外伝02:ある経典のパンデミック
今回は三人称にしてみました。
「これが問題の書物か」
とある国の一室で、数人の者達が集まり机の上に置かれた一冊の黒い装丁の本を覗き込むようにして観察していた。
「は、決してお手を触れぬようにご注意下さい、陛下」
「分かっておる」
陛下と呼ばれたのはその国の国王であり、その場に集った他の者も国政において重要な位置を占める者ばかりだ。
それだけの者達がこうして集まっていること自体、事態が並々ならぬことを意味している。
「黒の経典、か。
厄介なものをばら撒いてくれたものだ」
彼らの視線の先にある本は黒の経典と呼ばれる書物だ。
尤も、黒の経典とは目の前のこの一冊のみを指すわけではない。
「確認出来ているだけで、既に百冊以上が国内に持ち込まれています。
未確認のものも含めれば、おそらくは数百冊に達するかと……」
報告をしているのはこの国の宮廷魔導士を統括する男であり、魔導研究所の所長でもある有能な男だ。
彼はそう言いながら、黒の経典の表紙をめくった。
「お、おい!? 触れて大丈夫なのか!?」
所長の行動に対して重臣達が慌てるが、所長は諦めたような声で答えた。
「私は既に一度触れてしまっていますので……」
言われてみれば、所長は先程から右足を庇うかのようにびっこを引いている。それに気付いた重臣達は痛ましそうに彼を見るのだった。
「こちらをご覧下さい」
表紙をめくった裏側には、この書物の注意事項が記載されている。
その注意事項によると、この書物は呪いの書物であり、渡されて触れてしまった者には不幸が訪れると記されている。不幸を回避したければ、書物の内容を書き写して別の誰かに渡すことが必要であり、写本をするまでは延々と不幸が続く。そして、呪いは書き写された書物にも発現するのだ。
黒の経典……それは邪神によって記されたとされる最凶最悪の呪いの書だった。とある国より広まったその書物は、今現在各国で猛威を振るっていた。
「不幸を回避したければ書き写せ、か。
これでは広まっていくのは当然だな」
「はい」
当然、黒の経典を渡されてしまった者は不幸を避けるため、経典を書き写して別の誰かに押し付けるだろう。それをやめろと言うのはずっと不幸に襲われていろと言うのと同義であり、まず受け入れられるものではない。仮に禁止したところで、反発を生むだけだ。
「解呪は無理なのか?」
「聖光教の大司教でも無理でした。籠められた呪いが強力過ぎます」
尤も、籠められた呪いや仕組みの凶悪さに比して、訪れる不幸は拍子抜けするほど軽いものであり、そのギャップに研究者達は首を傾げている。もたらされる不幸はランダムであり、その時によって異なるが、いずれも嫌がらせ以上のものではない。所長がびっこを引いているのも、右足の小指を棚にぶつけるという呪いの影響であり、別に重傷ではない。
しかし、だからと言って無視出来るかと言えば、それもまた難しい。
所長にしても、最初は他の誰かに被害を広げるつもりはなかったが、右足の小指を三度連続で棚にぶつけた辺りで屈服し、写本を行って副所長に押し付けた。この行為により、現在、副所長の所長に対する忠誠度は大分下がっている。
「止められぬ、か」
「止めることは難しいでしょう。しかし、被害を誘導することならば出来ます」
「やむをえん、その方向で国内の被害を減らすしかあるまい」
経典を写本し誰かに押し付けることを止めることは難しい。しかし、押し付ける先を指定することは不可能ではない。そうやって被害を国外へと流してしまえば、根本解決にはならなくても取り敢えずこの国は救われる。
「隣国との関係悪化が予想されますが……」
「無論、表向きそんなことは口外せん。
国外に出る行商などに渡し、自主的に持って行かせるようにするのだ」
「なるほど、逆に隣国から持ち込まれないようにも注意が必要ですな」
「ああ、早急に手配を進めよ」
「は、承知致しました」
国王の命を受け、重臣達が動き出す。
これによって、この国における黒の経典の被害は減少方向へと向かうだろう。
勿論、押し付けられた国は別の国に押し付けるだろうから、順繰りに被害は国を渡っていく。その結果、不幸にも最後になってしまった国は押し付ける先が存在しないため、国の中でお互いに押し付け合うしかなくなる。
「今の各国の情勢を考えれば、それが何処の国になるかは明らかだがな」
「陛下? 何か仰いましたか?」
「いやなに、法国との付き合い方を見直すべき時期かと考えていただけだ」
発端である国の流通経路上、近い程に被害は早く、遠ざかる程に遅くなる。ならば、彼の国と最も強い敵対関係にある国が、最後に回る対象となるだろうことは想像に難くない。
それが何処の国であるかは、誰もが共通認識として持っていた。
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各国が黒の経典を恐れて対策を行っている中、逆に経典に対して大いに親しみを持っている国が一国だけ存在する。
神聖アンリ教国、邪神アンリを崇拝する者達が集まって建国された新興国家だ。現時点では未だ街と言うべき規模の小国でしかないが、日増しにその勢力を増している。
教国にとって、邪神アンリが書き記したと言われている黒の経典はまさに「経典」だ。国民の誰もが一冊は所持し、積極的に写本を行って国外へと布教を行うことが美徳とされる。勿論、一国民には国外への輸出ルートなど無いため、一度国家が集約しまとめて送る形だが。
なお、国民達も最初の一度は呪われてしまうわけだが、それについては神の試練であると認識されている。
そんな教国に、この度新たに神殿に併設する形で二つの建物が建造された。
一つは孤児院、親を失った子供達を引き取り育てる施設だ。各国も孤児対策は行っているが不十分な感は否めず、何処の国でも行き場を無くした子供達は出ている。そんな彼らをこの施設に集め、十分な食事と暖かい寝床、そして綿密な教育を与えるのがこの施設の役目だ。
孤児院に入った子供達には、読み書きや数学などと共に、教国が崇める邪神アンリ──教国では「邪」神とは認識されていない──が如何に素晴らしい存在であるかを幼い内から教え込まれる。
邪神アンリへの信仰心が強く教育の行き届いた彼らは、教国における将来のエリート候補でもある。
もう一つの施設は写本堂、黒の経典の写本を行うための建物だ。建物の中には写本に必要な机と椅子に紙とペンが整然と並んでおり、奥には写し終えた紙を書籍の形へと製本する役割を担う者が待機している。
ここは同時に写本された経典を集める場所でもあり、堂内で書き写されたものだけではなく、国内のあらゆるところから書き写された経典が集まってくる。
写本堂に納めた経典の冊数は集計され、毎月その冊数が貼り出される。
見事一位に輝いた者には教皇自らが表彰を行うことになっているのだが、今のところその表彰が行われたことは一度もない。理由は簡単、写本数一位をとある男が独占しているからだ。
「ふむ、今日は調子がいいですね」
写本数一位を譲らぬのは他ならぬ教皇本人である。表彰を行うべき者が一位を獲っている限り、表彰は行われない。
現に今も、写本堂の一席に陣取って写本を行っているのだが、何とこの男、左右の手で二冊同時に書き写している。
通常写本する場合は写すべき元の書物と書き写す媒体である紙を並べて、元の書物を黙読しながら書き写していくものだが、この男の場合は既に経典の内容を一言一句違わず暗記しており、記憶から書き起こしているのだ。写本の体裁を整えるために一応経典も置かれてはいるが、基本的に中は見ていない。
暗記していることを抜きにしても左右の手で同時に書くと言うのは器用と言うしかないのだが、この業のせいで彼の写本スピードは常人の倍以上の速さを誇る。
同じことが出来る者が出て来ない限り、ランキング一位は揺るがぬだろう。
写本ばかりしていて国政は大丈夫なのかという疑問はあるが、きちんとそちらも対応しているから性質が悪い。
「きょうこう様ー、いっさつ出来ました」
「ぼくもー」
「わたしもー」
「おお、素晴らしいですね。アンリ様もきっとお喜びでしょう」
そんな教皇に対して、離れた場所で写本に取り組んでいた子供達が自身の成果を自慢げに報告する。
微笑ましい姿に教皇は穏やかな笑みを浮かべ、子供達を褒めた。
「わーい」
「もういっさつ書いてきますー」
「一位とれるかも!」
「ふふ、頑張って下さいね」
なお、大人用のランキングとは別に子供達のランキングも存在しており、こちらは正常に機能している。孤児院の子供達を中心に、教育の一環として写本を行うようにしているためだ。経典の教えを学ぶとともに、読み書きの勉強にもなるという画期的な仕組みである。
内容的にも人が正しく生きるための道徳について書かれた書物であり、教育に悪いものでもない。
順位に応じて菓子が贈られるため、子供達も皆自主的かつ積極的に参加して写本数を競い合っている。
「ふふふ、やはり写本堂を建造して正解でした。
これで布教も更に進むでしょう」
なお、各国が上手く連携を取っていれば、死刑囚一人を犠牲にすることで、案外アッサリと終息出来たかも知れない事案だったりします。