外伝03:ある主従のおさんぽ
三人称挑戦継続中。
魔物──それは一定以上の魔力を持った生物の総称であるとされている。
しかし、実のところこの定義は正確ではない。一つは魔力を持っていても人族及び魔族のことは魔物とは呼称しないこと、そしてもう一つはゴーレムやアンデッドなどといった生物以外の存在も一般的には魔物に分類されていることだ。
人族あるいは魔族にとって危害を与えられる恐れのあるものは全て「魔物」と呼ばれている、というのが最も実態に即している。
尤も、危害が与えられる恐れがあると言っても、街や村の近くに出没する一部の魔物が身近な脅威として存在するものの、その他の大多数の魔物と言うのは一般人にとって馴染みが深いものではない。
ゴーレムやアンデッドなどはダンジョンや遺跡といった特定の場所にしか出没せず、その他の強力な魔物は人里から離れた地を縄張りとして滅多に外に出てくることはないからだ。勿論、それらの魔物達が人里を避けたというわけではなく、むしろ逆にそれらの縄張りを避けて人里が築かれているといった方が正しい。
一部の冒険者を除けば、魔物と聞いてイメージするのはゴブリンやコボルト、せいぜいがオークぐらいといったものであるし、生まれた村や街で一生を過ごす一般人にしてみれば、それすら話に聞く程度で実際に目にすることは稀である。
彼らにとって強力な魔物などというのは、口伝で伝えられるような伝説やおとぎ話の中にのみ存在するものである。
勿論、そういった存在が世界に居ることは彼らも理解はしているのだろう。
しかし、それぞれの抱く「自分の世界」の中には決して登場してくることはない者達なのだから、それは最早存在しないも同然と言える。
故に……
「ド、ド、ド、ドラゴンだーーーーーっ!?」
「逃げろ、逃げるんじゃ!!」
「いやあああぁぁぁーーーーっ!!」
街の上空をドラゴンが飛んだりすれば、パニックになるのは当然である。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
発端はその日の朝に遡る。
時の頃は朝食後、邪神殿に居座り続けている光神ソフィアの前で奇妙な光景が繰り広げられていた。
それは邪神アンリが料理をしている姿……それはよい。
テナが人族の方のアンリと共に神殿を出てから、彼女が料理をする光景は珍しいものではない。元々、技術的な意味で料理が出来なかったわけではなく、短刀の呪いで包丁などを持てなかっただけなのだから、呪いを克服している今の彼女が料理をすることを阻むものは無い。
なお、「出来る」ことと「上手い」ことは全く別であるが、彼女の名誉のためにこれ以上は語らないこととする。
ならば一体何が奇妙なのかと言えば、アンリが作った料理──どうやらサンドウィッチのようだ──をバスケットへと詰めていることだ。
そもそも、朝食は既に食べた後であるので、彼女が作っているのは昼食の筈だ。朝食を食べ終えた直後にも関わらず昼食の準備を行い、かつそれをバスケットへと詰めている。
ここから想像出来るのは……
「あの……アンリ? そんな物を用意して、何処かに出掛けるつもりなのですか?」
まさか、という思いを抱きつつもソフィアがアンリへと尋ねた。
彼女がそんな風に信じられないものを見るような目をするのも無理はない。なにせ目の前の黒髪無表情の新人神族は、ソフィアが知る限りここ一年以上一度も外出したことがないのだ。完全に引き籠もりである。
そんな彼女が外出の準備としか思えない行動をしているのだから、これがどれだけの異常事態であるかは語るまでもない。
「うん、ちょっと出掛けてくる。夕方には帰るから。
お昼はサンドウィッチ置いておくから、食べて」
そう言われて彼女の視線の先を見ると、バスケットとは別に皿にサンドウィッチが盛られている。量的には二人分と言ったところだ。おそらくは、ソフィアとアンバールの二人分ということなのだろう。
アンリもそうだが、ソフィアもアンバールも神族であり、生きる為の活力は食物からではなく信仰から得られる。
彼女らにとって、食事というのは生きる為に必須の行為ではなく娯楽以上のものではないが、人族としての習慣が残っているアンリは勿論、ソフィアとアンバールもこの神殿に住みついてからというもの、ほとんど毎日三食摂るのが習慣となっていた。
「それは有難いのですが、一体何処に行くのですか?」
「決めてない、おさんぽだから」
「なるほど」
目的のある外出ではないというアンリの回答だったが、そんな目的を定めない散歩でも引き籠もり続けているよりは健全だろうと、とソフィアも納得を見せた。
地上のあらゆるものを恐怖のどん底に突き落とす邪神が気まぐれに徘徊するのは傍迷惑極まりないが、彼女も自身の魔眼やオーラのことは熟知している筈だし何とか対処するだろうと言うのがソフィアの考えだった。
それがとんでもなく甘い考えだったということに彼女が気付いたのは、アンリの次の台詞を聞いてからだった。そして、その時には全てが手遅れだった。
「じゃ、行ってくる。ヴニのおさんぽ」
「……は? ちょ、ちょっと待ちなさい!?」
予期せぬ言葉に硬直したソフィアが我に返って止めるよりも早く、アンリはサンドウィッチの入ったバスケットと、その横に置かれていた数倍の大きさの籠に触れると、転移で姿を消した。
「散歩って……貴女のではなく黒龍ヴァドニールの、ですか?」
誰も居なくなった部屋に、ソフィアの呟きがぽつりと響いた。
「……あの黒龍を外に出す気なのですか?」
呆然としたまま呟く言葉に、返事をする者は居ない。
こうして、人族の守護神である筈の彼女が悲劇を制止する最後の機会を見逃してしまったことで、世界最強最悪のペットが野へと放たれてしまったのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
澄み切った蒼い空を切り裂くように、全長二十メートルの巨躯が舞っていた。
その羽ばたきは力強く、爆発的な推進力を以って凄まじい速さを生み出していた。
彼が飛んでいるのが遥か高空だったから良かったものの、これが地上に近い低空であれば生じる風圧であらゆるものが吹き飛んでいたことだろう。
黒龍ヴァドニール。
世界に災厄を齎すと謳われし最悪のドラゴンは、久方振りの空を満喫していた。
ダンジョンのボスとして召喚されてからというもの、一度も外に出ることが出来ず、彼の基準で言えば狭苦しい部屋に押し込められていたのだ。その解放感は一際だろう。
「グオオオォォォーーーッ!!!」
心なしか上げる咆哮も、自由を喜ぶ歓喜の唄のように聞こえる。
尤も、今の彼が自由かと言うと、当然そんなことはない。
彼がこの世で最も恐れる主が今まさに彼の背中の上に居るのだから、自由とは程遠いというのが実際のところだ。
召喚された当初は主の気配に怯え、恐怖故に屈服して仰向けになって腹を見せた彼だが、その後の躾けによって日増しに馴染み、今では主が姿を見せたとしても以前のように壁際まで逃げるようなことはしなくなった。
それでも、恐怖が完全に無くなったかと言えば、そんなことはない。
主の放つ気配により齎される本能的な恐怖は、そう簡単に拭いさることは出来なかった。
知能こそ高くない黒龍だが、背に乗った主人の機嫌を損ねることがどれだけ危険かを本能的に悟っている。
故に彼は、自由を謳歌しながらも最高の乗り心地を提供すべく慎重に飛ぶのだった。
そんな黒龍の恐怖故の気配りが背中に乗る主に届いていたかと言うと、結論から言うと全くの無駄だった。
「さ、寒い……」
黒龍の背の上で、黒いローブを着た少女は寒さに震えて、落ちないように必死にしがみ付いていた。
如何に彼が不用意に揺らさないように気を付けていたとしても、その高さと速さの時点で乗り心地は最悪だった。
高空である時点で気温はかなり低く、それに加えて黒龍の飛ぶスピードによって生み出される強烈な風圧に晒されているのだから、無理もない。
耐久力の高い神族だからまだ耐えられているが、これが人族であったら凍死したり凍傷になっていても不思議ではなかった。
また、広い黒龍の背中では馬などと違って跨ると言ったことは出来ず、鱗にしがみ付くことしか出来ないため、手を滑らせれば地面に真っ逆さまだ。
「や、やめとけばよかった……」
今更ながらに散歩を考えたことを後悔するも、後の祭りだった。
気持ちの良い空の旅を予想していたのだが、現実は厳しい。ドラゴンライダーへの道は険しかった。
なお、実際には寒さや風などどうにでも出来るだけの力が彼女にはあるのだが、悲しいかな神族として未熟なアンリはこういった場面で権能を使うという発想が中々出て来ないのだった。
「早く何処かの平原に着いて……」
予定では、何処か広い平原でランチと洒落込むつもりだった。
自分の分はサンドウィッチを用意してきたし、黒龍の昼食もちゃんと籠に入れて持ってきた……どちらも持っていられずに今はアイテムボックスの中だが。
尤も、今の彼女の頭の中は昼食のことなどどうでもよく、とにかく地上に降りたいということだけで一杯だった。
そのため、彼女達が飛んでる下の方でどんな騒ぎが起こっているかなどということに気を向けるだけの余裕は無い。
今まさに、ドラゴンを見掛けた街の住民達が大パニックを起こしていることなど、知る由もない。
「あ……」
吹き付ける風で目を開けているのも大変な状態だが、狭い視界の中に広い草原が見えた時、アンリは神の救いに感謝した。自分が神族であるにもかかわらず。
しがみ付いていた黒龍の背を叩き、彼に目的の場所に降りるように指示を出す。
「あそこ、あそこに降りて」
「グル?」
知能の低い黒龍は当然彼女の言葉は分からなかったが、それでもアンリの意図を理解したらしく、草原に向かって着陸すべく高度と速度を下げ始めた。
着地に向かって段々寒さと風が収まってきたことで、アンリはホッと安堵する。
彼女が帰りに同じだけ苦行を味わう必要があることに気付いたのは、サンドウィッチを平らげた後のことだった。
ついでに、帰ってからはソフィアによるお説教という別の苦行が待っていることなど、この時の彼女は予想だにしなかった。