秘密
「こんな仕事なんてやってられない」
と叫んだ男はカウンターテーブルに頬ずりた。
彼の右手にはロックグラスが握られていた。
夜10時から飲み始め、すでに2時間が経っていた。
バーのマスターはカウンターの隅で酔いつぶれた彼をそのままにした。
いつものことだ。しばらくすれば目を覚まし、終電に乗って家路に向かうのだ。
彼はいつものように目を覚ました。
しかし、そのまま酔いつぶれたマネをした。
一つ空けた隣の席の二人の男の話に聞き耳を立ていたのだ。
その男たちが店を後にすると、彼はムクッと体を起こした。
店に入ってきた時の暗かった表情が一変し、明るい笑顔になっていた。
次の日、彼は会社に辞表を提出した。
それから半年が経った。
彼は転職先の研修を終えていた。
国内での研修を終えた後、ヨーロッパ15カ国を含む海外23カ国での研修を終えていた。
海外研修と言っても猛烈な語学勉強は必要なく、専属の通訳が帯同し、
各国の貿易会社の支社を訪問することだった。
彼は同時に転職したやつらをせせら笑った。
彼らは必死に勉強していた。
「そんなことをする必要はないのに」
彼は呟き、笑みを浮かべる。
「俺は秘密を知っているのだ」
彼は任務を受領するために、上司の部屋に入った。
「これが最初の仕事となるが、研修はどうだったかな」
上司は彼の研修期間中の資料を見ながら質問した。
「はい、落ち着きで対応できたと思います」
彼は内心、楽しかったと言いたかったが、それは止めておいた。
「語学はあまり、身についてないようだな」
「おいおい勉強していきます」
「そうか分かった。では最初の任務だ。
これをA国に行って、A国のエージェントに渡してくれ。
こっちには工程表などいろいろな資料が入っている」
上司から二つの封筒を渡された。
一つは緩衝材が使われたハガキサイズの封筒で封がされていた。
もう一つはA4サイズの封筒だった。
彼はA4サイズの封筒から資料を取り出し、一枚一枚確認した。
「分かりました。明後日A国に出立します」
彼は落ち着いて言った。
楽勝、楽勝と内心で唱えていた。
「国外では君の身柄を保護できない。
くれぐれも注意するように」
「分かりました。十分気をつけます」
彼は眉間にシワをよせ、厳しい表情を作って応えた。
「シャンパンを頼む」
彼はキャビンアテンダントに注文した。
「すぐにお持ちします」
彼女は答えた。
すでに3杯目だった。
A国への航空機はファーストクラスが用意されていた。
エコノミークラスに乗ると、返って警戒される恐れがある。
A国で5日過ごした後、エージェントに資料を渡すことになっていた。
彼には緊張感がなかった。
なぜなら、キケンがないと分かっているからだった。
あの日、彼はスパイの秘密を知ってしまったのだ。
バーで酔いつぶれたあの日だ。
彼は酔いつぶれたフリをして、我が国とA国のスパイの話を聞いたのだった。
そして分かってしまった。
今や各国のスパイはすべて通じていると。
だから、キケンはないのだ。
それならスパイになるしかないと思ったのだった。
一週間後、彼は指定されたA国首都のあるビルに入った。
受付は金髪で綺麗な女性だった。
彼はA国で浮名を流した女性を思い浮かべた。
女性から聞いた25階の2015号室のドアをノックした。
「どうぞ」と中から声がした。
ドアを開けると、スーツの男4人が出迎えてくれ、奥に通された。
奥の部屋に通され、そして、いかにも偉そうな男に封筒を渡した。
その男はスーツの男たちに目配せした。
「君をスパイ容疑で逮捕する」
「えっ?なんで?」
彼は訳が分からなかった。
男たちは彼を抑え込み、連行していった。
偉そうな男は電話を取った。
「たった今、お土産をいただきました」
電話の相手は彼の上司だった。
『好きにしてください。
しかし、くれぐれも生きて返さないでください。
秘密がばれてしまいますから』
「分かっています。ありがとうございました。
こんどは我々の番ですね」
『お世話になります。
最近、予算が厳しいので2,3人お願いします』
「分かりました。すでに人員は確保しています。
彼らにも最後は楽しくもななしてやってください」
『分かりました。最高のオモテナシを準備しておきます』
確かに各国のスパイは繋がっていたのだった。