番外編その一 冬きたりなば 前編
何年ぶりだろうか。昨夜から降り続いていた雪は、朝方に素敵な景色を作っていた。外を見れば一面まっしろ。けっこう積もっており、すぐとけてしまう感じにも見えない。
めずらしい光景に、私はわくわくした。これはきっと童心にかえる大人も大勢いるはずだ。そう考え、ああ、身近にいたと思いあたる。
リビングから外を眺めていると、インターホンが鳴った。
うわさをすれば姉さんだ。なんというタイミング。いやそれよりもこんな早い時間にいったい何の用なのだろう。私は首をかしげながら玄関のドアを開けた。
顔を見合わせた瞬間、何かを投げつけられる。頬に当たり、その衝撃でびくりと体がこわばったが、それも一瞬で、投げてきたものが私の胸を伝ってべしゃっと落ちた。
足もとを見る。割れた白いかけらが転がっていた。雪だまだった。
「姉さん」
それしか言えない。
姉さんは、はしゃいでいた。
「雅ちゃーん、遊びましょ」
猫なで声で誘ってくる姉さんを無視し、私はリビングに戻った。玄関から入り込んだ外気が寒い。寒くてたまらない。馬鹿は風邪もひかないうえにつける薬もないと言うし、こういう日は犬も庭を駆け回るらしいので、気温の低い日に、そうやってはしゃぎたくて駆け回ってしまう人間は世のなか一定数いるのかもしれない。
ソファに座ると、姉さんも遅れて入ってきた。にやにやしている。
「今日は休みだよな?」
姉さんの確認に、私はうんざりした顔でうなずいた。これは絶対いやなことに付き合わされる。今日一日、おそらく疲労との闘いになるのではなかろうか。
いやだ。
「あのさ、姉さん」
そう口にしたとき再びインターホンが鳴った。
今度は誰だと画面を確認しに行き、驚く。応答はせずにそのまま玄関へ向かい、ドアを開けた。
「雅さん、おはよう」
にこにことした表情で、聡さんが立っていた。
「早朝にお姉さんが連絡くれて。雅さんの家で雪だるま作るから、材料もってこいって」
そう言って笑いながら彼が出したのは、バケツ、軍手、木の枝が二本に、にんじん一本。家庭にあるものや、買えば済むものもあるが、枝はいったいどうやって調達したのだろう。朝っぱらから外をうろついて手ごろなものを探してくれたのだろうか。
わざわざ用意してくれただなんて、なんてひま、いや、心にゆとりのある人だろう。だがそれよりもすべきなのは謝罪だった。
「すみません、ごめんなさい」
とうていその二語では謝りきれないが、姉さんの馬鹿に付き合ってもらって申し訳ない気持ちをあらわす。せめてもの誠意が届いたのか、それとも最初からまったく意に介していなかったのか、彼は大丈夫という具合に首を振って示した。おまけに、庭で準備をはじめている姉さんのあとを追い、彼まで「よーし」と気合を入れて、はりきりだしたではないか。
「つららだ!」ふいに姉さんが声を上げた。
寒かったが私も庭へ行き、つららを見る。屋根から垂れ下がったものが何本もできていた。
「ガキの頃はさ、大人になったら冬山に登って現地調達でカキ氷を作って食うんだと夢見ていたもんだよ。子供の時分で手が届くのは、つららが精一杯だった。つらら食うのは甘えだな。つららは甘えだ」
よくわからない理論を展開してくれたが、それより姉さんの頭と腹は大丈夫なのだろうか。確かに子供の頃は深く考えず口に入れたくなるものかもしれない。とは言っても、つららはおなかを壊しそうでこわい。そして汚い。なんせ屋根の汚れを結晶化した、光り輝く奇跡の一品である。
頑丈そうなつくりの姉さんだが、さすがに年齢を重ねれば無理もできないだろうから、つららを食べたという事実は思い出として胸の奥に仕舞っておいてほしい。
「食べないでよ」
じっと我が家のつららを見ている姉さんに、私は念のため言っておいた。
私たちの後ろでは、聡さんがせっせと雪を集め、小さな丸をこしらえていた。と思ったら、徐々に大きくしている。姉さんと私がしゃべっているあいだも、彼はずっと一人で雪と格闘していた。
言いだしっぺのくせに姉さんは動かず、聡さんががんばっている。彼は、めげず、あきらめず、ねばり強く地道にこつこつという作業を苦もなくやれる。出会ってから今までで、立証済みだ。
と、そこへ、姉さんの急な呼びかけが入った。
「雪合戦しよう!」
私は無言、彼も無言。そりゃそうだ、いったい彼はいま何をしていたと思っているのだろう。誰かの、雪だるまを作る発案を一人で実行してくれていたというのに。しかも荷物まで持参だ。これではなんのために彼は呼び出されたというのか。
「聡さん、中に入りましょ」
ここは寒い。彼のために温かいお茶をいれてあげよう。それから軽い食事も。早朝から借り出されたのだ、ゆっくりしていってほしい。
「よーし、とりあえず何か腹にいれたら雪合戦だな」
姉さんの発言に、彼と私は息をぴったり合わせることができた。
つららでも食べたら、と。
彼が身につけているのは高そうなマフラーと手袋。
いっぽう姉さんは、ロシアで買ってきたのかと問いたい形の毛皮の帽子に、私が愛用している湯たんぽを抱き込んでいた。
結局、姉さんの思い通りに事が運び、大量にできてしまった雑炊を三人で満腹になるまで食べたあと、庭へ戻ることになった。
しかし三人でどうやって雪合戦をするのだろう。全員がやる気あるなら遊べるが、私は面倒だからあんまり乗り気じゃないし、彼は私に向けて投げたくないと雑炊を食べている段階で宣言していた。姉さんだけが、闘志に満ち溢れている。
まあしかし、雪だまを作らなければ始まるものも始まらない。私は聡さんと一緒にしゃがみ、二人で雪に触れた。姉さんも湯たんぽを手放し、雪だま作りをしようと動いている。
こんなのんびりとした流れで雪合戦は始まるのだろうか。疑問に思うも、口にはしない。
私は自前の手袋ではなく、その場で彼の持ってきた軍手を借りた。雪を触り続けるには不向きだと考えていると、彼が私に微笑み、準備が整うまで暖房のきいた室内で待っているよう言ってくれた。彼がそうやって気にかけてくれるのが、うれしい。
「ううん、ここにいる」
一緒にいたい気持ちを伝えると、聡さんは私を無理やり立たせ、自身の首に巻いていたマフラーを私にかけてくれた。
「雅さんの手が冷える。僕が丸めておくから」
優しい口調に、ちょっとときめく。ありがとう、と伝えると、彼は腰をかがめて作業に戻った。私もつられてまた座る。ぴったりと隣でしゃがむ私たち。自然と何度も目が合って、そのたびに笑みがこぼれる。寒いけれどすぐ近くの距離だから、互いの体温を感じ取れ、それもまた幸せだった。
「ちょっとそこ、いかがわしい鬱陶しい、雪がとける!」
わあわあ騒ぐ外野にもめげず、聡さんはせっせと雪だまを作り出してくれた。無言で量産する姿はどこか不気味で、けれどその不気味さは懐かしい感覚でもあった。周囲をかえりみず、ひたすら行動を起こせる姿は、彼の特徴だ。ストーキング能力の底上げにも貢献していたと思われる。
「坊ちゃんあれだろ。カニの身を延々とむしり出す係だろ」
こちらを眺めていた姉さんが彼に声をかけた。そのあと、雅は食うのが専門だよなと鼻で笑われる。失礼な。だが、はずれでもない。確かに彼は、カニの身をはじめとして食事のあれやこれやらとお世話をしてくれるのだ。カニは、彼が皿に身を溜めてから、それをこちらに皿ごと渡してくれる。至れり尽くせりで申し訳ないが、おいしいと笑顔で食べていると、彼もうれしそうに笑むため、なんだかんだで問題ない。たぶん。
「僕が手ずからむいたものを食べさせてあげたいんです。でもカニをむしったあとは、雅さん、手をつないでくれません」
彼が少し悲しそうに微笑むので、そんなことない、と私は否定したが、自分でも説得力に欠ける物言いだというのはわかっていた。再び否定して、なんとか場をおさめようとすると、彼が私に顔を寄せてきた。
「いいんです。どんな雅さんも僕は好き」
じっと見つめ、なぜか悲観たっぷりの言い方で告白された。
べつに勝負ではないが、うれしいことを言われたらちゃんと返してあげたい。私だって負けていられない。
「私も、どんな聡さんでも好き……になりたい」
できれば、そうありたい。でも変質者に返り咲くのは勘弁である。
私の言葉を聞いて、姉さんがげらげらと笑い出した。
「おい坊ちゃん聞いたか! 最後を努力の範囲で締めくくったぞ」
私は聡さんに目を向ける。彼は真顔で私を見つめたあとゆっくり顔を背け、黙々と雪だまを両手でこしらえる作業に戻ってしまった。