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彼女の死
作:羅幻徒


 帰ったら、妻が死んでいた。


 日の短いこの時季は、夕方になるとすっかり暗くなる。それなのに家の中は真っ暗で、明かり一つ燈されてはいない。だけどその時は、あぁまたか、というくらいしか考えていなかった。
 鍵のかかっていない玄関のドアを開け、無造作に脱いだ靴もそのままにリビングへと向かう。脱いだジャケットと鞄を、ぼんやりと輪郭の浮かんだソファの上に放り投げた。
 火の気のないキッチンを白けた気持ちで横目に見てから、その奥にある部屋に向かう。寝室であるその部屋のドアを開けて、室内の暗さに立ち止まる。目が慣れて、闇の中にベッドの盛り上がりを認めた途端、ため息を零している自分がいた。
 妻には病弱なところがあった。病院できちんと検査をして貰った訳ではないから、本当に病弱なのかどうかは判らない。だけど、連日眩暈だ貧血だと訴え、臥せっているのが大半で、幸か不幸か結婚八年目を数える今も子供がいない状態だ。こんな体質だと知っていたら、もしかしたら、彼女との結婚は考え直していたかも知れない。
 とにかく、彼女が臥せって家事すら疎かにする状況は何度となく経験している。朝食がないのは日常茶飯事だし、友人を家に招くことさえ博打のようなものだ。入院しなければいけない大病なら世間体も立つだろうが、今の状況では、お前の嫁さんは引き篭もりか? とからかわれるのが関の山だ。
 そして今日も、妻はベッドの中にいた。今日は、いつから寝てるのだろう。人が苦労して働いているのに……そんな嫌味も、そろそろ面倒にすらなりかけている。
 おい、と声をかけながら、布団の上から躰を揺すった。反応がないことに、声を荒げたくなる衝動が湧き起こる。それでも何とか堪えたのは、妻を愛しているからというよりも、もう既に諦めが感情の大半を占めているからだろう。もう一度躰を揺すって、それでも反応がないのを認めてから、サイドテーブルに置いたスタンドのスイッチに手を伸ばした。
 眩しくさえ感じる照度にも、妻は身動き一つしなかった。さすがに神経を逆撫でされて、おい、と手荒く蒲団をまくる。横を向いたままの妻の肩に手をかけて……その冷たさに、思わず手を引いた。


 ぼんやりながら見えていた室内は、今ではすっかり闇の中へと埋没していた。陽は完全に沈んでいた。もしかしたら、月明かりは入って来ているのかも知れないが、スタンドが照らすベッドの上しか見えていなかった。
 妻が、死んでいる。
 揺すった反動で、躰が仰向けになった程度だ。目は固く閉ざされているものの、口は半開きで僅かに舌の先が覗いている。
 伏せられていた顔の半分が僅かに青くなっていた。恐る恐る頬を擦ると、僅かに色が退いた気がした。だが、口元を滑った指先に奇妙に強張った感触が返って来て、反射的に手を退いた。
 口中の渇きを覚えて、無理矢理唾を飲み込んだ。自分の歯がガチガチと音を立てていることに、その時になって初めて気付く。
 妻が、死んでいる。
 スタンドの明かりに照らし出された彼女の顔を見下ろしながら、声にならない声で呟いた。


 やっと視線をもぎ離して、深く息を吸い込んだ。
 不意に腐肉のような匂いがしたのに、慌てて手で口を塞ぐ。しかし、その手は先に妻の躰に触れたものだ。弾かれたように引き剥がして、服の袖で痛くなるほど口元を拭った。
 摩擦で熱くなった唇に、何故か怒りがこみ上げてきた。こんなところで死にやがって。面と向かって云ったことなどない、杜撰な言葉が口を出る。表情もなく横たわる妻に対して、力の限り殴りつけたいという衝動が生まれた。
 しかし、そんなことをして何にもならないだろう。むしろ、下手に傷を付けては、自分が殺人者にされてしまう虞すらある。勿論、入念に調べれば、妻の死亡時刻に自分が家にいなかったことは判るだろう。昼間ずっと職場にいたことは、上司を含めた多くが証言してくれる。帰路の電車で外回りに出ていた同僚と一緒になったから、その点も問題ない。行きつけの呑み屋があると誘われたとき、彼は時計を見ていたから、そこで別れたあとの数十分が自宅までの道程に要したものだと立証できるだろう。その誘いに乗っておけばよかったと、今更ながらに後悔する。
 とにかく、どんな些細な疑惑さえ向けられては迷惑だった。自分はこれまで、この女のために不自由極まりない生活を続けてきたというのに、今後得られるであろう昇進にまで横槍を入れられたくはない。同僚が子供の話しをするとき……何処其処に行かされた、渋滞で大変だった、現地に付いても行列だ、今度は何がしのアミューズメント・パークに連れて行かなきゃいけない、運動会だ、授業参観だ、遠足だ……それらを蚊帳の外で聞かされる自分の立場の、何と情けなかったことだろう。女房一人孕ませられないのか? とからかわれたことは、一度や二度のことじゃない。自分ではなく、妻の方こそが欠陥品なのに。
 その時漸く、自分が何をすべきなのかに気が付いた。警察に連絡しなくては。いや、救急車を呼ぶべきだろうか。
 どっちにしろ、このまま放っておく訳にはいかない。この家は、自分が築いた城なのだから。


 携帯電話を取ろうとして手を胸に当てた。ジャケットの内ポケットにしまい込んでいるための癖。しかし、ジャケットはリビングのソファの上だ。仕方なく寝室を出て、リビングへと急いだ。
 ソファの上のジャケットに手を伸ばそうとしたとき、目の端に赤い明滅が見えて顔を向けた。サイドボードの上に置かれたファックス付きの電話機が、留守録があることを伝えていた。リビングの明かりを点けて、もう一度電話機を見る。
 再生ボタンを押してみたが、用件は入っていなかった。着信時間を知らせる無機質な声のあとに一瞬の無音が続いて、ポーリング音が続いただけ。留守番電話だと判って通話を切ったのだろう。伝言を残さなければいけないほどの用件はなかった、ということか。
 苛立ちを感じながら、受話器を取り上げて番号を押そうと指を伸ばす。が、数字の並んだボタンの横にある『留守録』のボタンに再び目が止まって、あることに気が付いた。
 妻は、自然死なのだろうか?
 いつもの不調の延長で死んでしまったのだろうか? もしかして、自殺なのではないか?
 莫迦な憶測だ、と一瞬口元が歪みかけた。けれど、本当に憶測だろうか? という疑問が一気に背筋が冷たくした。
 本当に自殺だったらどうなるだろう。それでも、通報しなくてはいけない事実に変わりはない。だが、ただの病死とは訳が違う。
 受話器を叩き付けて、寝室へと引き返した。ベッドに横たわったままの彼女を見て、蒲団を全部剥ぎ取った。Tシャツ一枚着ただけの彼女が横たわるばかりで、まさかと思った血痕などは見付からない。しいて云えば、股間の部分に失禁の跡がある程度だ。
 次いで、サイドテーブルへと目を向けた。スタンドの下には目覚まし時計しかない。引き出しの中を改めても、殆ど使われないまま放置されたコンドームの箱があるばかり。脇に置かれたゴミ箱の中も、小さく丸められたティッシペーパーが二つ、見付かっただけだった。
 部屋の奥にあるタンスも、引き出しの中を片っ端から改めた。できる限り中身を乱さないようにしながら、その奥を探る。例えば薬の箱。例えば、鏡台の引き出し。遺書が見付かるかも知れない。自殺だと仄めかす何かを書き付けたメモや日記があるかも知れない。自宅で人が死んだ場合には、それが唯の病死や老衰であっても"事件"として捜査されると聞いたことがある。警察が少しでも不信感を持てば、たちまち家中を検められるだろう。そんなとき、薬を飲んだ形跡や遺書などが見付かったら? 自分は、妻を自殺させた男になる。場合によっては、妻殺しの容疑者にすらなり得るのだ。
 寝室を出て、キッチンへと向かった。勝手が判らない訳ではない自分を情けなく思いつつ、そういう状況を作った妻への新たな憤りに舌打ちしながら、引き出しと物入れを物色する。
 領収書をまとめてある書類ケースや家計簿をまくり、折り畳まれた布巾の裏までね何かに突き動かされるように確かめて回った。


 リビングや風呂場、トイレへと続いて、下駄箱まで確認した。しかし、自分が書斎として使っている部屋まで検めても何も見付からず、がっくりと膝を落とす。
 時計を見ると、既に深夜になろうかという時間になっていた。
 何も見付からないことに、安堵感が湧き起こっていた。だが、何も見付からないことにショックも感じていた。
 何も見つからないということは、妻は、彼女は、自殺などではなかったということだ。
 ただ、死んだのだ。その病弱なゆえの寿命を全うしたのだ。そう云えば、寝具は一切乱れていなかった。ならば、彼女自身さえ知らぬ間に、その寿命は尽きたことになる。
 それなのに。
 不意に胸が苦しくなって、天井を仰いだ。喉に締め付けられるような痛みを感じながら、咳くように息を吸い込んだ。喘息のようにぜいぜいと鳴る呼吸を続けていると、目尻から涙が零れて耳の方へと冷たい軌跡を刻んでいった。喉の奥から、悲鳴のような嗚咽が漏れる。
 それなのに……。
 嗚咽と共にそう搾り出しながら、それ以上を口にできない自分がいた。
 妻の死に直面しながら、自分の体裁を守ろうとした。悲しむよりも先に憎んでいた。そんな自分を懺悔したかった。なのに、それができない自分に気付かされた。
 妻である女を孤独のうちに逝かせながら――夫である自分は、それでも、保身を思う自身の醜さを誤魔化そうと、ただ必死に涙を振り絞っていた。














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