掌編――マッチ
誘導灯の点滅する扉を開けると、男は周りを伺いながら足を踏み入れた。かちり、と後ろで鍵が閉まる。
落ち着いた緑色の壁紙とシックな木の扉は男にとっては拍子抜けだったようで、ネクタイを緩めながら無造作に靴を脱ぎ捨てた。
左手にある扉はトイレだった。ここもパステルグリーンの柔らかな色調だ。
右手の扉は浴室と脱衣所。大きな鏡とゆったりしたバスルームは、まるで銭湯かなにかのようだ。
真正面の扉を開ける。濃い茶色で統一された家具と森をイメージした壁紙が実に落ち着いた雰囲気をかもし出している。
フローリングの床、十二畳ほどだろうか、その中にテレビと冷蔵庫、ソファセットとベッドがそれぞれ邪魔にならないように配置されている。
テレビをつけると、ちょうど二十三時からはじまるニュース番組のテーマソングが流れてきた。
黒いバックパックを肩から下ろし、男はソファに身を沈めた。じんわりと腰の痛みがなくなっていくのを感じながら、駅からずいぶん離れたこのホテルまで歩くのは苦行以外の何者でもない、会社の経理担当のいじめに違いない、などとぼんやり考える。
さぞ居心地が悪いだろう、と腹をくくってやってきただけに、部屋の豪華さはうれしい誤算だった。自宅よりもゆったりしていて、何一つ困ることなく、しかもどれだけタバコを吸おうと文句を言われない。自分だけのスペースであることが、どれだけ心の安らぎであることよ。
ガラステーブルの上の灰皿を引き寄せて、男は胸ポケットからタバコを取り出した。灰皿の中のマッチ箱を取り上げ、火をつける。今時マッチ箱なんて珍しい。ライターに押されてすっかり見かけなくなったマッチ箱だっただけに、なぜかいとおしく感じた。
今日だけは、夜遅くに風呂に入ることも、湯船にたっぷり湯を張ることも、盛大に湯をこぼすことも、文句を言われずに済む。温泉旅行に来た気分になって、男はさっそく風呂の準備を始めた。風呂に入って、風呂上りのビールをひっかけて、そのままベッドに転がり込んで寝ることを楽しみに。
翌日、男はすっかりリフレッシュした気分と共に自宅に戻ってきた。今後も時々出張にかこつけて、自分だけの贅沢空間を楽しむことを心に決めて。
いつものように迎えてくれた妻に上着とネクタイを預け、狭い風呂へ追い立てられても文句一つ言わず、お仕着せの趣味の悪いパジャマに着替えて上機嫌でリビングに向かう。
食卓に座って食事を始めた男の前に、極上のスマイルをたたえて妻は座った。そして。
「ねえ、あなた。どこに泊まったの?」
妻が差し出したマッチ箱には、『HOTEL エンペラー』の文字が踊っていた。