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before_5
 四角い部屋。白い壁に、紫外線を浴びて薄黄色に染まったクローゼット。シンプルな机にシンプルなベッド。
 女気など、どこにもない。
 部屋の扉に背をもたれさせて、私は鏡を見た。涙の跡が新しい、キツい表情をした女が映る。
「汚い顔」
 ごしごしと指でこすり、目を揉む。カンの鈍い兄なら泣いていたことには気がつかないだろう。
 トントンと階段を上がる音に私はハッとなって息を飲む。
 それは当然、私の部屋の前で止まり、扉をノックした。
「夕香さん、さっきはごめんなさい。あの、朝食なんですけど……」
 何で、何で何で何で何で何で何で何で! 何で兄が謝っている? 悪いのはどう考えても私で、変態な私で、気色の悪い私で、兄はこれっぽっちも悪くない。
 わわわわわ、私が謝らないといけないんだ。私が。
「学校はどうするんですか?」
 控えめの優しい声。
 ああ、最悪。私は今、この状況ですら、兄に、欲情してる。
「や………………休むわ」
 精一杯の答え。扉越しに優の匂いが伝ってくる。爪を噛んで耐えた。
 優が私を心配して何か言ってくる。
「休むと言ったのが聞こえなかった?」
 私は毒づくようにそう吐き捨て、歯ぎしりをした。
 そうじゃない! もっということが。違う言葉が。
「……分かりました。じゃあ、学校に連絡しておきますね。ご飯は扉の側に置いてあるんで冷めないうちに食べて下さい」
 冷静な兄の声。
 一生懸命働いて、私の世話をしてくれているのに私はどうだ。兄を殴って、兄に暴言を吐いて、兄に嫌われるようなことばかり。学校にもいかず我侭をいってばかり。
 そこでこの兄の冷たい声。
 どんどん嫌われて行く。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。謝ろう謝ろうごめんなんさいって謝ろう。お兄ちゃんごめんねってしないと。
 私は何度も深呼吸して、扉を開いた。
「あの、ごめんな……」
 兄は既にいなかった。横には湯気を上げた暖かそうな食事があった。どれも私の好きなもので、兄の好きなものだった。
 まともに謝ることすらできない。ごめんなさいの一言も伝えることができない。
「くふふふふふふ」
 馬鹿馬鹿しいほどの、笑みが零れた。馬鹿馬鹿しいほどの辛く苦しい笑みが。

 お盆を手に抱えて、リビングに向かう。私の定位置にそれを置き、兄の為にと暖房を入れた。
 兄は光熱費を気にして、冬でも冷たい水で風呂を掃除する。終える頃にはいつも手を真っ赤にさせていて、寒そうにしていた。
 風呂場の流水の音が止み、掃除が終わったことが分かる。私はさっきまで食べていましたと言わんばかりの自然さで食事を始めた。
 案の定、指を自分の吐息で温めながら兄がリビングに入ってきて、不思議そうに私を眺めた。
 謝ることはできない。だから、せめて、自分から話しかけよう。
 手に汗が滾る。兄がさっきのことを咎めるのではないかという恐怖。急にどなりだすという恐怖。私を嫌いだと言う絶望。
 ……ああ、馬鹿だ私は。それをしてるのはいつも私の方じゃないか。
「お醤油……お醤油頂戴」
 自然に言えたことに心の中でガッツポーズ。
 私の注文を聞いた彼は忙しなく動き、醤油を持ってきた。私はそれを受け取る。優の指先が私の指に触れた。ひんやりとした指先が。
「あの、お味噌汁、お代わりいりますか?」
「……もちろん」
「火にかけるんで、少し待って下さいね」
 優はそういって鍋を火にかけた。
 優が鍋を火にかけ、自分の朝食の準備を始めている間に私は汗ばんだ手を拭き、冷汗を(ぬぐ)った。

 行ってきます、そんな声が聞こえた。
「いってらっしゃい、お兄ちゃん」
 恐らく聞こえはしないだろう声でいう。どっと疲れた体をソファに埋もれさせながら。
 首を上げるとカーテンのレースごしに優が寒さに身を縮ませているのが見えた。外は室内より寒いのだろう。
 私は、そう私は…………熱い。好きでいて好きじゃない嫌な熱さ。
 優から離れるのが嫌だ。あるいは優が私から離れるのが。
 私をこの広い家に一人にしないでほしい。優がいないというだけで、小さな家は迷宮のような広大さを見せて私を困惑させる。広い世界で一人きりになったような孤独が全身を襲う。
 何をするにも一人。歩く音すら、心臓の鼓動すら独り。テレビをつけても世界が私を騙すように仕向けた擬似映像にしか見えない。
 私から優を取り上げるための囮。お前は独りじゃないと安心させるための暗示。この間にも優を何かが連れ去ってしまうような不安。
 ああ、孤独だ孤独を感じる。
 私は洗面台に行き、冷水で顔を洗った。肌を刺すような冷たさに意識がはっきりとした。
「お薬飲まなきゃ……」
 自分の部屋へ向かい、机の引き出しを開ける。中には輪ゴムでまとめられた大量の薬の束。
 チープなプラスチックの容器に詰め込まれた、ラムネのような薬。カプセルの薬。コンドームのような四角い包みに入った薬。これは……ピルだから今は飲まない。一つずつ手のひらに開けて、ミネラルウォーターで流し込む。薬を飲んだということだけで気分が少し落ち着いた。
 優の部屋に向かう。優の布団を体を巻きつけながらベットの下にある黒の仰々しいケースを取り出す。
 前にこれはなんだろうとネットで調べたら、耐防火防水耐衝撃の特別なケースだった。
「お父さんから貰ったんだっけ……どうだったのかしら」
 三桁のダイヤルをいつもの番号に合わせる。七が二つに四が一つ……開いた。
 中には二つの通帳と印鑑と、兄が大分前に書いたと思わしき手紙。手紙は今までごめんとしか書いていない。
 相変わらず古い通帳には殆ど手をつけていない。新しい手帳には今まで貯めたバイト代が二百万円以上溜まっている。
 私はこの通帳を見るといつも不安になる。きっと薬を飲んでいなかったら耐えられないだろう。
 常に私の頭の隅にある不安とリンクするのだ。
 兄は私がまともに暮らせるようになったら、この古い通帳を突きつけてどこかに消えてしまうのではないかという妄想。
 この金があれば、確かに当分生活に困ることはないだろう。生活には。
 でもこの飢えと乾きと欲望は、お金では決して満たすことはできない。あの体以外では絶対に。
 してはいけないこと……それは分かっている。この欲望は人が呼吸を止めることができないのと同じで、私の性なのだ。
 自己嫌悪し続け、兄の体を貪るという性。
「今度、ピルなしでしてみようかしら。妊娠したら……それはそれで」
 薬で“ハイ”になっているのか、くだらない妄想と下品な笑いがこみ上げてくる。笑みを噛み殺し、布団とケースを元通りにした。
 そして私は母の部屋へ向かう為に階段を下りた。
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