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before_2
 全てが終わり、野獣は鳴りをひそめる。それは朝日と共にほぼ毎日行われる行事だった。
 太陽の目覚めと共に冷静な私も戻ってくる。それは同時に圧倒的な自己嫌悪と汚らわしさを伴って自身の醜悪さを目の前に突きつけた。
 早い話が兄に欲情し、そういうことをしていた自分が汚らしく思えていた。
 子鳥のさえずりにベットから体を起こし、等身大の鏡を見る。
「意地の悪そうな顔……」
 つり目で、世界全てが自分の敵だとでもいいたげな目。友達なんて一人もいなそうな酷薄そうな表情。
 事実、友達なんていない。
 ある程度、日常会話を交わす人間はいても、仲がいいと呼べるほどの友人はいない。そもそも私は団体行動や女々しいことが嫌いだし、向こうも私に遠慮してかあまり触れてこようとはしない。
 部活動に入ることもなく、静かに帰宅する毎日。下らない青春の浪費。最近はそれすらも、よく休む。
 私の居場所はどこにあるのだろう。

 兄の部屋の扉を開ける。遮光カーテンから浅く漏れる朝日は、兄の部屋を淡い黄色に染めていて、どこか幻想的だった。
「起きなさい」
 頬に涎の跡を走らせて、彼は猫のように気持ちよさげに寝息を立てていた。少し心が揺れる。
「起きなさい」
「…………」
 起きない。
 私はカーテンを開き、布団を剥がす。むせ返るような優の汗の香りに少し目眩がした。
 それでも彼は起きない。いつもならこれで目を覚ますはずだった。しかし、どこまでも幸せそうにくうくうと寝ている。
 幸せそうに。幸せそうに? 幸せ? 何が幸せ? 何で幸せ?
 現実じゃなくて、私の側じゃなくて、夢の世界がここよりも幸せだというのか。
 お前は私に一生世話すると誓ったんじゃないのか! 私の幸せを一番に考えると言ったんじゃないのか!
 人を殺しておいて、私を壊しておいて、全てを滅茶苦茶にしておいて幸せそう?
 ふざけるな!
「起きろっ!」
「っうわ!」
 私は胸ぐらを掴んで叫ぶ。予想以上の声が部屋に反響して、私自身少し驚いた。
 彼は飛び起きて唾液をすすり、寝ぼけ眼でぽうっと私を見つめた。
「……起きろと言ってるでしょう!」
「ああ、えっと、夕香さん。おはよう?」
 締まりのない笑み。私は胸ぐらを離し、小さく舌打ちした。
 後ろに転がった彼は申し訳なさそうに頭を掻き、欠伸をした。そして短く悲鳴を上げた。
 悲鳴? 何か今、隠した。
 何だろうと覗く。優は隠すように剥がされた布団を膝にかけて愛想笑いを浮かべた。
「今日も寒いけど、いい朝だね」
「何を隠したの? 見せなさい」
「いや、別に! あっ」
 布団を無理矢理に剥がす。
 目の前に広がるのは……男の生理現象。
 かあっと頬が熱くなった。彼は申し訳なさそうに恥じらった。
「け……、汚らわしいっ!」
 足を踏み下ろし、蹴り上げる。それに優は声にもならない悲鳴を上げて、芋虫のようにうずくまった。少しして地響きのような唸り声。
「は、早く朝食の準備をしなさい! ウスノロ!」
「うぅ……は、い」
 私は逃げるように部屋から出て、頭を抱える。
 自己嫌悪だ。
 あれは生理現象で、しょうがないことで、もっと兄に掛ける言葉はあったはずだ。なのに私は心配するどころか、罵声を浴びせた。あんなそそり立った力強いあれを見た私は恥ずかしさのあまり踏みつけ、あまつさえ蹴り上げてしまった。硬くて、太くて、熱いあれが酷く恥ずかしくて。
 昨日あんなにしたのに。
 喉の渇きを感じ、私は一階に下りて、水を飲んだ。

 優は少し顔を青くしてしてリビングに下りてきた。手には着替え。
 私は一瞥もくれてやることなく、朝のニュースに耳を傾ける。あくまでも私のスタンスは優の存在に気がついていないという体。気にも留めていなくて、どうでもいいという形。
 優はそんな私に恐る恐る声を掛けた。
「夕香さん、俺……あの」
「シャワーでしょう。分かってるわ」
「すみません」
 彼が脱衣所に向かうのを横目で追う。脱衣所の扉を閉める音がして私は直ぐに椅子を立った。脱衣所の前まで行き、薄い板に耳を這わす。衣擦れの生々しい音に血が滾った。優が今、この壁一枚を隔てた向こうで、裸体になっているのだと思うと妙な興奮が湧いて、耳の奥が鳴った。爪を噛んで扉にこれでもかと顔を押し付ける。
 鍵はマイナスドライバーで容易に開けられる。爪でも開けようと思えば開けられるだろう。やろうと思えば簡単だ。
 そう簡単。ドアをこじ開けて、押し倒せばいい。優は私よりも、いや平均的に見ても小柄だ。腕も細い。まずは足払いで、転がしてあの柔らかい唇に舌をねじ込んで、地下室で兄を飼う。抵抗したら袋叩きにして。私に溺れた兄は外に出ても、きっと私を、そして爛れた世界を。

 ザァっとシャワーの音がして、意識が現実に回帰した。
「くふふふふ……、私は頭がおかしい! イカレてる!」
 壁を強く叩く。歯を軋ませて白い壁を睨んだ。
 誰がどうみても私は病気だ。母の死を見てしまってからできた病気のことではない。兄に対する異常なでの肉欲のことだ。
 兄を見てると耐え難い欲求に駆られるこの気持ち。いつも優の後ろ姿を眺め、すれ違い様には匂いを嗅いでいる自分。気色悪い自分。
 いつからだろう。
 最初は兄のリコーダーに異様な執着があって、あの頃は母も生きていて。決定的になったのは、そうあの時。兄の夢精したパンツを見つけた時か。鼻をつくあの匂いと汗の甘酸っぱい匂いに初めて私は性的興奮と絶頂というものを知った。それから優を舐め回すような目で見るようになって、他の女と一緒に話をしているのに嫉妬して。
 気がついたら夜、兄に悪戯を働く変態になっていた。汚らわしい野獣になっていた。
 優から離れようと思ったこともある。でもそれを選択したら、きっと私は狂ってしまう。そう言えるほどに私は私の狂気をよく理解できていて、毛嫌いしていて、恐れている。
 自分をニンフォマニアかと疑ったこともあった。でも優以外の男には何にも感じない。寧ろ他の男には嫌悪感しかない。
 何故、優だけに破壊的欲求を感じるか私自身謎だった。
「本当に気色悪い」
 理性の欠片もない、獣。兄の血を啜る色情狂。
 かちゃりと音がして、湯気を上げた優が目の前に現れた。彼はタオルで頭を拭きながら、目の前の私に少し驚く。
 ジャージの隙間から甘い香りがする。甘く、とろけるような匂いが、する。
「……わ、どうしたんですか? あ、もしかして覗きとか? 覗きは駄目ですよ、なんて」
「――――っ!」
 ぷつりと音がして顔が真っ赤に染まった。振り上げた拳が止まらない。止まれと祈っても腕は私のモノではないかのように風を切り、兄の顔面を殴った。
 兄は斜めに吹き飛んで、壁に頭を打ち付けた。ずるりと倒れて、ぽけっとした顔で私を見る。
「ば、馬鹿しないで! 私が覗きなんてするわけないでしょう! それもお前の裸なんて! 気持ち悪い!」
「あはは、ごめん。ほんと、ごめんね、変なこといって。あ、鼻血だ。見て、漫画みたいだよ。だばーって」
「馬鹿にして!」
 私は髪を振り乱しながら階段を駆け上がり、自室に篭った。爪を強く噛んで、自分を何度も非難しながら、目に涙を浮かべて啜り泣く。
 兄に言われたことが悲しいわけじゃない。自分の行為に酷く憤りを感じるのだ。
 兄にごめんなさいとも言えない。兄に駆け寄ることもできない。普通の時は兄に欲情して、気がつけば兄に暴力を振るっている。
 まともに接することができないイカれた私。子供のように癇癪を起こす私。
「最低だ、私。本当に最低……」
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