ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
10.思い出と薬
「そうか。蘭は無事だったんだな。」


蘭の無事は、すぐさまコナンがいる阿笠邸にも届けられた。
ちなみに今日は土曜日で、学校は休みである。その為学校で大騒ぎになることは避けられた。

「じゃが、蘭君は何も覚えてないらしいがの…。」
「…覚えてないって?」
「ここ1日2日のことが、さっぱり抜けてるらしいんじゃ。」
「……。」

記憶喪失だということだろうか?
以前にも精神的ショックから記憶を失ったことがあったが、今回もそうなのだろうか?

「警察の方も手がかりは掴めていないと言うしのう。」

哀君のことも分からずじまいじゃ…と、寂しそうに囁きながらコーヒーを入れにいく博士。


そう。灰原哀の行方は分からないまま。
しかも相手が相手だけに、簡単に警察へ通報するわけにもいかない。
明後日には学校も始まるし、灰原の所在についての言い訳を考えなければならない。


…まぁ、灰原のことは既に一つ、とっておきの策を講じてはいるが。


「まずは、蘭の所へ行ってみるか…。」






***

タクシーの中はしんと静まり返っていた。
運転手も私の様子に何らかを感じて、話しかけられないのだろう。ちらちら、と時折こちらに視線をよこすのを感じてはいるが、私はあえて気付かない振りをして、ずっと真っ暗な外の景色を眺めていた。
だんだんと街の中心部から離れ、綺麗なネオンも遠ざかっていく。
大好きだった人達がいる米花町は、とっくに通り過ぎてしまった。


今見ている景色も、二度と見ることは出来ないかもしれない…。


膝の上にある小ぶりなバッグをギュッと掴む。
バッグの中には財布と、以前に少年探偵団のみんなで撮った写真が一枚。そしてこれまで研究してきた解毒剤のデータと、解毒剤の試作品が入った瓶一つ。更に、解毒剤とは別に研究を続けていたある薬が数錠。

博士の家から持ち出したのはたったこれだけ。
他のものは必要なかった。
持ち出す思い出が多ければ多いほど、きっと私のするべきことに躊躇してしまうだろうから。
これから私に訪れるであろう未来に、思い出は邪魔なだけ。
Sherryに戻る私に、灰原哀の思い出は不要だ。


…それでも写真を持ってきてしまった。

きっとこれは未練だろう。
つくづく諦めが悪い、と思う。


一人苦笑いを浮かべると、窓に映る自分の顔が目についた。

灰原哀の顔ではない本当の私、宮野志保の顔。
自分の顔なのに何だか見慣れないような気がして、更に苦笑する。


いつの間にか、灰原哀が当たり前になってたのね。


解毒剤を飲んだのは博士の家を出る前。
相手には灰原哀のことはバレているので、あえて宮野志保に戻る必要はなかった。
しかし、夜間に小学生の姿では、一人でタクシーには乗れないということと、もしかしたら……いや、必ず毛利蘭と顔を合わせることになるだろう、ということが頭にあった。そうなれば、灰原哀の姿のままでは非常にマズイ。
そう考えたからこそ、解毒剤を飲まざるを得なかった。
一応、最悪の場合を考えてこの薬を持って来たのだけれど。


解毒剤とは違うもう一つの薬。
工藤君にも博士にも、誰にも内緒で研究してきた許されない薬。
こんな目的で使うことになるかもしれないとは、全くもって予想外だったけれど。


「仕方ないもの…。」


人として、許されないことかもしれない。
それでもあの優しい人達を守る為には、きっとこうするしか方法は無い。
私の勝手な我儘なのかもしれないけれど。



いつの間にか時計の針は日付を超えていた。

そろそろ工藤君は目が覚めたかしら?
今頃私の勝手な行動に怒っているかしら?

でもごめんなさいね。

これ以上私のせいで、大切な人達を失うわけにはいかないの。
失いたくないの。
これまで多くの人の命を奪ってきた私だけど、貴方達だけは何が何でも守りたい…。





「お客さん、そろそろ目的地の近くですけど。」

運転手の声にハッとして外を確認すれば、確かに見覚えのある景色だった。これ以上タクシーで近づけば、この運転手も命が危ない。

「ここでいいわ。ありがとう。」

お釣りはいらないから、と声をかけてタクシーを降りた。
無事にタクシーが走り去っていくのを確認する。


そして私はタクシーが完全に見えなくなってから、目的地に向かって歩き始めた。