二章/イチ
少女は立ち尽くしていた。
目に見えるのは、妙に青白い空と墨のように真っ黒い水平線だけだ。
ここはどこなのだろう。
少女は辺りを見回す。だが自分以外、糸を張ったように静まり返っている水面に立っているモノはない。
その静寂に堪えられず、少女は思わず走り出した。
漆黒の水面に、少女の走った瞬間だけわずかな波紋が広がり、それは決して少女を逃がさない。
「誰かいないの?!」
堪らずそう叫ぶが、返ってくる返事おろか、その声がどこまで伝わっているのかもわからない。
必死に目をこらし、何かないかと辺りを探しながら水平線の向こう側を目指して走り続ける少女に、何故ここにいるのか。ここはどこなのか。そんなことを考えている余裕など全くなかった。
ただひたすら、走り続けるのだ。
しばらく走った時、少女は立ち止まる。真っ平らだった水面に変化が見られたのだ。
ぽつんと水面から何かが突き出していた。
そこまで大きくないそれは、そう遠い距離にあるようでもなかった。
少女は再び走りだす。
変化のない世界に、動きがあった。それだけで気分はどうしようもなく高揚してしまう。
しかし一歩、また一歩。近づいていくうちに、少女の顔から興奮した表情は除かれ、別の表 情が現れ始めた。
そして、それは唐突に悲鳴に変わった。
「いやあぁぁぁぁ!!」
少女は目を開き、言葉通り絶叫する。それでも少女の視線は、水面から飛び出た物体に釘づけになったままだ。
少女の顔を恐怖に染めたもの。それは真っ黒い水面から突き出した、一本の青白い腕だった。
「い、いや……」
後ずさりしかけた少女だったが、ふと足を止めた。そのままゆっくりと、本当にゆっくりと 首を後ろに向ける。
そしてまた、少女は喉が張り裂けるほど叫んだ。
水平線まで何もなかった水面には、今や無数の腕が手の平を宙に向け、うごめいていたのだ。
一
なんとも心地の良い風が吹いていて、思わず右手を上げて伸びをした水城早苗の髪は柔らかく揺れ、左耳についている控えめなピアスを揺らした。
ここ最近で、1番良いコンディションだと思わずにいられないほど、心は穏やかだ。
事実、今さっき計ったタイムもかなり良かった。
「全部、篠宮君達のおかげだなぁ」
こうして早めに練習を切り上げられるのも、グラウンドの端にあるいつもの指定席で、空をゆっくり見上げていられるのも、昨日までは考えられなかった。
「なにがだ?」
「ん〜、いろいろだよ」
そう言った後、早苗は驚いて横を向いた。いつの間にか篠宮圭吾が目線を前に向け、自分の隣に腰掛けていた。
「ここ、いつもいるのか?」
なんでもないように話しを続ける圭吾をチラリと見た後、早苗は体操座りして小さく頷いた。
二人が座っている場所は、グラウンドの端っこにある大きなクスノキの根本だ。
まだ朝なので薄い木漏れ日が、二人の体の所々に陰影を作っている。
「一人で座ってるから何やってんのかと思って」
ぶっきらぼうに、視線を合わせないまま言った圭吾に、早苗は小さく笑った。
「もう大丈夫。心配してくれてありがとう」
「……別に心配なんかしてない」
照れやさんだ。と早苗は言いそうになり、慌てて口を閉じ言葉を飲み込む。なんとなく彼が機嫌を損ねてしまうような気がしたのだ。
「お願いがあるんだけど、聞いてもらっていいかな?」
圭吾が頷くのを見ると、早苗は胸の高鳴りを抑えるように胸の上に手を乗せ、言った。
「またあの家に行っていいかな」
言い終えて、早苗は圭吾を見る。圭吾は唖然として口を開けていたが、しばらくすると戸惑いながらも頷いた。
それを見ると早苗はうれしさのあまり、文字通り飛び上がり、ガッツポーズをする。
「やった! ありがと篠宮君。ほんとにうれしい! あっちょっと待っててね今着替えてくるから一緒に教室行こう!」
言うが早いか、早苗は部室に向かって走りだし、木陰から出ていき、残された圭吾は頭をため息を吐きながらも顔にうっすらと笑みを浮かべ、空を見上げ呟いた。
「今日もいい天気だ」
薄い筋状の雲が、空を二つに割っていた。
「なんで今日はそんなに着替えが遅いんだ!?」
「すいませんすいません〜」
圭吾が空を見上げてからしばらくして、二人は全力で廊下を突っ走っていた。
うれしさのあまり、時間がずいぶんと経っていることを忘れていた早苗は、律義にも部室の前で待っていた圭吾を巻き込んでまた教壇で説教を食らおうとしていた。
「でも今日は副担の須見先生の日だから見逃してくれるかも」
「そういう問題じゃないだろ」
気の弱そうな白髪混じりの須見の顔を思い出し、早苗は言ったが、圭吾は相手にしていない。
やっと教室にたどり着き、息を整えながら早苗は口を尖らせた。そしてドアを開く。
「水城、篠宮!お前ら今日も遅刻か!!」
教壇に立っていたのは、須見ではなく副担の須見ではなく、鬼教師で有名な担任の狩野だった。
早苗はその場に固まってしまった。それは狩野の声に萎縮したのではなく、教室の雰囲気が重苦しかったからだ。
何か嫌なことがある。そう直感した。
「さっさと座れ」
いつもは気が済むまで、説教をする狩野がそう言ったことでそれは確信に変わってしまった。
窓際の席に座った早苗はじっと狩野を見る。手にはじっとりと汗が滲んでいる。
「今日、須見先生がおられないのが気になったやつもいるだろうが……お前らには聞いてもらわなきゃならんことがある」
珍しく言葉を濁した狩野の様子に、クラスは小さくざわめく。
「静かにしろ!」
狩野が一喝すると、幕を引いたように教室は不気味なほど静かになった。
「そうだな。率直に言わせてもらうと……一週間前から須見先生が行方不明だ」
衝撃的な言葉だったのに、教室は静まったままだ。
「何か知っていることがあったら、すぐに俺のところまでこい。いいなわかったな」
それだけ言うと、狩野は足早に教室を出て行った。いつの間にか、予鈴が鳴っていたようだ。
さざ波が打ち寄せるかのように徐々に教室の中に、人の声が聞こえ始め、すぐに教室を埋めつくした。
「おい、マジかよ。なんで死んだんだ?」
「私、須見先生好きだったのに優しくってさ……」
「ていうか狩野の野郎言うだけ言って帰りやがった」
耳に飛び込んでくるそんな声を、早苗は黙って俯いたまま聞いていた。
早苗の中にはもう答えが出ている。証拠も根拠もないが、わかっていた。
よくあること。そして今までわからなかった知識も、彼らに教えてもらったから。
早苗はゆっくりと、右の方を向く。
圭吾が千草と、真剣な顔つきで話しをしていた。
早苗は息を吐き、目をつむった。
犯人は、屍神だ。
授業が全て終わり、にぎやかな教室の中、席に座ったまま窓を見ていた。
いや、正確には窓に映った圭吾と千草を見ていたのだ。
二人は真剣な顔つきで何かを話していたが、すぐに後ろの席の弘久が割り込んで来たので、圭吾が迷惑そうに相手をし始めた。
そして驚いたことに、千草がこちらに向かって歩いてき始めた。早苗は慌てて背筋を伸ばし、臨戦体制に入る。
案の定、千草は怪訝そうな顔をしながらも話しかけて来た。
「水城さん」
「はっはい!な、なにかな」
ガチガチに固まりながら、早苗は目の前に立った千草を見上げた。
「首。突っ込むようなことはするな」
へ? と早苗は間の抜けた声を上げる。しかし、千草は切れがちな目をさらに細めただけだ。
「それから、変なことも言いふらすな」
長い黒髪を揺らしながら千草が去った後、早苗はぽかんと圭吾の席の方に首を向けるが、そこにはもう圭吾の姿はない。
「なに?」
いつの間にかにぎやかさがなくなった教室で、早苗は呟く。
「そんなに私が信用出来ない?」
返ってくる言葉はない。
「そんなに私が知ってることが不安なの?」
そうかもしれない。と言葉を返したのは、胸の内の自分だった。
成り行きで真実を教えてもらったところで、彼らにとってはただの奇妙な隣人なのかもしれない。受け入れられたと思って浮かれていた自分が、早苗にとってどうしようもなく惨めだった。
ひどく沈んだ気持ちで、早苗は席を立ち、練習をするためにグラウンドへと向かって行った。
疲れた。
ストレッチを終えてのそのそと歩き始めた早苗は、背中を丸めた。日が暮れ始め薄暗い中で左右に揺れながら歩く早苗の姿は不気味だが、他の生徒は慣れているのか、大して気にしている様子はない。
ただ、敢えて早苗に話しかけてこようとする人物も見当たらないのだが。そんな中、一人の生徒がうなだれて歩く早苗の肩を軽く叩いた。
「お疲れ、水城」
「あ、藤堂先輩。オツカレです」
三年の藤堂光彦は、早苗の一つ上の先輩で、陸上部の主将でもあり皆に慕われていた。また早苗に対して何の気がねなく会話を出来る校内では数少ない人だ。
「まったく、狩野の奴も今日ぐらい練習を中止してくれればいいのに。俺はもう動きたくない」
両手を腰に当てながら言った光彦は眉間に皺を寄せている。
「先輩、愚痴言ってるとカナさんが来ますよ」
「おっと危ない危ない。また説教されるとこだった」
ガハハっと大口を開け、大きな体を揺らして笑う光彦につられて、早苗も珍しく楽しそうに笑う。
ふぅ。と息を吐いて先に息を整えた光彦は、突然早苗を見下ろした。
「あ、そうだ。帰り送っていこうか?」
「私は大丈夫です。先輩にはカナさんがいるでしょ」
「おいおい、冗談はやめてくれよ。あいつと一緒に帰ったら命がいくつあっても足りゃあしない」
噂の副部長の名前を出すと、光彦は顔をひきつらせて、おおげさに一歩下がる。
だがすぐに濃い顔を真面目に引き締めた。
「ほんと一人で大丈夫か……なんか嫌な予感がするんだよな」
「先輩の勘は当たったことないですから、大丈夫です」
言い放った早苗に、光彦もまあいいか、と言って踵を反し、じゃあなと手を振り早苗もそれに答えた。
「気をつけて帰るんだぞ」
いつも聞いているはずのその一言が、妙に早苗の耳の奥で反響していた。
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