桜の花は春を待った。
硬い蕾の中、どれだけ耐え難くとも、それでも春を待っていた。
幸福のときは必ず来ると信じていた。
桜の花は力いっぱい咲いた。
自分だけを愛でる人に見つけて欲しくて。
桜の花は永遠でない春に学んだ。
人の目には、どれも同じ桜にしか見えていないということを。
人は酒に酔い、桜のことなど忘れてしまうということを。
桜の花はそれでも咲いた。
一時の快楽でも構わないと、心で泣いて。
桜の花が舞い落ちる。
散り逝く姿も美しい。
誰も知らない孤独の中で、独り寂しく舞い落ちる。
遊女の生き方は、桜の花のそれに似ているか?
舞い散る桜に想いを馳せよ・・・
今日はやけに線香の減りが遅いように思えた。自分の上に跨り執拗に体を撫で回す毛むくじゃらな手が、妙に不快だった。
「お姉ちゃん、なんて名前だっけ? いぃねぇ、おじさんが身請けしてあげようか?」
そうとう酒が入っているらしい。酒と男の口臭とが混ざり合い、香を焚いたはずの部屋が驚くほど臭い。
「リンです。『鈴』と書いて『リン』と読みます」
「リ・・・ン? へぇ・・・鈴かぃ。いいねぇ・・・」
「え?」
「どんな声で啼いてくれるのかなあ?」
にやりと汚い歯を見せて笑うと、男は蜜壷に指を強引に押し込んだ。
べたべたする髪をくるりと巻き上げ、しわくちゃになった着物を適当に羽織り、リンは流し場へよろよろと歩いて行った。久しぶりに下半身がいうことをきかない。それどころか、足を動かすたびに激痛がはしる。遊女の自分がいちいち男に、まして知らない下劣な男に感じるわけは無く、涸れた蜜壷は悲鳴を上げていた。しかし滴る血に構っている時間などありはしない。すぐに先客の痕跡を消し去り、新しい客をもてなさねばならないのだ。それがここ遊女楼での生き方と、リンは十分すぎるほど理解していた。
「リンちゃん!」
カランカランと下駄の音をさせて、五つ六つと思われるカムロが走り寄ってきた。
「大広間での接待ですって、今日の夕刻。なんでもお偉いお医者様が来るらしいですよ。じゃ、私急ぎますからー」
コロコロと鈴を鳴らしたような声で用件だけ告げると、少女は急いで戻っていった。
「お医者様?」
人の心や体を治す医者がこんなところに何の用なのだろう。皮肉めいた言葉が頭に浮かんだ。結局のところ男はみな同じケダモノでしかない。リンはそう思った。
「私を壊したいのなら・・・いっそ、そのメスというもので切り開いていけばいいのよ」
大広間での仕事は決して楽というわけではない。私室のように肉体的な苦痛は無いにせよ、そこには他の遊女がおり、稀に遊女楼の主もいる。お偉い人が来るとなると、きっと見張っているだろう。小さな失敗であれ、一つでもしたらどうなることやら。そう思うと背筋が凍った。
客の予約の時間より一時間以上前から広間で待機を命じられ、リンに休む暇など無かった。もう長年の慣れではあるが、今日はやけに体が痛んだ。それでも顔色一つ変えず、澄ましている自分をリンは心の中で哀れみ笑ってみるのだった。
ちりん・・・ちりん・・・ちりん・・・
カムロの振る鈴の音がゆっくりと近づいてきた。今宵の宴の始まりである。
「何だ、カイ。もっと楽しそうにせんか」
「いえ、あの、義父上。・・・私はこういうことは・・・」
「なに、恥ずかしがることはない。ここにはワシ以外、お前を知る者はないのだ。大いに遊べ」
「は、はぁ・・・」
そういう問題ではないと、カイと呼ばれた少年は迷惑そうにため息をついた。大広間へと続く回廊は朱塗りの神殿のようであり、ちりんちりんと鈴を打ち鳴らして先を歩くカムロはカイの胸の高さほどもない幼子だった。この現から遠ざけられた世界に心が動揺してしまう。売られたのか、捨てられたのか、はたまた攫われたのか・・・事情は知らないが、少女達の運命を思うとカイの心は痛んだ。
「お前が我が家に来て・・・何年になる?」
白髪の男が不意に切り出す。一瞬カイの顔が陰ったことに、男は気づいただろうか?
「今年でちょうど十年になります。本当に感謝の思いは尽きないほどです」
「そうか。十年とは、長いものだな。いや、短くも感じるな。・・・カイ、ワシは実のところお前を家に迎えることに反対じゃった。しかし、ワシは本当に良い拾い物をしたよ。お前は世が求める人材なのだからな」
意味深な言葉を淡々と紡ぐ男から、カイは目を逸らしていた。
そうしているうちに大広間の前に着いた。カイは喜とも哀とも言えぬ表情で、ただ黙して口を開かなかった。
「我らが主様のおなりであります」
風が吹けば吹き飛んでしまいそうな声で、カムロが障子の中、大広間の遊女達に客の到着を告げた。音も無く障子が開き始め、美しく着飾った遊女達が視界を彩る。男は導かれるままにズカズカと中へ進んでいったが、カイは広間に踏み込めずに佇んでいた。
「ほれ、カイ。はよ来んか!」
男は手招きして急かした。その頬は既に茜に染まっており、なんともだらしなくカイの目に映った。
そもそもことの始まりは、カイが医師試験最年少合格という偉業を成してしまったことにある。カイはわずか十七歳。医師になる平均年齢は三十代とされていた。祝いをして帰ろうと言うので義父に導かれるままについていった先が遊女楼とは、カイは相当に面食らった。義父はカイにとって尊敬するに値する医者だった。捨て子の自分を拾い育ててくれたということだけでなく、医者としての心構えや誠実さ、全てが尊敬の対象だった。それがこのザマである。義父もしょせん浮世の男だった。カイはせめて自分だけはそうは成るまいと誓った。
「おいでませ、お若い殿方」
優しく微笑みかけ、手招きしたのはリンだった。気が利くといえば聞こえはいいのだろうか? ただ、そうすることが生きる知恵だといえば、誰か哀れんでくれるのだろうか? 上品な笑み、優しい笑み、しかしどこか切ない笑み・・・カイにはそう見えた。
「どうぞお入りくださいませ」
カムロが淡々と言う。その言葉に抑揚はなく、そう言うように言いつけられているのがあからさまだった。
「あ・・・わ、私は・・・」
それでもカイは、ほんの一歩が踏み込めなかった。ただ、酒を飲むだけだ。ただ、そう、酒を飲むだけなんだ。そうだ、ここでは酒を飲むだけだ。けれど、ここに入ってしまっては、続きがある。快楽など微塵も求めていない体は、頑なに宴を拒んでいた。
「私は、その、・・・外で待っていますので。いえ、先に帰・・・!」
ふぁさっと桜の香りに包まれ、カイは思わず目を見開いた。
「そんなに怯えないでくださいまし。大丈夫ですわ」
リンの髪が頬に触れ、背に彼女の温もりを感じた。胸に回された手はつっと頬まで上り、カイはどうしていいか分からず固まっていた。
あれから何がどうなったのか、カイは思い出せないでいた。自分の今いる布団と琴だけを置いた狭い部屋は誰がどう考えようと、遊女の私室だった。酔いは無かったが、どうにもこうにも思考がまとまらない。
「お体の調子、悪いのですか?」
心配そうに覗き込んできたのは桜の香りのする遊女だった。
「そうか、君か・・・」
くしゃっと髪を掻きあげ、どうしたものかとカイは項垂れた。リンはそんなことなど気にも留めず、そっとカイを抱きしめた。
「お疲れでしたら、今日はもうお休みになられませ」
「君は・・・」
「申し遅れました。私はリンと申します。今宵のお相手をさせて頂きます。不束者ではありますが・・・」
「そんなことは聞いていない!」
いつになく乱暴にカイは言い放った。そのように取り乱してしまっている自分にカイは驚き、優しくリンを引き剥がすと部屋の隅へと退いた。
「・・・・・・」
少し戸惑った表情でリンはカイを見つめていた。客の気分を害することは、何よりも重い罪である。リンはゆっくり腰を上げ、カイに歩み寄ろうとした。
「!」
一瞬だが、確かにリンの腰がびくっと震えた。酒やら雰囲気やら色香やらに酔い潰れているだろう普通の客ならば気づかないだろうが。
「私では、ご不満でございますか?」
涙声で言うリンにはお構いなしに、カイは口を開いた。
「君は、こんなことをしてちゃいけない。少なくとも、・・・今日はだめだ。・・・傷が開く」
「何のことでしょう?」
唇に指を当て、とぼけてリンは言ったが、カイをごまかすことなどできるはずがない。
「施術するだけだ。見せてみろ」
「何をおっしゃっているのか分からないわ」
「分からなくてもいい」
つい先ほどとは一転して、今度はカイが歩み寄る。リンは思わず後ずさりした。
「あの、な、何を・・・」
色白で華奢な体のカイだが、それでも男である。難なくリンを横にすると、するっと着物の帯を緩めた。慣れていることのはずなのに、リンはたまらなく恥ずかしく思った。
「あ、あの・・・・」
聞く耳持たず、カイは着物を開いた。リンは堪らず顔を覆い隠した。
「よくこれで何ともないように振舞えたな」
裂けた蜜壷からは今も少しずつ血が滲み出ていた。それに加え、いくつも痛々しい古傷が見られる。さすがのカイも、顔をゆがめた。
「ちゃんと治療しなかっただろう? いや、痛かっただろう・・・?」
悲しげにカイは言った。
「応急処置しかできないが、しないよりはましだろう。少し痛いが、我慢できるね?」
幼子をあやしつけるように優しくカイは言った。リンは恥ずかしくて仕方がなかった。この種の感情は、初めてだった。いつも、恐怖でしかなかった。荒っぽく扱われれば血が流れ、生暖かい液体が痛みと不快な感触と共に自分の中に流れ込む・・・。
「いっ・・・!」
鋭い痛みに、リンは思わず声を上げた。カイはまだ何もしていない。湧き出した密が傷口に触れたのだ。
「・・・ふぅ」
やれやれとカイは肩を落とした。その顔にはここへ来て初めての笑みが見えた。
「少しお休み。目覚めたときには楽になっているから」
そう言うと、返事を待たずにカイは麻酔を一針リンに打った。間もなくリンはすーすーと眠りに落ちた。じゅくりと溢れ出した蜜を拭うと、かちゃかちゃとカイは施術を始めた。
これまで何人の男に抱かれたのか、これから何人の男に抱かれるのか、愛もなく。彼女だけではない、きっとここにいる女は皆同じ状況なのだ。生きるということは、彼女達にとってどれだけの価値があるのだろうか? すやすやと眠るリンは、先ほどまで感じていたよりずっと幼く見えた。ガラス細工のように繊細で、美しく、指を触れればたちまち壊れてしまいそうに思えた。
雪の降り続く冬の日だった。寒さに凍えて動かなくなった体を温めてくれたのは、遊女楼の女主だった。その日から、リンの運命は逃れられない籠の中で回ることになった。
「おい、お嬢ちゃん! 生きてるかい?」
青白い、極度に痩せた少女の体を乱暴に揺すって女は叫んだ。辺りに人の気配は全くない、冬の林の中のことである。
「なんだ、死んじまってるのかい・・・」
そうつぶやくと、女は少女を雪の上に放り捨てた。その衝撃を、凍った体が感じ取ったとは思えないが、少女のうめき声が微かにもれた。
「う・・・」
女は慌てて駆け寄った。口に手を当て、息をしていることを確かめると、自分の着物を脱ぎ、少女を包んだ。
「大丈夫だ。もう、大丈夫だからな」
口調は悪いが、優しく女は声をかけ続け、自分の家まで少女を担いでいった。心温まる光景なのだろうか?
「さ、寒いよ・・・。怖いよ・・・・・は、母上・・・!」
麻酔が切れたからだろうか、リンが魘され始めた。口調がどうも幼い感じがする。
「は、母上・・・早く戻ってきて! リンを独りにしないで! ここだよ!」
目には涙が浮かんでいた。必死に叫ぶその声に、カイは耳を傾けていた。必死に母を呼ぶリンに、幼い頃の自分が重なっていた。カイはそっとリンの目から涙を拭った。気づくとその手はリンの頭を優しく撫でていた。
「大丈夫。大丈夫だよ」
「は、母上―!」
自分の声に驚いて、リンははっと目を覚ました。息がすっかり上がってしまっている。そしてその頭を優しく撫でる手に気づいた。
「・・・わ、私は・・・」
「おはよう」
にっこりとカイは笑ってみせた。
「何かの縁かもしれないね。私は別に好き好んでここに来たわけじゃないから、休暇と思って休んでてくれて構わないよ」
そう言うと、起き上がろうとしていたリンの瞼をそっと閉じさせた。
「私・・・すみません、色々と」
リンの声はまた涙ぐんでくる。
「治療は医者としての義務・・・というより、私の場合これは趣味だから。気にしないで。それに、私が無理やりやったことだし。謝るなら私の方でしょう?」
リンの目からはまた涙が零れ落ちる。カイは優しく頭を撫でた。
「君がもし構わないのであれば、また、来てもいいかな?」
「え?」
「君が元気なときに、話がしたいと思ったのだけれど、だめかな?」
照れくさそうにカイは言った。らしくないと思いながらも、素直な気持ちを隠さず言えたことに、小さな満足を覚えていた。
「わ・・・私などで良ければ! 嬉しい限りでございます」
「ん。ありがとう」
桜を愛でる人一人。
桜は喜び、硬い蕾を開き始めた。ゆっくりと・・・。
桜が風に花びらを舞わせる季節になった。
「君は最近、いい顔で笑うようになったね」
「そうでしょうか?」
「私にはそう見えるよ」
当たり前のようにリンの横にはカイが腰を下ろしている。遊女の私室でこれほど穏やかな情景は珍しい。初めて二人が会った日から、どれだけの月日が経っただろうか? カイは頻繁に遊女楼に足を運ぶようになっていた。
「カイ様は桜の花、お好きですか?」
舞い散る桜に目をやりながらリンは問いかけた。
「私は、好きじゃない。綺麗だとは思うのだけれどね」
寂しそうな声だった。リンは少し心配そうにカイをのぞき込んだが、それに気づくとカイはすぐに微笑んでみせた。
「たいした理由じゃないよ。ただ、桜の花はどうにも目立ちすぎると思うんだ。それを綺麗だと思うことは確かにあるけれど、私は少し辛いときの方が多くてね・・・」
カイの言おうとすることが、リンには全く見えなかった。
「宜しければ、聞かせてくださいまし」
その言葉に一瞬ためらったが、カイは頷き話し始めた。
「桜は、何を思って咲くのかな? 私には、痛々しい。自分をあんなにさらけ出して・・・」
重たい頭を持ち上げると、窓の外には桜が踊り咲いているのが見え、カイは大きくため息をつく。
「私はもともと捨て子でね、拾ってくださった義父には感謝の気持ちが絶えない。だから幼心にいつも必死だった。今もそれは変わらない。だけど、桜には何があるんだろう? なぜ、何のために、そんなに咲き誇ってみせるんだろう? そんなことを考える私を、どうかしていると思うかい?」
「いいえ」
悲しそうに笑うカイに、リンは少しの哀れみと、抑えきれない同情と、幾分の怒りをもって言い放った。
「でも、桜は哀しい花です。居場所を探す、独りぼっちの花なんですよ。私は、どの花より桜が愛しい・・・」
はっと、涙ぐむ自分の声に驚き、言葉を止めた。カイは目を円くして聞きふける。
「・・・聞かせて、欲しいな」
こくりと頷くと、リンはたどたどしく話し始めた。
「雪の降る冬の日でも、桜はじっと耐えているんです。待っているんです、暖かい春を。固く閉ざした蕾の中が、どんなに辛く寂しいものでも。
そしてようやく訪れた春に、あらん限りの力をもって咲いてみせます。人々が自分を見てくれていると信じて疑わず、咲いてみせます。儚く終わる夢とも知らずに。
人々は桜を愛で、宴を開きます。けれど、どれだけの人が桜を愛でて宴を楽しんでいるのでしょうか? 酒に酔い、桜など有っても無くても、気づきもしないでしょう。
桜はそんな切なさを知って、それでも綺麗に咲いている・・・。散る姿も美しく、人を悦ばせるんです。
満開の桜の中に、一輪の桜の花があります。けれど、誰も見てくれない。見えないんです。たった一輪の自分を、自分だけを愛でてくれる男に出会えたなら、それが遊女の幸せです」
リンは泣き崩れた。カイはそっと手を回すと、優しく問いかけた。
「君は、哀しい桜なの? 私では、だめなのかな?」
震える体から漏れるすすり泣く声に、カイもつられて涙した。
「カイ様・・・リンは、お慕いしております」
「ありがとう」
「傍に、居てくださいますか?」
ぎゅっとリンの小さな白い手がカイの袖を掴む。
「あぁ、傍にいるよ。けれど、一つだけ許してくれないかな?」
リンは顔を持ち上げる。目が真っ赤に腫れ、うじゃけた姿の彼女をカイは愛しく思った。そっと涙を拭いながら、口を動かす。
「私にも仕事があってね。大切な仕事なんだ。だから、そんなに頻繁には来れないんだ。ごめん」
「いいえ、私は幸せ者です」
桜の花は春を喜び花開いた。
一抹の不安は心にあれど。
久しぶりに外出の許可が下り、リンは河原の桜並木を歩いていた。監視はもちろん付いていたが、全く不自由には思わなかった。
桜並木といっても、すでにほとんど花は落ちてしまい、若葉の頃だった。
「すっかり散ってしまったね、桜」
ふいに届く愛しい声に、リンは辺りを見回した。ちょうど気候も穏やかな頃だからか、道行く人は多く、声の主は見当たらない。
「カイ様!」
鈴の鳴るような小さな声で、リンは叫んだ。しかしこの雑踏の中、そのていどの声が届くはずもない。だが、偶然というものは恐ろしいものらしい。リンの視界にカイの姿がふっと現れた。
「カ・・・!」
通り過ぎざま、一瞬だったがはっきりと見えたものに、リンは声を飲み込んでしまった。
「桜の季節も、終わりだね」
愛しい人の声が止めのように胸を刺した。リンはその場に崩れた。心から信じていたわけではなかった。しかし、やはり辛かった。カイの腕の中で、知らない女が微笑んでいた。
桜の花は、春など儚い夢だと思い知る。
それでも咲いてみせよ、臨終のときまで。
もともと素直な少女だった。隠し事が苦手で、すぐに感情が顔に出てしまう少女だった。男に媚びることを仕事としているうちに、心を閉ざしてしまっていただけで、リンは本当は物事に感じやすい、無垢な少女だった。
「どうしたの?」
ずんと視線を落として自分を見ようとしないリンを心配してカイは問いかけた。もちろん理由など全く知る由もない。
「なんでもありません」
「なんでもない顔ではないでしょう? どうしたのです?」
カイは優しくリンを抱きしめたが、すぐに振りほどかれてしまった。
「何かあったの?」
「なんでもないです」
「私には・・・言えないこと?」
心に空いた風穴に風が吹き込むようで、リンは辛かった。
「なんでもないのです、本当に。ちょっと体調を崩してしまっただけで・・・」
「嘘なんて、君には似合わないよ。もし本当に体調がおかしいのなら、それこそ私に相談して欲しい」
リンは何も答えなかった。彼女はとうに了解していた。自分から求めてはいけないということを。しょせん遊女楼とは偽りの愛の世界だということを。信じれば裏切られる。喜びは悲しみの前兆だと。
結局リンはその日、何も話さなかった。カイもそれ以上問うことはせずに早々に引き上げた。
「リンちゃん、最近元気ないですの。どうしちゃったのかしら?」
会計を済ませ店を出ようとするカイをこっそりカムロが引き留めた。
「ずっとなのかい?」
腰を屈めてカイは小さな少女に問いかけた。
「はいー。お外から帰ってきてからずっとです」
心配そうにカムロはカイを見つめる。姉を慕うかのように無垢な瞳で。
「『お外』っていうのは、店の外のことかい?」
「はいー。私達二ヶ月に一度だけ、お外に行けるんですの。みんな帰ってくるときはご機嫌さんですのに、リンちゃん元気なくて・・・」
「それって、いつかな?」
「えっと、・・・四日前です」
「そう、ありがとう」
カイはそう言うと足早に店を去っていった。幾分顔色を悪くして。
「四日前・・・あの日か」
独りになった部屋の中で、リンは久しぶりに独りきりで涙を流した。慰めてくれる人は当然ない。
「愛だけ・・・愛するということだけ教えて、貴方は去っていくのね。・・・どうせ辛い生き方よ。なら、儚の夢なら、知らないままでいたかった・・・」
すすり泣きを聞く人はなく、聞いて欲しくもなく、ただただ涙が止まらなかった。
何かを為すために生きるのか、生きるために何かを為すのか、はたしてどちらが正しいのだろう? 生きているのが当然の前提ならば、生きているのだから何かを為そうではないか、などと考えるのもいいだろう。あり得ることなのだろう。しかし遊女楼ではそうはいかない。常人の生きる世界とはいくらも違う、歪みきった世界なのだから。
身を売って、貧しい自分の家族に生を与えようというのなら、十分に生きる意味と成り得るのかも知れない。しかし、ここの遊女達は帰る場所のない女ばかりだった。たまたま主に拾われ生を得たものの、それが良かったのかどうかは分からない。そのまま野垂れ死んでいたほうが良かったのかも知れない。生きていることの幸福とは何であるのか分からないのだから。
「きっと貴女なら、いい人が身請けしてくれるわ」
姉貴分にそう教えられ、小さな幸福を信じていた時代が終わったなら、彼女達は何を思って生きるのだろう?
カイは今日も来なかった。もう雪の季節になるというのに。リンは以前のように心ここに無く客をもてなしていた。
「最近また一段と可愛くなったんじゃないかい? あぁ、もっとそう・・・あぁ、いいねぇ」
リンは吹っ切れたように軽い女を演じていた。必要以上に媚びていた。自分を身請けして欲しいなどとは露も思っていないのに、体はやけを起こしたように男に媚びていた。
「リン嬢を」
「あら、久しぶりじゃないか、兄ちゃん」
女主は久しぶりに訪れた男の顔を見るや、甲高い声でカラカラと話す。
「ごめんよ、せっかく来てもらったのになんだけどね。リンここ一週間は予約でいっぱいなんだよ。最近やけに客受けが良くてね」
「そうですか・・・」
カイは小さくため息を漏らした。休診などそう頻繁にとれるわけもなく、どうしたものかと思案していた。
「でも、あんたお得意様だしね。特別空けてやるよ」
「あ、ありがとうございます」
「三割増しだがね」
女主は意地悪そうに笑った。しかしカイの顔には光が射していた。
「大丈夫です! ご好意、本当にあり・・・」
「おいおい! 三割増しってのは冗談さ。まったくこれだから金持ちは嫌だね。うちはそんな卑怯なことしなくても儲かってるんだよ、まったく」
ぷっと膨れてみせる女主に、カイは深々と頭を下げた。
日が傾きかけた頃、リンは流石に疲れを感じていた。今日はすでに四人の相手をしていた。
「私、やけになっているの?」
水瓶に映る自分の姿に問いかけても返事はあるはずもなく、疲れた顔をした自分を醜く思った。
「り、リンちゃん!」
カムロがまたいつものように騒がしく駆けてくる。やれやれと振り返ると、少女は満面の笑みで告げる。
「カイ兄ちゃん来たですよ! リンちゃんご指名です!」
「あら、そう」
「嬉しくないの? リンちゃん・・・」
冷たく言い放ったリンに怯えた少女は、それでも聞いてみた。リンがカイを慕っていることは、遊女楼の誰もが知っていることだった。
「別に、お客は誰でも構わないでしょう?」
「で、でも・・・」
リンはそれ以上言わせなかった。表情を凍らせたまま流し場を去っていくリンの背中を、少女は心配そうに見つめていた。
「お相手させていただきます、リンと申します。ご指名ありがたく存じます。どうぞごゆるりと、良き時間をお過ごしくださいませ」
もう慣れ親しんだ仲だというのに、リンはそっけなく切り出した。リンの態度の急変には驚いたが、そのことには目をつむり、カイは自分のペースで話し始めた。
「久しぶりだね。ずいぶんと時間が経ってしまった」
そっと歩み寄るカイをすっとかわすと、リンは立ち上がり窓の外へと目をやった。雪がはらはらと舞い落ちている。
「桜の季節はとうに終わりましたね」
いつか聞いた愛しい人の言葉を繰り返す自分をリンは愚かで見苦しく思った。
「そう、だね。でも、また春になれば咲きますよ、桜は。いや、私以外の男に咲かないで欲しい・・・とか言ったら、だめですか?」
「だめです」
にっこりと笑ってリンは振り返った。その笑顔が何故かやけに、カイの胸に刺さった。
「恨みがましいことですが、言わせてくださいますか?」
相変わらず笑顔で言うリンに、半ば放心してカイは頷いた。
「あぁ、聞くよ」
「私、もう男を信じたりしないわ。信じれないわ」
「・・・・・・」
「私は誰も信じなかったわ。これからも信じないわ。貴方のことも、記憶から消したいわ、できることなら。私はこんな地獄の檻で生きてきたし、これからも生きていくわ。生きていけるわ。でも、今までのように希望を持っては生きられないの。ただひたすら、媚びて生きるの。そうするしか生きられないの。そうまでして生きる理由なんてないけれど、それでも死ぬのは怖いから。こんな自分が嫌いです。・・・私を壊した貴方が、・・・それでも大好きです。ありがとう。そしてさようなら。・・・もう二度と、会いに来ないでくださいませ」
言葉は激しいものの、穏やかにリンは言葉を一つ一つ紡いでいった。自分に言い聞かせるかのように。
「君は、見たのだよね・・・私の妻を」
申し訳なさそうにカイが重たい首を持ち上げて言った。強く閉ざしたはずのリンの心は揺れていた。
「私、結婚したよ。だから長い間・・・家族の手前、来れなかった。許してくれなんて言える立場じゃないのかな・・・きっと」
「何を、謝ろうというのですか?」
あくまで攻撃的な姿勢のリンに、カイはかける言葉も見つからなかった。リンは構わず続けた。
「遊女とは、一時の快楽を与えるモノです。快楽の道具としてしか愛されない私達です。いつかきっと私だけを愛でてくれる人が現われるなどという夢物語を信じている時代は終わった、それだけなんです。あなたは謝ることなんて何もしていないですよ」
「本当にそう思っているの?」
カイは真剣な眼差しでリンを射る。その眼光にリンは震えた。
「本当のことを言って。私は怒らないよ」
立ちつくすリンに静かに歩み寄ると、カイは今度はしっかりと抱きしめた。こらえていたはずの涙が静かに流れ落ちる。
「私、憧れていました。お日様の光を浴びて、何も気にしないで、好きなように、思うように、外を自由に歩きたいと・・・。私、憧れていました。肩を寄せ合って歩く、本当の恋人達に・・・」
ひっくひっくと啜り泣きながら、一生懸命にリンは声を出そうとした。呼吸が荒くなり、涙で視界は揺れ、そのうち何も見えなくなった。
「大丈夫。ゆっくりでいいから。私は傍にいるから、大丈夫だから」
リンはこくりと首を振った。体を震わせ啜り泣くリンを、カイは優しく包み込んだ。大切なガラス細工のように。
少しだけ呼吸が落ち着くと、リンは口を動かし始めた。
「私、知ってしまったのです。カイ様には、もっと大切な人がおられるのだと。私、知ってしまったのです・・・私の知らないカイ様がおられることを・・・」
カイはしばらく考え込んだ。リンの部屋に通うことで、少しでも彼女の癒しになればなどと思った自分はなんと思慮がなかったのだろうかと。自分と似たような境遇にあり、しかし対極的な環境に置かれた彼女を、放っておくことはできなかった。良かれと思ってした自分の行為が、軽はずみだったと、カイは後悔していた。
「私が君を身請けできれば良いのだけれど、養子の身分で・・・さすがにできないんだ。ごめんなんて言葉、役に立たないけれど、他に言葉が浮かばないんだ、・・・ごめん」
「謝らないでくださいまし」
にっこりと笑ってリンは言う。相変わらず涙は流れているものの、その笑みは暖かく穏やかだった。
「求めなければ、失いません。願わなければ、傷付くこともありません」
「どうして、そんなに哀しいことを言うんだい? 私は・・・」
「私は桜のように生きていきます。散る姿まで美しくあれたならこの人生、私の勝ちです。ですから、ですから私を哀れまないでくださいまし」
窓の外では粉雪が桜のように舞い落ちる。地へ落ち、何の跡も残さない。存在したことを知るものはない。願わくば、粉雪でなく、彼女が桜であることを。カイは願うことしかできなかった。
「また・・・会いに来るよ」
リンは申し訳なさそうに微笑んで答える。
「だめです」
その笑顔はさながら桜姫。彼女の本当の笑顔だった。美しく、強く、できることなら幸せに生きて欲しいと願うばかりだった。
そぞろ雨 打たれ散り逝く 桜花
泣いてくれるな 愛しい人よ
孤独な桜に、想いを寄せよ・・・
***************************************************・:Sakura Hime END.:・***
お付き合いいただき、ありがとうございました。 |