東京、と聞くとあなたはどんなところを思い浮かべるだろうか。
並び立つ高層ビル、行き交う人々、その横にはひしめく車の群れ、群れ、群れ……。
きっと、そんな風だろう。
白い河原、澄んだ水が流れる川、その周りにはうっそうと生い茂る木々、整備の手も入らずガレた車道、そんな道の両側に広がる畑や田んぼ。
そんな風景は東京とは無縁──きっとそう思ってる。そうに違いない。
いやこれは、東京というイメージの中にいつも入れてもらえない、東京都下に住む者のひがみかな。
でももしあなたが知らなかったんだったら、今知って欲しい。二一世紀になってはや数年、東京にも未だにそんな風景があるんだということを。
◇ ◇ ◇
僕の名前は山中昇平。今年で二九になる。既婚者。毎朝わざわざ都内まで一時間半もかけて出かけていって、コンピュータ技師なんて仕事をやってる物好きだ。
毎日毎日、丸一日数字やアルファベットと格闘してる、そんな僕の唯一の趣味が「山」だ。だから今もこうして小さなリュックと水筒を持って、森の中にひっそりとたたずむ神社の横を上がって行く登山道の入り口にいる。
「山」なんて言っても、ここはたいした山じゃない。標高で言えば五〇〇メートルちょっと。昔、もっとバリバリやっていた頃に行ってた山に比べれば、丘みたいなもんだ。
でも今はこのくらいの山がいっぱいいっぱい。だって聞いてくれよ、この、バス停からここまで数百メートル歩いてきただけで息切れしてる呼吸の音を!
気温はそんなに高くないのに、早くも汗が滴り始めてる。
だからって体力がないわけじゃないと思う。少なくても人並みにはある。この左足さえ邪魔しなけりゃね。
──数年前、山の事故で僕は左足の自由を失った。
ただの息抜きだったはずの山行で、ここと同じか少し大きいくらいの山でしかなかった。
一番高い尾根の上、広く、整備されたその道は、とても事故など起こりそうにない道だった。
はしっこの方を歩いていた僕は、その時、そこに張り出していた根につまづいた。
普通なら、尻餅でもついて、笑い話になって、それで終わりだろう。
だけど転ぶのをこらえて踏ん張ったそこが、何と崩れたんだ。
確かに地面はぬめりやすい赤土で、前日は雨だったけど、それにしても運が悪い。
そのまま道の下まで凄い勢いで滑っていって、樹に引っかかって止まった時、僕の身体はツタのような植物でがんじがらめにされていた。おまけに滑っている途中に落ちていたビンの破片で左足を大きく、深く切っていた。
どういう訳だか血はあまり出てなかったけど、丸一日後に救助された時は手後れだった。
僕はもう、山が出来なくなってたんだ。
◇ ◇ ◇
こじんまりとした神社を囲む杉の林の中に、階段の道が敷かれている。
ようやく息を整えて、僕はその最初の一段を上った。
たいしたことないなんて言いつつも、実はこの山はかなり急な坂だらけなので、足の不自由な身には結構つらい。登り始めにしばらく続く、この階段にしてからがそうだ。
段差の大きな石の階段を、一段一段、杖と右足を頼りに上がる。
何十段か登ったところ、最初の大きな曲がり角で、さっき整えた息が早くも切れて、僕は階段に腰を下ろした。僕の記憶が正しければ、この階段は今上がってきたのと同じくらいだけまだ続く。
持っていた水筒から、水を一口口に含む。特に冷やしてもいなかったので冷たくはなかったが、周囲の空気のおかげだろうか、妙に清々しい味がした。
しばらく口の中で転がしていた水を飲み干して、一息をついた。
振り仰げば押し迫ってくるような杉の木々。
その間、どこからともなく聞こえてくる鳥の声。
う〜ん山だなあ、と独語しそうになった時、小さくても重々しいエンジン音が耳に入ってきて、苦笑になってしまう。
でもこの人界との境、これを体験できるのも、きっと山だからだろう。
そう思った時、僕は何かに気づいたような気がして辺りを見回した。目に入るのは杉の木と、石の階段ばかり。左足に大きく残る古傷が、しくしくと疼いていた。
◇ ◇ ◇
いったい僕は、何に気づいたというんだろう。
自分をひんやり包む緑の空気の中で、僕は悶々と階段を登る。一段ずつ、肺に溜まった息を吐き捨てながら。
そうして行くと、急に視野の中で階段が途切れた。
そう言えば、ここから上は土の道だった。苦しさのあまり目の前に写る階段がずっと続くものだと思ってしまってたけど、そりゃあ、見えないところにも道はあるよな。
うん、見えないところにも道はある……んだよ。
何か、心の中に引っ掛かりを覚えながらも、歩き出す。
ここから先は土の道だ。急な坂だけど、これまでほどじゃない。それに、もうひと登りすれば、ベンチで休める。この上にはベンチが置いてあるんだ。
……いいじゃないか、ベンチを楽しみにしたって。
僕みたいな人間が山にくれば、そりゃあ必死だ。一歩一歩に普通の人じゃ考えられないくらいの時間と体力を使う。
こんな小さな山で何を、と思うかもしれないが、体力が少ない時に誤って倒れでもしたら、起き上がれなくなるかもしれない。ベンチがあるところで大休憩を取ることは、意外に大事なんだよ。
そうまでして来なければいいと思うかもしれない。実際、僕の嫁さんはそう言う。
「昇ちゃん、もう危ないことはやめようよ。次、もしあんな事が起きたら、今度は足だけじゃ済まないよ? そうなったら私、私……」
そう言って、いつも暗い顔になる。
ゴメンよ。
でも、そうまでしても、危険を冒してでも来たいんだよ、山には。
ここには絶対、何かがある。そう思わせられるんだ。もしかしたらそれは、さっき気づいた何かかもしれない。
頭の中をベンチでいっぱいにして、僕は杖をつく右手に力を込める。
気がつけばまだ、左足は疼いていた。
◇ ◇ ◇
ベンチが見えた時、僕はまさに倒れそうだった。
このやろ、こんなところで倒れてたまるか、もうベンチはすぐそこなんだ。
そう思い──もしかしたら本当に口にしていたかもしれない──ながら、杖にすがりつつベンチによろめき辿り着くと、今度こそ僕は倒れ込んだ。
仰向けに見える、杉の巨木のてっぺんに届きそうなくらい荒い息をしていると、汗がどおっと吹き出してくる。
ひとしきりそのまま、汗が流れ落ちるままにしておいて、呼吸が静まるのを待って起き上がった。 リュックの中からまだ青いミカンを取り出して、一房口の中に放り込んでみる。
口の中に広がる酸っぱい汁を味わいながら、杉の林の間にわずかに開けた展望に目をむけた。ここにベンチがある理由がこれだった。
この山唯一と言っていい展望を見晴るかすと、下方にかすかにかかる霞の下に、街の建物が見える。僕と嫁さんの住む家も、あの中の一つだ。
ああ、ここは、こんな小さな山でも人里を離れた非日常なんだなあ。
月並みなことを思いながら、ミカンの残った半分を口の中に放り込んだその時。
──チチチチチ……
耳元で不意に小鳥のさえずりが聞こえたような気がして、総毛だった。文字で書けば字面は可愛いが、その音量といったら、映画館の最前列にでも座ってるようだ。
聞こえてくる音の種類は次第に増える。
ちちち、ざざざ、しるしる、かさかさ、とくとく、かささささ……。
なんだ、これは?
押し寄せてくる幾多の音の波に堪え切れず、僕の意識は流されていく。持ち上げられ、落下し、クルリと回って放り投げられる。僕は、何かに弄ばれている──!
しくん、しくんと左足の疼きはとんでもなく強くなる。
でもその疼きの音も、次第に僕が感じているのかどうか、怪しくなってきて、もしかしたら僕はこのまま、波に溶かされちゃうんじゃないかって思えるくらいだ。
そして溶けていって初めて解る。これは音だけの海じゃなくて、それも含む、あらゆる存在の気配の海だって。動物も植物も鉱物も……全部のだ。
それにしても、この小さな山のどこに、こんな海があったんだろう。そう思うとなぜだか感動を覚えた。こんな感動、「人の住む街」なんて限られた空間じゃ、一生味わえないだろうな。うん、「山」ならではだ。
──そうか、この海が「山」なんだ!
僕は唐突に覚った。人の住む「街」から「山」へ行くということの意味を。
そして、後悔した。
なぜもっと早く気づいていなかったのか。もっと早く気づいていれば、この左足はこんなにならなかったかもしれないのに。
僕はバカだった。
ベンチで一人たたずむ僕の目から溢れ出してきた、それこそさっき流した汗なんか問題にならないくらい大量で大粒の涙の止め方が、自分でも分からなかった。
◇ ◇ ◇
流れるに任せていた涙も、ようやく涸れ、止まった。
僕はかえってすっきりとした顔で、キビキビと荷物をまとめ、立ち上がった。
目指す頂上まではもう一頑張りだ。僕は重い足を引きずりながら、歩き出した。
非日常──日常に非ず。
都合よく使える、いい言葉だ。僕は何気なく使っていた。僕だけじゃなく、みんなそうだろう。
でもよく考えてみれば、日常ではないということは、少なくとも「山」は、人が住んでいるところではないということだ。
といって、「山」は人が来ることを拒絶したりはしない。だからみんな勘違いするんだろう──「山」が人を許しているみたいに。
「山」は何者も拒まない。
そして、何者も許さない。
「山」にいるということは、ただ無限に広がるその世界に組み込まれることを意味する。
だから何者も、そしてたとえどんなに小さな「山」だろうと、「山」を征服することなど出来はしない。よく山頂に立つことをそう表現する人がいるが、「山」にしてみればその場所に人がいるということに過ぎなくて、そして「山」は、頂を踏んだ人だろうとそうでない人だろうと、さらには人であろうがなかろうが、絶対に優遇したりはしない。そんなことで雷が落ちる先が変わるなんてこと、あるはず無い。
──無限に変化する時間と空間を持つ自分の世界、そこに組み込んだもの全てを平等に遇するんだ。
そんな事も分かっていなかった僕は、「山」で片足の自由を失って、それからずっと、「山」が僕を選んだことを怨んでいた。僕でなくたって良いじゃないかって。
でも今、やっと分かった。「山」にいる時、僕は「山」の一部分に過ぎないって事が。
それがどういう事かっていうと、むずかしい話じゃなくて、例えば山がくしゃみをして身震いした時に、震えたのがたまたま僕の在る部分なら僕の身に何か起きるってだけの事だ。
でも、そのくしゃみに耐える、付き合うことこそが「山」に来る意味で、楽しさなんだろうな、きっと。
気のせいか、あれだけ重く引きずっていた足が、ずいぶん軽くなったような気がする。
頂上への最後の石段を一段ずつ杖とともに踏みしめながら、ようやく辿り着いた山頂の第一歩を、僕は晴れやかに左足で踏んだ。
疼きはもう、なくなっていた──
fin. |