before_16
先に優が走った。脱皮の如く引っ張られた上着を脱ぎ捨て、廊下に転げ落ちるように出た。
「ゆううううううううう!」
獣じみた咆哮、狂気じみた瞳。口端に泡を乗せて彼女は兄の名を叫ぶ。
彼は一瞬、外に逃げようかと迷うが、上半身が裸なことに気がついて、風呂場に逃げた。
扉を閉めて、鍵を閉める。
尻餅をついて、優はその場で泣きべそを浮かべた。
ヒタヒタと床を歩く音。扉の前でそれは止まり、ドアノブをがちゃがちゃと揺らす。
「兄さん、開けてちょうだい」
「あっ……あっ……!」
声が出ない。
恐ろしさのあまり声がかすれて出ない。
「優、開けてちょうだい。開けないとまたブツわよ。ほら、早く。……早く早く早く早く早くううううう!」
ドアノブが軋むような音を立てて何度も左右に回される。
優は耳を押さえて目を瞑った。
これは妹の復讐なのだ。
自分への復讐。傷つけた代償。
そうでなかったら妹はこんなことはしない。
静かになったと思いきや、かちゃりという音。
優は目を開き恐る恐る扉を見た。
鍵がゆっくりと横から縦になっていた。
「あ…………」
蝶番が軋むような音を立てて、内側に開く。
「ゆう」
背が高く髪の長い女が、優の上着を口元に持ちながら、くぐもった声で彼の名を呼ぶ。
誰だ。
妹。
妹って。
夕香。
夕香はこんなことは。
する。
している。
「――――っ!!」
叫ぼうと、助けを呼ぼうとするが声が出ない。掠れた息が出るだけ。
優は半ばパニックになり、顔を赤くしながら、泣きべそをかきながら何度も声を出そうと試みた。
しかし、声は出なかった。
「優」
女は声が出ないこと、優の逃げ場がないことが分かったのか笑みを零した。
瞳孔は開ききり、足は音も立てずに近づく。だが先程の鬼のような形相はどこにもなく、至って冷静な表情。冷静な笑み。
彼の名を呼ぶその声は異様なほど平坦で、青色のストライプ柄のパジャマがどこまでも場違いだった。
「ゆーーうーー?」
「うっうっ……」
「何が……そんなに怖いの? さっきのは脅しで、もうぶったりはしないわよ。だって大切なお兄ちゃんだもの」
そう言いながら彼女は手に持った上着をすうすうと嗅いだ。
優は震える足でなんとか後ずさるが浴槽の扉に後が詰まる。
彼女は目を細め、優の上半身を舐め回すように見た。
「……寒いでしょう。上着を着なさい」
差し出されたねずみ色のスウェットは黒い染みが出来ていて、それは夕香の口から零れた涎だと彼は直ぐに気がついた。
ポタポタと粘ついた涎が顎からこぼれ落ち、床を濡らす。
幽鬼の如くふらついた足でゆっくりと夕香は優の上にその身を重ねる。
そして彼の両手を床に押し付け、頬を舐めた。
「なんで……それもよりによってあの女と仲良くなったのよ。ねえ! それも私に内緒で!」
「あぐっ……」
「んー、怖い? 私が怖い? 私が怖いか? 目を瞑るな! 瞑るとまたブツわよ。……ゆ、優だって本当は満更でもないんでしょう? だだだだ、だってほら、怖がってる割にはここ、カチカチじゃない。私は間違ってないわ。何も間違ってない。…………あー、恥ずかしいわねえ。顔真っ赤になっちゃうわね。それは泣きたくもなるわね。でも誰も助けになんてこないわ。誰も優を助けに来ない。私に犯されても、殴られても誰も来ない。ほ、本当は私もこんなこと本位じゃないの。優のことが好きで優が聞き分けが悪いから、しかたなくこうしているの。…………なんでそこで泣くのよ。優は私の味方でしょう!? 私のことを一番に考えてくれるんでしょう!? 私を理解して、私から離れなくて、私を愛してくれるんじゃないの!? ねえ、あの時……母さんが死んだ時に誓ってくれたことは嘘だったの? ねえ“お兄ちゃん”」
夕香は優の手をほどいて自分の腕の中に抱きしめた。強く強く抱きしめた。
優が兄というキーワードに弱いことを理解した上で、それをいい、抱きしめた。
自分が卑怯だと、最低だと分かっていて彼女は抱きしめた。
頭を撫でて抱きしめた。
「ううーっ……」
優の頭の中で呪縛がのたうつ。
父の呪縛。
母の呪縛。
そして自ら誓った呪縛。
それらは優を兄として縛り付け、彼の意志を無視して自由を妨げる。
では自分は何をすべきか。
兄としてこのまま妹と溶け合っていくのが正しいのか。
それは……ヤだ。
「あ、がっがっがっこ……お」
優は息も絶え絶えにそう口走る。それは話題を逸らすために無意識から出た言葉だった。
それ聞いた彼女は胸の中で震える兄には見えないように薄笑いを浮かべると、まくし立てるようにいった。
「学校から……学校から帰ってきたら、夜の続きをしましょう? 今度は無理やりじゃない続き。お互い了承した続き。ちゃんと優の調子を見て、私も合わせるわ? どうしても調子が悪いならその次の日でもいい。ねえ、それなら構わないでしょう? ねえ、お兄ちゃん」
優が既に自分を受け入れたという前提に彼女は話しを進める。
ダブルバインドという心理学の手法。兄が借りてきた本の中にあった手法。
それを彼女は理解して使う。
優はそれに気がつかない。自分が彼女を受け入れるといっていないことに気がつかない。
優の頭の中では『嫌なら次の日でもいい』という一見譲歩されたかに見える薄っぺらな情報だけが回る。
そして結局、彼は最後までそれに気がつかず、首はゆっくりと縦に振られた。
優は一人、自分部屋で空を眺めていた。
ほんの数分前に妹が家を出たことが何年も昔のことのように思えた。
妹。
夕香。
気がつけばぽろぽろと目から涙が零れていた。手で拭うも次に鼻が出る。
「風邪かな……はは」
次第に震えはしゃくりあげるような痙攣に変わった。みっともないと口を押さえても泣き声が手を通して外に漏れる。
気がつけばまた、彼は泣いていた。
「うううううううううううっ」
仕方がないと自分に言い聞かす。
妹がそう望んでいるのだと。これが償いなのだと。
頭ではそう理解しているのに、涙は止まらない。頭では理解しているのに、心はそれを拒否する。
空。青く、穏やかで広大な青空。
「……空を見たってあなたが空を飛べるわけじゃありません。人間には足がある。その足が動くのなら走って逃げればいい。誰もあなたを咎めません。恐れることから逃れられる人間はいないから」
白い少女は優の背中に手を置いて、啜り泣く彼を何度もさすった。
気怠そうな声が、ゆったりとした声が響く。
「失礼かと思いましたが、勝手に上がらせてもらいました。ポストの中に合鍵は些か無用心です」
「うぐっ……うう」
「本当の私の目的は本だとか、マフラーじゃなくて、あなたに聞きたいことがあったんです。分かりますか?」
優は首を横に振って不定の意を示す。
彼女はそれを見てまどろむような声色でゆっくりといった。
「そうですか、分かりませんか。では、聞きます。……あなたの母を殺したのは、本当にあなただったんですか?」
彼女は髪の毛の隙間から眠たげな瞳を緩ませて、微笑む。
優は自分の時間が完全に停止したのを感じた。
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