掌編――煙
空が青い。風一つない五月晴れ、という言葉が似合う日だった。
川岸の向こうで、煙突から白い煙がまっすぐ上がる。
それを見上げて、ケイは胸ポケットからタバコとライターを取り出した。
「こんなところにいたの」
声をかけてきたのは黒服に身を包んだ幼なじみのマイだった。
「どうもいたたまれなくてね」
そうだろうね、と短く答えて、マイはベンチに座った。
「見舞いにね、行ったんだよ。あの日」
煙突を見上げて、マイはぽつりぽつり話し始めた。
「あんな状態だと知らなくてね……。あの子、いつもと同じように振舞ってくれたよ。つらかったろうに」
タバコを一本引き抜いて、のろのろとケイはくわえた。
「あの子さ、笑って言うんだよ。晴れた日に死にたいって。あたしは究極の方向音痴だから、雨や曇りだと迷うんだって。だから、雨の日には死にたくないって」
火をつけようとしてライターを打ち鳴らす。が、風もないのに火はすぐ吹き消された。
「そのあと急変したって聞いて……」
早苗はそのまま逝った。雨の日に。
マイはしばらく黙っていたが、立ち上がって背を向けた。
「あの子にね、頼まれたんだ。あの人は料理も洗濯も料理もぜんぜんできないから面倒みてやってくれって。チキンライスが大好物で、セロリと人参が大嫌い。トランクス派で化繊はだめ、風呂上りのビールがないと機嫌が悪い。それから……庭の桜を大事にしてくれって」
庭の桜。それは、結婚してすぐに買ってきた、早苗が一番大事にしていた挿し木の鉢だった。
大きく育った木の下で花見をしよう。そう、約束してから何年も経っていないのに。約束が果たされることはもうない。
「落ち着いたらまた連絡するよ」
足音が遠ざかる。
ケイはようやくタバコに火をつけた。深く吸い込んで息を吐くと、煙は不意に吹いてきた風にかき消された。
望みどおり晴れた日に荼毘に付された彼女は、迷わず登っていけただろうか。そう、思いながら、ケイはもう一度深く煙を吸った。
吐き出した煙は、まっすぐ空へと登っていった。