世の中は…腐っている。
簡単に犯罪は行われ、人は裏切り、闘い、殺しあう。
そんな世の中に…いったい何を期待すればよいのか…。期待出来る事など何もなかった。
ガチャリとドアが開いた。
中野和彦が帰ってきた。
妻のこずえは冷めきった食事に目をやり、「よしっ」とつぶやいた。
「おかえり!遅かったね!今日は和彦の好きなエビチリに酢豚、チャーハンも作ったよ!すぐ食べるよね?チンするよ?」
とびきりの笑顔で迎えるこずえに和彦は冷めた目をむけた。
「いらない。食って来た。」
そう言い残しリビングを去ろうとする和彦をこずえは必死で止めようとする。
「じ、じゃあ、とっておきのワインがあるのよ!!ほら和ちゃんが飲みたいって言ってた75年もののワイン一緒に飲もう」
こずえは手を震わせながらもグラスにワインをついだ。
「いらねーよ。疲れたからもう寝るわ!」
ワインに見向きもせずにこずえの前を通り過ぎた。
こずえは、ふつふつと湧き上がる感情を押さえきれず和彦の前に立ちはだかった。
「待ってよ!!こんな時間まで何やってたの?最近いつもいつも帰りが遅いじゃない!」
こずえは今帰って来た夫に金切り声で怒鳴る様に叫んだ。
「仕事だよ!毎回言わせるなよ…」
困り果てた様にため息を付き、ネクタイを緩めた。
「…仕事、仕事って…和ちゃんいつもそればかり…嘘なのは判ってるのよ!!」
こずえは和彦のシャツに掴みかかった。
「離せよ!!何を判ってんだよ?言って見ろよ!」
こずえの手を振り払い、開き直る形でソファーにドサッと堕ちる様に座った。
「ポケットに入っていた手紙。麗子って誰よ?携帯の着歴にある麗子って何よ?請求書の伊豆のホテル二名様宿泊料金って何なのよ!」
こずえは明細書を和彦に投げつけた。そして、和彦の言葉に愕然とした。
「そこまで判ってるなら、もういいだろう…」
謝るでもなく、嘘をつくでもなく、俯きながら重い口調で、さらにこずえを失望させる言葉を浴びせた。
「離婚してくれないか?」
こずえの中で何かがガラガラと崩れ落ちるのを感じた。泣きじゃくるこずえの前を無言で通り過ぎて和彦は自分の部屋に入ってしまった。
「いやよ…絶対イヤ…。」
つぶやいてから、すぐに和彦の部屋へ走った。
ドアノブを回した。
鍵がかかっていた。
ドンドンドン!こずえは強く扉を叩いた。
「開けてよ!!どうしてよ…私の何が悪いのよ…一生懸命やって来たじゃない。」
返事のない扉に向かって何度も何度も呼びかけた。
千恵子に対する暴力が始まったのは、和彦の浮気が発覚してからすぐだった。
「和ちゃん。私の悪い所はどんな所でも直すわ!だから…別れるなんて…言わないでよ…」
怒鳴り、叫び、ドアの叩く音、家中に響き渡る音を千恵子は静かに見守っていた。
ドアが少しだけ開いた。
「一度割れたグラスは元には戻らない。わかるだろ?」
「まだ、割れてないわ…落としただけよ。やり直せるわ!」
縋る様に瞳をキラキラさせながら、こずえは真っ直ぐに和彦を見る。
和彦は、そんな目を避ける様にわざと横を向いて話した。まるで吸い込まれそうな目だと思った。
「お前は母親だろ。女じゃない。」
とどめとも言える一言を、こずえに浴びせ掛けると静かにドアを閉めた。
こずえはヘナヘナとその場に崩れ落ちた。
大きな声に起きてしまった千恵子はそんな光景をきょとんとした顔で見ていた。
怖いと言う風には思わなかった。千恵子はただ、不思議だった。
「ねぇママ…どうしたの?」
千恵子の疑問にこずえは黙り込んだ。
「……」
「どうして泣いているの?」
「……」
「どうしてパパはママとお話しないの?」
「……」
「どうして?ねぇどうして?」
「……いいから…もう寝なさい」
こずえは千恵子の肩を掴み子供部屋に連れて行った。
ベットの前で千恵子は振り返り、こずえに言った。
「どうしてパパはママの事が嫌いになったの?」
ぶつける事の出来なかった感情が今、
爆発した。
「うるさいわね!!」
こずえはおもいっきり千恵子を突き飛ばした。
千恵子は体勢を崩しベットの角に頭をぶつけた。
「!!!!!」
こずえは言葉を失って大きく口を開けたまま佇んでいた。
ぐったりとして千恵子は動かなかった。
そして、ゆっくりと千恵子の頭部から、血が床に流れた。
千恵子も驚いた顔をして口は半開きだった。
こずえは両手で口を押さえたまま、子供部屋から出た。
「……あたし…千恵子を…殺し…ちゃった…」
こずえはボーッとしながら和彦の部屋に立った。その時、ハッと思いだした様に再び目を輝かせて扉を叩いた。
「和ちゃん!私、もう母親じゃなくなったわ!!一人の女よ」
反応のない部屋からは何やら暴れているようなバタバタと床に何かを叩きつける様な音がしていた。
「和ちゃん?開けて。どうしたの?」
ドアの向こうから怒鳴り声が聞こえる。
「うるせー。むこう行ってろ!!」
こずえはゆっくりとリビングへ戻った。
何分たったのだろう?こずえはバタバタと暴れているらしき音を漠然と聞きながら、あぁ〜千恵子を殺しちゃったなぁ…などと、まるで手を滑らせてグラスでも割ってしまったみたいに考えていた。
しばらくすると和彦の部屋は静かになった。
カチャ
和彦の部屋のドアが開いた音がした。
こずえはゆっくり振りかえった。
大き目のボストンバックを左手で持ち、右手にはこずえの貯金通帳が握りしめられている。
「ちょっと!それ私の…」
こずえが言いかけた、その時だった。
「離婚届けだ。サインしてくれ。」
こずえは首を振った。
「もう一度、これが最後だ離婚してくれ」
「…いや。」
和彦は溜息きをついた。
「絶対イヤよ。あなたは私を捨てて、あの女と楽しもうだなんて許さない!」
和彦はポケットに通帳をしまうと、こずえを抱きしめた。
「え?」
嬉しいのか、悲しいのか、こずえは顔をしかめた。
「……何で?…」
「………。」
こずえの言葉を無視して和彦はゆっくりと体を離した。
崩れ落ちるこずえを見下ろした。
「和ちゃん……あたし…あのね…あたしは…ただ…愛されたかった…だけなんだよ…」
聞こえるか聞こえないかぐらいの微かな声ではあったが、こずえは和彦の目を見て話した。
ひさし振りだった。こずえが何を言っても和彦は目を見て話そうとはしなかった。
「また…三人一緒だね…」
「……?」
和彦には意味が判らなかったが、まぁいいか、と横たわるこずえを冷めた目で見つめた。
黒い革の手袋に伝わるじんじんと痺れる様な…刃物が体を突き刺した独特の感触が和彦の手にはまだ残っている。
「…終わった。さよなら、こずえ」
和彦はこずえの腹に突き立てた包丁を両手で抜くと用意しておいた白い布に包丁を包みボストンバッグへしまった。
和彦はすぐに携帯電話を取り出すと女の所へ電話を掛けた。
「おう!バッチリ。バッチリ。ちゃんと殺したから。ん?愛してるのはお前だけだって!わかってるよすぐ行く。」
そんなやり取りをして電話を切った。
「は〜疲れた。」
和彦はそう言いながらリビングのテーブルの上に並べてある料理に目をやり、ドカッとソファーに座った。気分良さそうに、こずえの通帳を眺めた。
「しばらくは海外にでも行くか!」
ドラマで見かける悪党の様な悪びれた不敵な笑みを浮かべた。
それから、注がれたままになっていたワインを飲み、エビチリの海老を手で摘むと口の中へ放り込んだ。
「美味…グフッ!ウワー。グッアー!!こっこずえ…まさか…」
和彦はもがきながらも必死で、こずえを見た。
嘲笑う様に微かに微笑みを浮かべているような顔で死んでいるこずえの顔を和彦は矢を射る様に睨み付けた。
両手で喉を押さえ左右に転げ回る。喉が焼ける様に熱い。
こずえは料理とワインに毒を仕込んでいたのだ。
私を捨てて他の女と楽しく暮らそうだなんて絶対に許さない。他の女に取られるくらいなら…。
やがて和彦は静かになった。
千恵子は子供部屋で…
こずえは和彦の部屋の前で…
和彦はリビングのソファーの横で…
それぞれ何故私が?俺が?と言う思いを胸に殺された。
全く声のしない部屋でテレビの音だけがいつまでも響いていた。
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