二章/ヨン
不気味なほど静まり返っている暗闇の中を、早苗は一人で歩いていた。彼女の脳裏にはまだ、眉間を貫かれた夜行の姿が焼き付いている。
足は微かに震えていて、左右上下に不規則に動く早苗の目は、いくつも切り倒された竹を捉えている。
正直、行きたくはない。
だがそんな感情以上に、強い衝動が早苗を突き動かしていた。
何度か倒れた竹につまずいた後、やっと早苗はその場所にたどり着いた。
「篠宮……さん?」
大きな円を描くように、何もなくなった場所の中央。そこについさっきまで横にいたモノがいた。
しかし何か様子がおかしい。
月明かりを反射して光沢を放っていた体は、土色に変化し、所々紫色の斑点が浮かんでいる。
恐る恐る、早苗はそのモノに向かって進んでいく。
嫌な悪寒が、早苗の背筋を舐めるように伝わった。
近くに行くと、夜行の周りに大量の液体が漏れているのに早苗は気付いた。
血液とは違うもっと粘り気のある半透明な液体だ。
その液が流れ出している部分を見つけて、早苗は思わず大声を出した。
「篠宮さん!!」
夜行の腹部から、その液は流れ出していて、その原因は腹の中から外に突き出ている一本の人間の細い腕だった。
早苗はうろたえて辺りを見回す。
助けを呼ぼうにも、人などいるはずもなく、呼びに行くには時間がかかりすぎる。
早苗は血の気を失った腕を見下ろした。
きっと、この腕の持ち主には、一刻の猶予もない。
腕を掴もうとした時、またあの生暖かい声が、頭で反響し始める。
――逃げて大丈夫。誰もわからないわ。
「誰?!」
早苗は聞き慣れた声なのに、思わず叫んで立ち上がる。
――この人はもう助からない。
激しく頭を振り、もう一度早苗は腕を掴もうとした。
――その腕を掴んでもどうしようもない。早くここから逃げるのよ。
――誰も『あなた』を責めないわ。そうでしょう?この人はあなたとは他人ですもの。
「違う。篠宮さんはクラスメイト……」
――それがどうかしたの?あなたのクラスの人が『あなた』になにかしてくれたことがあるの?
腕を掴んだまま、急に視界が真っ暗になる。
――そう、普通にしているのに変わり者扱い。当たり前のことを質問しているのに、気味悪がられる。誰もあなたの意見を聞こうともしない。
暗くなっていた視界がぐらぐらと揺れる。奇異なモノを見るような目で自分を見る、無数の目がまぶたの裏に張り付いた。
だが、その中に一つだけ、暖かい眼差しがあるのを、早苗は見つけ、心の中で小さく笑う。
そしてそのまま、握り締めた腕を思いきり引っ張った。
「篠宮さん!!」
目を閉じぐったりと倒れている千草の上半身が、姿を表した。
――どうして『私』に逆らうのかしら……昔のあなたはもっともっと素直だったのに。
駄々っ子を見る母親のため息のように呟いた音なき声を、早苗は受け取ることが出来なかった。
早苗の意識は全て、千草に向けられていたのだ。
震える手を千草の喉に当てた後、早苗の腰は砕け、地面にへたりこむ。
「……息、してない」
絶望に打ちひしがれる早苗に、背後に忍び寄る影など気づけるはずがなかった。
四
陽の光りが、優しく降り注いでいた。
縁側に一人で座っている早苗の横に、すっと盆に乗ったお茶が差し出され、早苗は顔を上げた。
「飲めよ」
「……ありがとう」
目線を合わさず言ったのは篠宮圭吾で、早苗もお茶を口元まで持っていくが、我慢できずに尋ねた。
「篠宮さんは?」
「命に別状はないから心配しなくて大丈夫だ」
早苗の横に腰掛けた圭吾も、自分のお茶をすする。
二人の前にはよく整えられた庭があり、やわらかい光りが新緑の葉を一枚一枚輝かせていた。
あの時、絶望の淵にいた早苗と千草を救ったのは、背後から現れた圭吾だった。
心配して駆け付けた圭吾は、二人の姿を見ると驚きながらも素早く応急措置をし、仲間の夜行に長方形の小さな灰色の箱で呼び出し、今に至るわけだ。
「ごめん。また迷惑かけた」
「あのな、お前のせいじゃないって言ってるだろ。何回も同じことを言わせるな」
ここに来てから数回繰り返される会話に多少嫌気が差したのか、圭吾は思わず早苗を『お前』と呼んでしまうが、自覚はあまりなかった。
「夜行。もう使えなくなったんじゃないの?」
「あれは主自身だから千草が死なない限りは動く」
「主?」
小さく首を傾げた早苗に、圭吾は、しまった。と顔をしかめた。
「お前聞いてなかったのか」
「うん。斯波さんは何も言わなかった」
「……」
顔を両手で覆った圭吾に、早苗は何も言えない。
自分がそれ以上立ち入ってはいけない領域だと、なんとなく理解していたから。
しかし、頭の上から降り懸かってきた言葉が、その境界線をあっさりと取っ払ってしまった。
「夜行ってのは心臓がないからね。千草はあの夜行の心臓になってるって訳だ。夜行は心臓をなくさない限り死なない。つまり千草が死なない限りは夜行もしないってわけなんだよねえ。これが」
早口で言い切った声は高く、女性かと思ったが、早苗が振り向いた先にいるのはころころと太った少年だった。
「キヨシ!!お前何言ってるんだよ」
「大丈夫大丈夫。僕は首領に案内を任されてるから」
あっさりと圭吾をかわしたキヨシと呼ばれた少年は、人懐っこい笑みを早苗に向けた。
「僕の名前は藤波喜好。歳は圭吾と同じってことは、キミとも同じってことだね。ちなみに役割は調肢師だよ。あっ調肢師っていうのは……」
「ちょっと待て!!」
「なんだい? せっかく本題に行きかけたのに」
黙って圭吾が指差した先には目が点になったまま動かない早苗の姿があった。
それを見て、喜好はため息混じりに言った。
「わかったよ。ゆっくり話せば良いんでしょ……取りあえずついてきて、見せたいものがあるから」
何もわからないまま、早苗は自分より少し高い程度の丸い背中を追いかけていた。
縁側を抜け、大きな玄関につきそこからサンダルを履いて外にでる。そしてそのまま数歩進むと、立ち止まり呟いた。
「すごい」
大きな屋敷の先は、まさに迷路だ。
真っすぐ両脇に伸びる竹の柵は途中で何回も折れ、さらにその折れた通路も幾重にも分岐しているようだ。
柵の向こうには、瓦屋根の平屋が十分な広さの庭を持ち、静かに佇んでいる。
これは桑原の町にも、何度か行った沢住の町にもなかった風景だ。
「へえ〜こんな風景がすごいのか。僕はもう見慣れちゃってるからなんとも思わないな……じゃあちゃんとついて来てね。多分迷っちゃうだろうから、キミ」
「はい」
一言、いや二言多い小太りの少年に早苗は少しふて腐れた様子で、短く返事した。
途中まで道を覚えようとしていた早苗だったが、数分後には早々と諦めた。
その理由はあまりにも数多くの角を曲がったのもあるし、着いていくのがやっとになり暗記する所ではなくなったのもある。
日頃体を動かしている早苗にとっても、喜好の歩きの速さは尋常ではないものに思えた。
それに加えて、歩いている時間ずっと話し続けているのだ。
何か大切なことを言っているのかというと、大半は誰かの噂話だったり、どうでもいい感想だったりする。
なので目的の場所についた時、早苗は精神的にも肉体的にもへとへとになっていた。
ついたよ。と何ともなしに言う喜好に、早苗は戸惑いを隠せなかった。
なにしろ今自分達の目の前にあるのは、この先も続いているのと同じ竹の柵なのだ。
「ええと……ここは?」
「まあ黙って見ててよ」
そう言うやいなや、喜好は早苗を向かい側の柵に向かって突き飛ばした。
ひえぇぇ。と情けない声を上げながら、早苗の体は柵にぶつかる。
すると柵がくるりと回転し、早苗は柵の向こう側でしりもちを着いた。
「ちゃんと立っててよ。通れないでしょ」
のそのそと歩いて登場した喜好は謝るどころか、憮然とした様子で言い放った。
「あのね……」
さすがに頭にきた早苗が文句を言おうと口を開いたが、その拍子に目についたもののせいで言葉を失ってしまう。
やけに木が多い庭園。そこの端っこあたり、つまりは早苗の目の前に人がゆうに三人は入れそうな穴がぽっかりと口を開けていた。
まさか。と早苗は後ろをゆっくりと振り返る。
そこには小動物のような小さな目を輝かせる少年がいた。
そして少年は無情にも、こう宣告したのだ。
「はい。いってらっしゃい」
数秒後、ひえぇぇぇ。という声が穴のなかをこだまさせることになるのは、言うまでもない。
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