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before_6
 母の部屋。
 床の血は既に拭き取られているけど、まだ化粧台にはカサブタのような黒ずんだ血の塊がこびり付いている。
 私と優で一緒に拭いた床の血はもう跡形も無い。その跡、あの臭いは記憶にだけ形を残している。
 兄は自分の戒めとして化粧台の血は残すといった。そして現に台にはそれが残っている。
 血が。
 久々に入る母の部屋はあれからあまり変わっていないようだった。兄が定期的に掃除をしているらしいが、それでもまだあの時のままの空気がそこに停滞していて息がつまりそうだ。
 部屋を見渡す。大きなベッドに化粧台と机。地下倉庫の扉。
 私は冷たい床に寝そべり、母が死んだ時のカタチを再現する。母はどんな世界が見えていたのだろうと。
 床に大の字で仰向けになると、頭の隅からドロドロと溶けていくような奇妙な感覚が私を侵食する。当時の匂い、音、肌の感覚、視覚、それらが現在の私に上書きされていく。
 喉を切られ、臓物を床にぶちまけた母はどんな顔をして、兄を見ていただろうか。
 抵抗はしなかった。声も発さなかった。目は開いていて、口はぱくぱくと何かを呟いていて、頬はそう。
「そう……笑っていた」
 確かに母は喜び震え、何かに笑っていた。あの時、母は何を思い、何を見たのか。何故、笑っていたのか。
 笑った母は直ぐに事切れて、私は兄に抱き締められた。強く強く抱き締められた。泣きじゃくる私を、そうそのベットの端で。兄は優しく背中を叩きながら、それでもなお強く。
「それから……」
 それから兄の言う通りに私は部屋を出て、警察に通報した。兄は少年法のおかげもあってか直ぐに帰ってこれた。
 帰ってきた兄は私を抱きしめるとまた強く言った。
 一生私の面倒を見ると。これからは私の幸せを一番に考えると。
 その時の私はあらゆることに疲れきっていて、心身ともにヘトヘトで、他人は自分を攻撃する生き物としか思えなくて。
 だけど、その言葉が嬉しかった。
 唯一の私の味方である優の口から発せられた優しいその言葉が、私に嘘をついたことのない兄の言葉が……嬉しかった。
 でも当時の私は精神が今以上に不安定で、優しい兄に暴力と罵倒を返すだけだった。心と体の不一致だ。
 だけど兄はどんなに殴られても、血だらけになっても、私を抱きしめてくれて。腕を折っても、足を折っても、肋を折っても、私を抱きしめてくれて。
 気がつけば私の不一致は根負けしていた。馬鹿馬鹿しいほどの実直さと正直さと反則なまでの笑みが私の拒絶する心を打ち砕き、打ち負かし、討ち滅ぼした。
 どうしてだろう。どうして兄のことを思うとこうまで気持ちが高ぶり、動悸が早くなるのだろう。
 この欲望と情動は何故、何、何なのだろう。

 兄のただいまという間の抜けた声が玄関で響いた。
 私は冷えた体を震わせながら起き上がり、母の部屋を抜けた。
「あ……、夕香さん。母さんの部屋、入ってたんだ」
「ええ、そうよ。それが何か?」
「いや、別に……」
 そういって目を逸らす。
 玄関で鉢合わせした兄は、私が母の部屋に入っていたことに表情を曇らせた。自分の恥部を見られてしまった、そんな顔。
「ねえ、優」
「な、なに、夕香」
「……お前はあの時のこと、思い出したりとかする?」
 あの時。
 私達にとって“あの時”というのは一つの答えしかもたない。
「……うん、毎日思い出している。忘れることはできないし、忘れちゃいけないことだからね」
「そう、私も忘れられないわ」
「できれば夕香さんには忘れてほしい」
「なに?」
「何でもないよ。ああ、そうだ。じゃあ俺からも夕香さんに質問」
 兄は笑い、頭をかく。ああ薬のおかげでいつもよりも緊張しないし、何より殆ど欲情しない。
 それは凄くいいことだ。凄く。
「…………俺のことお節介とか思ってたりする?」
 えっ。
 それは、一体、どういう、意味、だろう。
 兄はどこか気落ちした笑みでそういった。自信を失った子犬のような顔で。諦めのついたような顔で。
 その質問は私に対して適切ではない。私は正直に自分の気持ちなんて言えない。故に、それ故に導き出される言葉は確定していて。
 それは私が言いたくない言葉で、兄を傷つける言葉で、私と優の距離をより隔てるもの。
 ああ、なんて神様は残酷なのだろう。あるいは優が? 優は私にそう、言わせたいのか? 私から逃れる為に? 自分の罪から逃れる為に?
 或いは或いは或いは!
 私が嫌いだから?
「……お節介どころか邪魔者だと思っているわ。それが何? まさか、自分は好かれているとでも思っていたの? 気持ち悪い。好かれるような人間でもないでしょうに」
「うん、まあ、そうだよね。うん、ごめん」
 違う違う違う違う違う違う! そうじゃない。
 呆れないで。そんな顔で私の側を通り過ぎないで。私を独りにしないで。私を嫌わないで。私に絶望しないで。
 距離が、開いていく。私と兄の距離が。
「お昼、作りますね」
 兄はリビングに消えた。
 それは“ハイ”な私にとって、最高のバッドトリップだった。

 何が問題だった? 何がそうさせた?
 いつもの兄ならそんなこという筈ない。いつものように笑って、いつものように私に話しかけてくれるはずで。
 あんな質問、兄がするはずない。では……何が。
 世界の崩壊。壊れゆく私の世界。砕け散る私の大切な世界。
 それは常に外側からやってくる。きっと今回も外から。
 優に嫌われた、兄に嫌われた、彼に嫌われた。
 どうしよう。
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