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軽くグロテスクで、軽くエロティック。
でも、どちらも本当に軽くだと思うので、期待はしないでください。
15禁にするほどでもないという感じです。
フェンリルと少女
作:竜丸


     1


「知っていますか? どこかの国では流れ星にお願いをすると、その願いを叶えてくれるらしいんです。ですが、私はその願い方や方法を詳しく知らないんです。もし知っていたら、私に教えてほしいんですが……」
 星がちりばめられた夜空を見上げて立ち止まる、誰もが見惚れてしまうほどの絶世の美少女。その少女の言葉に、立ち止まるどころか振り返りもせず、男は空に言葉を投げた。
「さあ、俺が知るはずもねぇ」
 そう言った男は、少女と並んで歩く事を嫌ったのか、立ち止まった少女を突き放す様に歩みを速めた。もちろん、男が星を見上げる事はなかった。





 この2人の関係は傍から見ればどう見えるのだろうか?

 歳の離れた恋人  あまりにも歳が違いすぎる
 歳の離れた兄弟  それにしては顔が似ていない
 単純に親子     これも顔が似ていないので違う
 使用人とお嬢様   使用人に敬語を使うのはおかしい

 そう、そのどれもが、この2人には当て嵌まらなかった。2人は全てにおいて違い、本来なら、並んで歩くどころか、出会う事すらなかったであろう2人。この2人が今は、森に続くこの静かな2人だけの道を、並んでは追いつき、そしてまた引き離すを繰り返しながら歩いているのだ。これは、そんな偶然の出会い、いや、これこそまさに運命の出会いと言うべき物語の出会いを、2人の紹介の後に話すとしよう。





     リンス・キュロッド嬢
今年で11歳になる名家の生まれのお嬢様。品があり、可憐で、何よりも歳からは想像も出来ないくらいの色気と美貌を兼ね備えている。見た目でまず目を惹くのが、輝くような金色の長い髪、目は薄い青で、肌は透き通る様に白かった。そんなリンスに、リンスの母親が9歳の時に婿を募ったのだ。しかし、現在11歳にもかかわらず、リンスに婿はいなかった。それは彼女の、リンスの父親が反対し続けているからだ。その反対の理由は、常識では考えられないものだった。父親は常日頃から、リンスにある事を耳元で囁いていた。
「お前が16になった時、私が始めに処女を奪ってやろう。そしてそれから、お前は私の妻となるのだ」
 そう耳元で囁きながら、毎日隅々まで父親はリンスの体を洗っていた。そして、婿がいない理由はもう一つ。それは、キュロッドの血、つまりは父親方の男全員がリンスの事を狙っているためだった。一度では諦めず、母親は5度婿を募集したが、最後には誰も来なくなっていた。正確に言い直すならば、母親以外のキュロッドの者が来ないように仕向け、もし来ようものならば、その道中で殺していたためだった。リンスの母親も、実は同じような経緯で今の生活を送っている。それが不憫で、リンスだけは逃がしてやりたいと常日頃から画策していたようなのだ。

     グラハッド・K・グリッター死刑囚
この男の正確な年齢は分かっていないが、初めて指名手配をされたのが10年前。グラハッドが始めて人を殺したのが17年前なので、少なくとも20歳を超えているのは確実だった。見た目から判断すると30前後にまでさらに上がる。身長は198cmあり、血に餓えた獣のように鋭い眼光を持ち、骨まで砕くといわれる歯、鎧を着たような屈強な肉体を誇っていた。このグラハッドが、今まで殺してきた人数は計り知れない。噂では、1晩で1つの村の人間を全て殺した事もあるといわれている。そして、グラハッドにはあだ名がある。それが‘グラハッド・フェンリル’というあだ名。フェンリルとは、神を喰らい殺すほどの巨大な狼の名であり、その名で呼ばれるほど、グラハッドは人々に恐れられる存在だった。




 そんな2人がなぜ、星空が見えた道から、伸ばした手の先さえ見えない森の中に迷わず踏み込んだのか。それは、リンスがグラハッドを助けた事に始まり、この関係を保っている理由。本来のグラハッドなら、リンスを迷わず殺しているはずなのだから……。


     2


 リンスの足が震えていた。いや、リンス以外でもこの場所に踏み込めば、誰でも足が震える。ここは、わざわざ1人の囚人の為だけに作られた監獄。冷たい石が敷き詰められた監獄の廊下を、囚人など見たことがないリンスが1人で歩いている。
 リンスは、自分の歩調と同じ様に揺れるランプの明かりだけを頼りに、その明かりだけでは先が見えない廊下を無言で進む。長く、長く続くその廊下に聞えるのは、小さく乱れた呼吸と心臓を張り裂くような大きな音だけ。その状況でもただ歩くリンスが、歩き続けてようやく4つ目の扉に差し掛かった時には、全身が湿り気を帯びていた。そして、その扉に鍵を差し込み回した時、母親に言われたことを思い出し呟く。
『4つ目の扉を開くと、そこに話が出来る獣がいるわ。あなたは、その獣に命乞いをしなさい。それしかあなたに自由はないの。もしそこで殺されても―』 「地獄は無くなる」
 そして、扉を開いた。


 真ん中に穴が開いた天井をした檻。そして、リンスがその檻の中に見たのは、月明かりに浮かび上がる、人の形をした獣の姿。その姿を見た瞬間、頬を伝って顎から汗が滴り落ち、言葉は喉の奥で息を潜める。
 リンスは昔父に連れられて、狩りと称した虐殺の現場に連れて行かれたことがあった。その時の獲物が、一匹の大きな狼だった。その狼は、死ぬ最後の瞬間まで、消える事のない殺意を目に宿して、人を睨みつけていた。その狼と今目の前にいる獣、どこが違うのかリンスには理解できなかったが、その答えはすぐに出た。
「何の用だ? ガキがこんなところに来るもんじゃねぇぞ」
 そう、この獣は話が出来る。
 手首には何重にも鎖が巻きつけら、その鎖と壁を繋ぐ鎖は10本以上。足には、鉄の塊がついた鎖が幾つも付けられており、到底動かせる状態ではなかった。その全ての鎖に錠前がついており、体を覆うのは衣服ではなく、数え切れない切り傷に擦り傷、噛まれた痕や刺された痕、殴られた痣や縛られた痣。とても常人では、それが獣であっても耐えられない程の傷。それにも関わらず、獣は弱る事のない視線を、来るはずなどない、今目の前にいる美しい少女に向けていた。
 自分に手が届く事などあるはずがないのに、今にも襲われそうな感覚に陥るリンス。そんな状況の中、あの母親の言葉だけを思い出し、自分を言い聞かせて獣に喋りかけた。
「何言ってるか聞こえねぇな」
 リンスから2・3歩先で言葉は地面に落ち、獣の耳まで届かなかった。その言葉が消えた辺りから、意を決したように獣に視線を移し、今度は獣の耳に届くくらいの声を上げた。
「わ、私を……。私を自由にしてください!」
 暫くの沈黙後の、檻を揺らし、リンスの体を揺らす獣の笑い声。
「はっはははは!! 何を言うのかと思えば、自由にしてくださいだ? そんな事を言うためにここに来たのか? この状況を見れば、誰でもその台詞は俺のものだと分かると思うぜ」
 体の奥まで響く声が止むのを待って、リンスは片手に握り締めていた鍵を、見せ付ける様に前に突き出す。
「私は鍵を持っています! あなたを助ける事が出来ます! あなたを自由にする事が出来ます! だから私も自由にしてください!」
 自分の言葉が終わるのも待たずに、リンスは頭を下げた。が、獣がそんな事を素直に引き受けるわけがない。
「何故俺がお前を自由にしないといけねぇんだ? 少なくとも、鍵を外した時点で俺はお前を殺すぞ。それだけは確かだ」
 ここで初めて、リンスが霞んでよく見えなくなっている視線で獣の目を見た。
「それでもいいです」
 そして、リンスが檻の鍵を開けて中に入った。


 グラハッドは、何故か自分の幼い頃を思い出していた。
 グラハッドの記憶は、17年前から始まっている。それまでの記憶がまるで無いグラハッドだったが、多分十年は生きていたであろう年格好をしていた。
 記憶の始まりはおぼろげなものだった。グラハッドが今思い出せるのは、白い煙の塊となって口や鼻から漏れる息、手足の先は、息の白さと違い、真っ赤に熟れる林檎の様に赤く腫れていた事ぐらい。けれど、どれも今となって当てた言葉で、その当時はどういう感覚だったか思い出せない。そんな始まり方をする記憶が、次の場面に行くのに欠かせない存在があった。記憶の始まりから日が3度暮れた頃、限界を感じ、終わりの時を始まりの町にあった噴水の横で迎えようとしていたグラハッドに、1人の女性が手を差し延べたのだ。その手に、骨だけになった腕を伸ばしてしがみ付いた。その手は暖かくて、その女性の心を表してるように暖かくて、しがみ付いているといつの間にか、その女性と同じ様に暖かい家に招かれていた。そこから記憶が、また朧げになる。ただ、覚えている事もある。その女性の家はとても居心地がよかくて、少なくとも、グラハッドの生涯で唯一、安心して眠れる場所がそこにはあったという事。そして、その暖かさが壊れる時が来た。その壊れる時の記憶は、今でも鮮明に蘇る。いつもなら明るいはずの家の中が、その時は月明かりしか部屋の中に差し込んでいなかった。その月明かりに照らし出されるのは、赤と言うには黒過ぎる血で、全身を染め上げているグラハッドの姿。部屋にある大きな鏡に映るそんな自分の姿を見て、怯えた目をして赤い涙を流していたグラハッド。そのはずなのに、グラハッドの心の底では歓喜の声が上がっていた。そしてそれは、鏡に映る表情に表れていた。
 そう、それはまさに、今自分の檻の中に入ってくる少女の姿そのものだった。少女はあの時の自分と同じ目をしていた。そんな風に、グラハッドには見えたのだろう。だからか、それともただの気まぐれか、グラハッドがこの時少女に手をかける事はなかった。その少女が、自分の腕よりも小さな体で右腕をよじ登り、鎖についている錠前を外そうと必死になっているその姿を見て、全て外し終わるのを待ってから動き出した。


 リンスがしがみ付いている鎖に繋がれた生き物は、獣よりもさらに恐ろしい存在かもしれない事に改めて気づかされた。右腕の錠前を外し終わったリンスを、床に下ろすように右腕が地面に近づく。それでも足が届きそうになかった右腕から小さく飛び降りたリンスは、振り返らずに檻の入り口まで走って、冷たい鉄に体を押し当てた。その瞬間、何かの大きな音に体が浮き上がるくらい驚いて、鉄の棒にしがみ付いたまま固まった。そのリンスの足元に、カラカラと音を立てながら転がってきた物、それは鉄の何かだった。それを目にしてもすぐに理解できなくて、後ろを振り返るとそこには、左手の手首を右手で摩っている獣の姿が。その姿から、先程理解できなかった鉄に目を向けると、それは鎖だと理解することが出来た。
「うおおぉあぁぁ!!」
 それは突然の雄叫びだった。リンスの体に電気が走ったかと思うと、掴まっていた鉄の棒や、部屋を覆う石達も同じ様にビリビリと電気が走る。部屋にいた全ての物が、獣から上がったであろう雄叫びに怯え、張り裂けそうなくらいリンスの心臓が早く動く。上半身を獣と同じ様に首や肩を振って、久しぶりであろう自由を噛み締めているようだった。ただ、完全に自由になったわけではなく、獣は頭を左右に振った後、「邪魔だな」と呟き体を屈めて、足の鎖に手を伸ばした。リンスなら、いや普通の大人の男でも引きちぎるのは不可能であろう鎖を、獣は軽々と引きちぎった。そして、獣を縛るものは何もなくなり、完全な自由を手に入れた。
 自由を手に入れた獣だったが、すぐには動き出さず腕組みをしてその場に止まった。その獣が手を伸ばせば触る事が出来る距離までリンスが近寄り、それから獣に話しかけた。
「今警備は手薄です。母がここの警備の人たちを屋敷に招いて、パーティーを開いているので」
 獣がゆっくりと目を開け、リンスに視線を落とす。獣の仕草から目を逸らさずにリンスが見上げていると、不満げな表情に変わった獣。
「おい、嬢ちゃん。お前が何で俺を解放したかに興味なんてねぇ。ただな、俺の周りをうろついてると捻り殺すぞ」
 リンスはその言葉を待っていたかのように、満面の笑みで答えた。
「そうしてくれるなら、喜んであなたに殺されます」
 リンスの心からの言葉に、獣はまた目を閉じた。そして、いきなりしゃがみ込んだ獣は、リンスと目線を合わして、ある事を聞いた。


「は〜あ。もっと美味い物食いたかったな〜」
「仕方ないだろ。俺達がここ離れてるのバレたら、ただじゃ済まないんだぞ。一応ここから人がいなくなるのは禁止されてるんだ」
「何言ってんの? あんなバケモンが繋がれてるこの監獄に、誰が近づくっていうんだよ?」
「それは、まあ……」
「それに、俺達奥様に招待されたんだし、別に良かったんだよ、最後まで居ても。あぁ、見たかったなぁ〜、噂の美少女」
「確かあそこの娘って、10歳前後だったよな? お前、そんな子供に興味があるのか?」
「もしかして、噂知らないのか。あそこの娘って、全然人前に姿現さないだろ。それは、キュロッドの男全員が反対してるからなんだってよ。男どもに姿を見せる事を。それぐらい、美人なんだってよ」
「ふん、噂だろ。しかもお前、何も分かって―」
 和やかに談笑していた2人の顔に、緊張が走った。誰もいないはずの廊下から物音、正確には足音がしたからだった。そして、2人同時に廊下の方を振り返ると、そこに居たのは小さな女の子。靴を履いておらず、着ている物も薄い下着のようなワンピースだけの少女は、人形が動いてるのかと思わせる白い肌で、とても美しい顔をしていた。そして今度は、2人同時に顔を見合わせた。1人はホッと肩を撫で下ろして、台に置いてある拳銃から手を離し、椅子に座り直してコーヒーを口に運んだ。
「やぁ」
 もう1人、美少女を見れなかったと悔やんでいた男は、その少女に興味があるようで、椅子から下りて屈み、ゆっくりと低い大勢のまま近寄る。その男の様子に気づいて、コーヒーを飲んでいる男が注意した。
「あんまり怖がらすなよ」
 呆れながらそう言うと、コーヒーに集中するために、2人を背にするように椅子ごとテーブルに向きを変えた。その男の言葉に、「分かってるって!」と苛立った様に言った後、その声とは正反対の、優しい声を出した。
「で、お嬢さんお名前は?」
「リンス」
「やっぱりか……。そうだ、ウチに来るかい? いろんな玩具があるんだけ―」
 男の自然と零れる笑みは、少女に触れる距離まで近づいたから。ゆっくりと、近寄る速さと同じ様にゆっくりと、少女の全身を嘗め回すような視線。そして、存分に少女を見ることを楽しんだ男が、先程の言葉を掛けながら少女の髪に指を絡ませ、肌に触れようとしたその時。
「よお。俺も玩具で遊びたいんだが」
 少女の顔の横に、鎖に繋がれていたはずの、人とは到底思えない獣の笑顔が現れた。
「う!」
 慌てて男は拳銃に手を伸ばすが、男の手よりも先に獣の手が男の口を塞ぐように覆い掴んだ。
 “男の声!”
 もう1人も、自分の相棒とは違う男の声に、テーブルに置いてあった拳銃に手を掛けながら振り返った。が、振り返った先の視界は黒で覆われている。
 “あれ、黒―”
 そう思った次の瞬間には、男の耳に自分の顔の骨が砕ける音が聞こえてきた。それを横目で見ながら、顔を掴まれている男は拳銃に手を伸ばす。
「おっと、そんな玩具はいらねぇな」
 獣が気づいて、男から拳銃を取り上げる。顔が潰れた男は、地面に呻き声を上げながら倒れていく。その倒れていく男の頭に、獣が踵を落として男の顔を地面に叩きつけた。
「あ〜ぁ、可哀想に」
 獣が足を振りながら、高い所から落ちたように潰れた男の血を払った。
「さて、お前はどうして欲しい」
 男の顔を掴んだまま、壁に押し付けて獣がそう聞く。その獣の顔は、今から待ち受ける楽しみで変わっていく。それを見た男の顔は、恐怖の色で染まる。
「おっといけねぇ、この状態じゃ喋れねぇか。そうか、喋れねぇんじゃ聞きようがねぇな。なら、お前に顎は必要か? 必要ねぇよな? ひゃは、はっはははは」


 リンスは、獣が自分の体の横を通って部屋の中に入る時、廊下に座り込んで、部屋の中を見ないように壁に張り付いた。体は自然と揺れ、鼻歌を口ずさんで、小さな手で聴覚を遮る。なるべく音が聞こえないよう、なるべく現実を見ないよう、今まで嫌な時は心の中でしてきたように、歌を口ずさむ。しかし、リンスのその小さな抵抗は無駄だった。獣の動きが音となって、映像としてリンスの目に映る。骨を砕き、壊し、さらには……


 上には赤に染まったシャツを、下には脹脛ふくらはぎ辺りまでしかないズボンを履いてグラハッドが部屋から出ると、少女が耳を塞いだまま無言で顔を見上げている。その姿から、グラハッドは動揺を感じ取れなかったようだ。心の中で、もし動揺しているようならばこの場で殺すか、置いていこうと決めていたから。多分殺す事になると思っていたグラハッドだったが、その予想はまるで外れていた。それどころか、少女は最も血が付着している部分を見つめている。
「人を、食べたんですか?」
「あぁ。所詮は肉の塊だからな」
「もし、私が邪魔になれば、私も食べますか?」
「お前みたいに肉が少ねぇ奴は、食いづらい。もしするとしたら、ただ殺すだけだ」
「そうですか……。あの、それで……」
 屈んでいる少女の体が、さらに小さくなる。その小さな体の下には、小さな水滴の跡と、数滴の赤い跡。
「……おい、さっさと鍵を放せ。病院なんざ、行けやしねぇんだぞ。もし膿んだり化膿しても、自分で処理出来るんだったらそうしていろ」
 少女の小さな瞳がグラハッドの顔を捉える。その格好のまま、暫く無言で何かを考えた少女。先程の言葉を理解するための時間だったようで、慎重に言葉を選んで聞いていく。 
「もしかして、私を、連れて行ってくれるんですか?」
「一応、俺がここから出られるのはお前がいたからだ。だから、俺もお前を檻からだけは出してやる」


     3


 そして今、姿が見えない虫と鳥の声だけが響く森の中で、リンスは眠りに落ちていた。リンスのたてる寝息は森の合唱にかき消され、眠りではなく永遠に目覚めないかのように見える寝姿。
 何故そのように見えるのかって? それは、2人は町を出てから今日で5日目の夜を迎えているため。その5日間、リンスは僅かしか食べ物を口にしておらず、その僅かも、殆ど喉を通らなかった。理由はいくつかあったが、一番の理由は横に人の死体があったからだ。その死体があった時が、唯一まともな食事機会だったのに。
 一本道に、馬車を引く2頭の馬の蹄が響いたのは、3日目の夜の事だった。その音を聞いた途端、リンスを一本道から逸れた場所に連れて行き、グラハッドが馬車を襲った。その馬車には、キュロッドの紋章が付いた服を着ていた4人家族が乗っていたが、その一家をグラハッドは皆殺しにしていた。リンスがその場に連れて行かれたのが、家族が死んだ後だったのでそう思ったのだろうが。その馬車の中には、食料と水、毛布や生活用品など、色々な物があった。グラハッドがリンスの前に、血が滲み出ている馬の肉と人の肉、野菜などを馬車の中で差し出したが、どうにかこうにか口に出来たのは野菜だけだった。その姿を横目で見ながら、グラハッドは人の肉を喰らい、馬の肉を喰らい、野菜を喰らった。リンスは今まで、火を通していない物を殆ど口にしたことがない。しかも、馬車の中には、自分と同じ位の2人の子供の死体がある。この状況で、喉を食べ物が通るはずがなかった。
 その時に、馬車から色々な物を取っていたので、眠りに落ちているリンスの下には毛布が敷いてあった。




 物音がした。いやそれよりも、体の前の空気が何者かに圧迫される様な感覚で目が覚めた。しかし、リンスはすぐには目を開ける事が出来なかった、開けたくなかった、信じたくなかったから……。けれど、リンスは現実を見るために、まぶたを開いていく。開いた先には、グラハッドがいた。リンスに覆いかぶさるよう、仁王立ちで跨ってじっと見下ろしているグラハッド。その時、なぜだか分からなかったが、リンスは生まれて初めて、悲しくて涙が溢れそうになった。今までだって、同じような事をされそうになったのはいくらでもあったはずなのに。それなのに、なぜか今回だけは、グラハッドの顔が涙で揺れる。そして、覚悟したようにゆっくり目を閉じると、頬を伝う一筋の感触。
「よく泣く奴だ。イテェのが嫌なら、動くな」
 グラハッドの言葉で、固く結ばれた手には薄っすらと汗を掻き、毛布の上に広がっていた金色の髪まで強張る。そのリンスの顔の横の辺りと、太ももの辺りに何かが触れた。そして、触れただけで目の前の空気が軽くなった。
 “あ、れ……”
 リンスは不思議に思い、上半身を起こしてグラハッドを捜した。少し離れた場所で石の上に座っているグラハッドを見つけると、その手には何やらグロテスクな虫が2匹。
「な、何ですか、それ?」
 少し早くなった呼吸を整えながら、汚れた手で頬を払って目を擦る。
「……。何泣いてるか知らねぇが、こいつはサソリだ。たいした毒じゃねぇが、刺されるとイテェんだ。もう一匹お前の近くにいたぞ。イテェのが嫌ならすぐに立つ事だな」
 その言葉の終わりと同時に、飛び跳ねるように起き上がるリンス。立ち上がったことで、森の中が赤く染まっているのに初めて気づく。それと同時に、いい匂いが辺りに立ち込めている事にも気づいた。
 “火、だ……”
 森を赤く染めていたのは、リンスの脇で火が焚かれていたから。その火の周りには、枝を折っただけの、なんとも雑な串に刺さった1羽の鳥と3匹の魚。その手前には、大きな葉っぱの上に置かれた、色とりどりの木の実が盛ってあった。あまりの驚きと、久しぶりの火に焼ける食べ物の匂いで、ただ見つめることしか出来ないリンスに、グラハッドが話しかけた。
「喰わねぇのか? 喰わねぇなら、俺が喰うぞ。炭にするには勿体無いん―」
 グラハッドは、慌てて、間違って火の中にでも飛び込みそうな勢いで、熱いはずの魚の串に飛びついたリンスを見て驚いた。
「これが、キュロッドのお嬢様とはな」
 指と口の中に水脹みずぶくれを作りながらも、一心不乱にカブリついていたリンスが、魚を2匹骨にして、鳥を半分ぐらい食べている時に、突然手を止めた。
「ふぁふぇふぁいふでぶふぁ?」
「……。何言ってるか分からねぇよ。まあ、俺の飯の事を心配する必要はねぇよ」
 先程捕まえたサソリの尻尾の先を親指で弾き、上を向いたかと思うと、サソリを口の上に持っていき手を離した。
「!」
 バリバリと音を立てて食べるさまを、肉が半分になった鳥をしっかりと抱きしめて、恐ろしい者を見る目で見つめていた。そんなリンスの様子に気づいたグラハッド。
「何驚いてるか知らねぇが、お前とやってる事は変わりねぇんだよ。ただ生きてるか死んでるか、ただ鳥か人か。違いといえばそれぐらいだ」
 リンスは心の中で、“十分違う”と思いつつも口には出さなかった。


 お腹が一段落着いてデザートの木の実を数個食べている時に、突然食べる手を止めて、ある事が出来ない事に気づいた。
「あの、どうやって寝ればいいんですか?」
 グラハッドの口には、もう一匹のサソリが入っていたようで、それが無くなってから答えた。
「俺が座ってるこのデカイ石の上か、木の上か。まあ、木の上―」
「出来ません」
 手頃な木を探そうと、木の枝を見始めようとしたグラハッドにリンスが口を挟んだ。そして続ける。
「そんな事出来ないので、あなたの膝の上で寝かせてください」
「何で俺がそんな事―」
「嫌です」
「……あのな。な―」
「い・や・で・す!」
 2人の間に漂う無言という言葉。
「だったら―」
 それを嫌った様に、グラハッドが先に喋り出す。
「だったら、一晩中歩き続けるぞ」
「平気です。平気な気がします」
 それを聞いても、リンスは強い眼差しでグラハッドを見つめる。
「そうか、なら仕方ねぇな。言っとくが、俺はあの監獄の中で1ヵ月寝てなかったぜ。無論それぐらい歩き続ける事なんざ、全然苦じゃねぇ」
 少しグラハッドを見つめるリンスの目が泳いで、明らかに戸惑った顔になった。
「1ヵ月か……。それは少しキツイかもしれない……」
 などと、しゃがみ込んでブツブツ独り言を言い始めたリンスが嫌だったのが、鬱陶しくなったのか、話を変えるようにグラハッドが突然話し出す。
「教えてやるから、俺の上以外で寝ろ」
 しゃがみ込んでいたリンスは、いきなりの訳の分からない言葉に驚いている。そんな様子を無視して話を続ける。
「小さな島国の話だが、流れ星が消える前に同じ願いを3度願えれば、その願いは叶うそうだ」
 この森に入る前の会話の事だと気づいたリンス。
「どうして知っているんですか?」
「さぁ、俺が知るはずねぇよ」
 まったく訳が分からなかった。
 “……教えてくれたのに、知らないってどういうことなんだろう?”
 しゃがんだままでいるリンスの目に、焚き火の脇の黒くなってしまった、嘗ては本であったろう燃えカスがある事に気づいた。
「字は読めるんですか?」
「襲う家の下調べをする時に、字が読めると読めねぇとじゃ随分と違うもんだ。だから自分で調べて読めるようになった。もういいだろ。それ喰ったら、さっさと寝ろ」
「分かりました、あなたの膝の上で」
「……」




 2人は歩き続けていた。行く当てもなく、ただただ歩いた。離されては追いつき、追いつかれては離してを繰り返して。行く当てのないその旅は、どこまで続くのか分からなかったが、始まりとは違い、2人からは少しだけ笑顔が漏れていた。しかしそれは、動いている事を知らないという事も表している。そう、キュロッド家がこのままリンスを手放すはずがないのだから。














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