ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
before_59
「はい……はい。そうです。ええ、母にはちゃんと……はい、お願いします」
 通話を終わらせた優月は携帯電話を机に置いた。
 壁際を埋め尽くすガラスケースを眺めながら、少し沈黙。
 視界に映るのはコツコツと時間を掛けて作り上げたプラモデルの数々。しかし、厳密にはその瞳はケースを見ているわけではなかった。
 ただ彼女は自分を見つめていた。
 指がタイプを刻みそうになり、彼女はその手を止める。
「データを引き出さなくても……これは明らかなことです」
 独り言。自分に言い訳するかのような独り言。
 彼女は席を立ち工作室を出た。
 部屋を出た瞬間、バニラエッセンスの甘い香りが鼻をくすぐる。彼女はその匂いに優が自分の為にクッキーを焼いてくれているのだということを思い出した。
 嬉しい。
 はずなのに嬉しくなかった。
「あ、今焼いてるところ。もう少し待ってね」
「はい」
 黄色いエプロンをした彼は台所の器具を洗いながらそういって笑った。
 彼女は彼のその笑みが痛かった。彼のその優しさが辛かった。
 だから彼女は少しでもそれを、彼を意識ないように努めて平坦に答えを返す。震えそうな体を意志によって抑えつけて、ソファに座った。
 そして思った。
 人は、人はみな自分がいい人間だと思う。少なくとも平均的な良心を持ち合わせていると信じる。
 しかし、いざという時に本当の自分は現れる。その身の丈以下の醜い自分を見て人はショックを受ける。
 ショックを受けて開き直る。
 屑なら屑なりに人の良心を啜って生きていこうと自身を肯定する。
 でもそれは心が弱いから、現実を認めるのが怖いから。事実を受け止める余裕がないから。
 自分のしてしまったことの恐ろしさをよく分かっているから。
 だから。
「どうしたの? 凄く辛そうな顔してるよ」
 不意に斜め上から差し出されるココア。白い陶器のカップに注がれたそれは湯気を散らし、バニラの香りとは違った甘い匂いを届けた。
 彼女は優の顔を一度も見ることはせず、ただ平坦にありがとうとお礼を言った。
 それに彼はますます疑問を膨らませる。
「本当に大丈夫? 何かあったの?」
「別に何もありません」
「本当に?」
「はい」
「……嘘だよ。昨日までの君なら俺のココアを受け取ってくれたらありがとうっていってすぐ飲んでくれた。でも今は手すらつけてない。それどころか目すら合わせようとしない」
「…………」
「既に起こってしまったことはもう、どうしようもないよ。覆すことは誰にもできないんだ。でもね、でも、それを悲しんで悔やんで次に生かすことはできる。誰かにその悲しみを共有してもらうこともできる。誰にも迷惑をかけず、傷を抱え込んでより傷つくという選択もあるけれど、俺は誰かにそれを話して傷を浅くするって方法もあると思うんだ」
 優はそういって隣りに座った。ソファが少し沈む。
 彼はそのまま無言で肩を震わせる優月の頭を撫でた。それを切っかけに彼女の赤い瞳はより赤く染まり、黒いタイツの上には涙がポロポロと零れた。
「わたし……わたし」
「うん」
「とんでもないことを、とんでもないことをしてしまったんですっ……! 誰が考えてもそれが最も正しいのに、それが最も幸せな答えなのに、わたしはそれをわたしの都合で……。わたしは何て汚いんでしょう。わたしは何て弱いんでしょう。わたしは、わたしは! 許してください許してください許してください許してください許してください許してください」
 鼻声でむせび泣き、彼女は優のエプロンにしがみついた。胸に顔をうずめて白い髪の毛を左右に揺らす。
「髪の毛、汚れちゃうよ」
 彼女は答えない。
 ただ有らん限りの声を上げて泣き叫ぶ。
 眠た気な目はそこになく、緩やかな言葉の調べもそこにはなく、ただ白く赤い少女は子供のように声を上げて優の胸の中で泣いた。
 彼はその理由も彼女のいう言葉の意味もまったく分からなかった。
 ただ彼は思う。
 誰にだって泣きたくなる時はある。
 辛くなる時はある。
 そういう時は考え込まないで泣いた方がいい。
 優はただ微笑んで背中をさすり、そして優しくトントンと叩いた。
「よしよし、辛かったんだね。怖かったんだね。いっぱいいっぱい悩んだんだね。誰にも言えなくて押しつぶされそうで、壊れそうだったんだね。何がそうなのかは俺には分からないし、聞かないよ。でも今は泣いていい。だから好きなだけ叫んでいい。好きなだけ泣いていいんだ」
 髪の毛を丁寧に指でとかして、じっとりと汗ばむ頭に何度もキスをした。
 ただ唇が触れる程度のもの。
 だけどそれはキスだった。
 優しくて、暖かいそれだった。

 泣きつかれた彼女は赤ん坊のように親指をしゃぶりながら優の膝の上で丸くなり、寝息を立てていた。
 そして何度もうわ言のように許してくださいと呟き、優の服を強く握る。
 彼はそれを見て、きっと今まで辛いことがあっても彼女は誰を頼るということができなかったのだろうと思った。
 それはとても辛かっただろうと。
 自分と同じように。
「……あっ、雨」
 彼女の寝息だけの緩やかな空間にシャッターを叩く雨の音が混ざる。
 静かな空気の中、優は我が家の洗濯物と明日の天気の心配をした。
今日の話が面白かったら、1クリックお願いします


+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。