要なくなってほしいんです。その為に心理学を学ぼうとした。彼女の為……なんて綺麗な言葉で言い繕っても現実は何も変わりません」
 そうきっぱり彼女は言い切った。
 優は車酔いにも似た吐き気に見舞われ、脂汗を額に浮かばせた。じっと見つめる彼女の目が恐ろしくて、優は口を押さえて俯く。
「あなたは――」
「――もう、勘弁してくれないかな。君の言いたいことはわかった」
 そして自分の浅ましさや薄汚さも。
 自己中心的な自分のことも。
 彼女はゆっくりと立ち上がると、彼に近寄り、本を差し出した。
「不快にさせたのなら、ごめんなさいです。表情から察するに先程のこの本が欲しいという話や今の話は本当だったみたいですね。ですから、これはお詫びです」
「ありがとう……」
 優はそれをおずおずと受け取り、複雑な表情のまま頭を下げた。
 自分の信じていたこと、していたことを全否定された後に、無駄だと言われたあとに受け取る意味のなくなった本。
 彼にはそれが煩わしいくらい重いように感じられた。
「でも、本心です。それを忘れないでほしいです。あなたの名前は?」
「俺は優。優しいのユウ」
 彼は一瞬、自分の苗字を明かそうとしたが、名前に留めた。それはまだ自分たちのこと、あの事件を覚えているものは多いということを知っていたからだった。
 些細なことで好意が、あるいは友情が軽蔑や恐怖に変わる。それを優は経験から身に染みるほど理解していた。
 彼女は優の名前を聞いて一瞬、眉を持ち上げたが、優はそれに気がつかなかった。
「……奇遇です。わたしの名前は優月(ゆづき)。優しい月と書きます。優しい父と偉大な母の名前です」
「俺も……父さんの名前を一文字もらったんだ」
「凄い偶然です。同じ町で同じような名前で同じような由来を持った人間が出くわすなんて。奇跡です」
 優月はカタカタと太ももの辺りで指を動かし、小さく微笑む。優には優月が高速でその確率を計算しているコンピューターのように見えた。
「……もう帰るね。本、ありがとう」
「はい、さよならです。本は受付に回すと面倒なので、直接私に返しに来て下さい」
 別のことに集中しているのか、気の抜けた返事を彼女は返し、優はその部屋を後にした。
 カーテンごしの柔らかい光に包まれた少女はどこまでも白く、そして神秘的だった。

 先程よりも幾分か賑やかになった図書館を横目に外を出て、目を瞑り、深く息を吸った。
 不意に彼はマフラーを部屋に忘れたことに気がつくが、今更取りに戻ろうとは思わなかった。
 それは何故か。
 彼女に自分のことを指摘されたからか。
 自分の心の一面を見てしまったからか。
 もうこれ以上自分の心を犯されたくなかったからか。
 分からないし、分かりたくない。
 ただ、彼は今直ぐにでも泣き出し、図書館に背を向けて走りだしたかった。しかし、それは彼女の言った言葉を認めてしまうことに等しいような気がして、彼にはできなかった。

 来た時と同じような足取りで図書館の敷居を出て、コンビニに向かう。どこか義務的に妹のヨーグルトを買った。
 家に向かう足が重い。行き交う人々の足音や車のエンジン音が自分と世界を分かつ別の何かに思えた。
 体が浮遊しているような不安定感。自分の体が透けているような違和感。
 彼女のいったことを否定するのは簡単だ。
 しかし、それは自分のわだかまりを拭い去ることにはならない。
 妹に嫌われていた自分、自分のことしか考えていない自分はそこに残り続ける。
「ああ、そうか。だから……」
 だから俺は妹に嫌われていたのか。
「自分ことしか考えてないから、そっか。見透かされてたんだ、俺」
 自分は何て酷い人間なのだろうと彼は思う。
 妹の為にいいことをしていると思い込んで、妹を傷つけていた道化。
 妹は自分の為にあんなにも頑張ってくれているのに、妹は自分の為にあんなにも頑張ってくれたのに。
「それに比べて俺は自分のことばっかりだ」
 自宅の扉の前でドアノブを握ったまま固まる。手が石のように動かない。
 彼は再び、深く息を吸って中に入った。
 どう彼女に接していいのかイメージが湧かない。何をしても彼女を傷つけてしまうような気がした。
「ただいま……」
 シンと冷えた廊下。沈黙以外の音はない。
「嫌いな奴の為に出てくるわけ、ないもんな。あはは……何で俺、いつも気がつかなかったんだろ」
 靴を脱いでいる途中、すうっと扉が開き、玄関に妹が顔を出した。
 母の部屋から。
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